サマーサンバ
土曜日は快晴だった。
放射冷却現象と呼ばれるほど寒くはないが、それでも細い樹里は一枚多めに重ね着をするほどだった。
自分と近い名前を持つ耕助の愛車に「不思議だね。」と笑顔を見せた樹里はためらいもなく助手席に座った。そこで耕助はあることに気がついた。
口元に手を添えて考え、スマートフォンを取り出した。
「樹里、身長はいくつだ。」
「えぇ? 多分百四十一㎝くらい?」
「おっ、ギリギリか。」
「なんで?」
「チャイルドシートとか、子供が乗るのにつけるもんだよ。百四十以上だったら大丈夫なんだよ。あっぶねぇ。すっかり忘れていた。」
「わたしがおねぇさんでよかったね。」
「ああ、たすかったよ。」
あらためて耕助は子供を育てるために使う目配りの多さにため息が出た。
車中で流れる音楽は特に考えずに耕助の好きな曲を適当に流していたが、樹里は気にすることなく、持ってきたカメラで遊んでいた。
「なんで、みんなが使うカメラにしないの?」
「ん〜? こっちの方が映りがいいからかなぁ。」
耕助は高速道路に上がる路線へとハンドルを切った。高架の上の高速道路からは遠くの山並みがモザイクのように赤、黄、緑と染まっているのが眺めることができた。
パシャ。
キレの良いシャッター音が聞こえた。横目で音がした方を見ると、真面目な顔で樹里がファインダーを覗いて、レンズをこちらに向けていた。
「うまく撮れたかなぁ?」
「俺なんてとっても面白くないだろ。」
「ううん。いいの。」
なにがいいんだか?
車が旭川方面に向かうと途端に牧場や広い畑が道路の両脇に広がっていた。
「ひろいねぇ。」
「ああ、広いんだ。」
ジャニス・ジョプリンの塩辛声が車内に響き、樹里が外の風景に飽きてきた頃、耕助は高速道路を降りた。
途端に道路は森の中の一本道となり、強い風が吹くたびに大きな枯れ葉が舞っていた。
「すごい。リスとかいそう。」
「ここらだと、熊もいるぞ。」
「それは、会いたくないかなぁ。」
宿泊施設を抜け、峠の頂上に着いた。耕助は展望公園の駐車場に車を止めた。
樹里もすぐに降りて、大きな伸びをした。
「すっごーい!! ひろーいーよー!!」
もしかすると初めて聴くかもしれない樹里の歓喜の叫び声に耕助はおどろいた。慌てて木の柵に登って遠望を楽しむ樹里の姿にカメラを向けた。
「樹里、こっちに来い。」
「なに? あっー!! ネコバス!!」
峠の名にちなんでペイントされたバスはある年代からは子供の頃は一度は目にしたことがあるだろうと言えるほど、有名なアニメ映画のキャラを再現していた。
駆け寄った樹里は飛び跳ねて喜んでいた。耕助はここでフィルムを一本使い切るくらいの勢いで写真を撮った。
「いいね!!」
「いいだろ?」
車に戻った二人は頷いた。
曲は変わり、BABYMETALになっていた。すっかりお気に入りになっていた樹里は口ずさみながら、ご機嫌だった。
国道十二号線は道産子の耕助の感覚からしても、とても広い国道である。
ここを通り抜けて、まずは農家レストランの予約時間に間に合わせようと車を急がせた。
有名な丘の連なりから少し離れたところの山中にある瀟洒なレストランは、近隣の契約農家から野菜や肉を仕入れるフレンチレストランだった。キョドキョドと胸の前に手を合わせて落ち着かない樹里の手をつないで耕助は中に入った。
「おいしいねぇ。」
頑張ってよかった。
耕助は自然にそう思えた。樹里を引き取ってからまだ半月も経たないが、手放しで喜ぶ顔を見れただけで、耕助の心は満たされた。ワインが欲しいところだが、運転があるので、炭酸水を頼んでいた耕助がグラスを傾けていた。
すると、樹里が苦手な人参のグラッセをフォークに刺して耕助に突き出した。
「あなた、これ。」
それほど大きくない声だった。
しかし、各テーブルの話の谷間、『天使が通った』と呼ばれる空白の瞬間に樹里の幼い声が響いた。
耕助にとってはまるで、『魔女が通った』ように感じた。
傍目からは親子のように見える二人だったが、少女が連れのいい歳した大人の男性をあなたと呼んだ。
この違和感は幾人かの目を惹きつけた。
「じゅ、樹里、好き嫌いはよくないぞ。」
「うっ、でも、甘くないのだったら食べれるんだよ。」
「それは知っている。普通は逆だよな。」
「うん。あなたの作る煮物はおいしいもん。」
また、あなたと呼んだ。そして、フォークを握った手は突き出したままだった。
「俺の皿に置け。」
「うん。」
耕助は周りの目を気にせずに黙々と食べることにした。
車に戻ると、耕助はシートに埋もれるように寄りかかった。
「おいしかったね。」
「ああ…そうだな。」
後半は味なんてよくわからなかった。
やましいところがないのだから堂々としていればいいことはわかっているが、自分と樹里がもう少し、似ているのだったら黙っていても周りは不審には思わないだろうに。
大きなため息をひとつついたところで、耕助は樹里に美瑛の丘を見せに車を回した。
小麦の収穫時期だったのか、道を占領するくらいに大きなトラクターが鈍牛のように動き、透き通った青空のもと、畑の色を変えるべく、のろのろと巨体を進ませていた。
どこを切っても一つの絵になる。
そして、それが意図せざる人の営みから始まったところに耕助は惹かれていた。
「きれいだねぇ。絵みたい。」
「まったくだな。」
月並みな言葉が樹里の口からこぼれたが、なぜか耕助の心にそれが染み込んだ。
帰り道、プレイリストはシャーデーやノラ・ジョーンズなどの心地よさ重視の曲目に変えた。
はしゃぎすぎた樹里は助手席で後部座席にあったクッションを抱えて眠りこけていた。
パーキングエリアによった耕助は気持ちよさそうに目を閉じている樹里の姿を一枚撮り、起こしてトイレに行かせた。