Change The World
お待たせしました。
冬の朝の空気の匂い。冷たい空気に混じる何かが燃えたような匂い
樹里の初めての料理です。
調理実習はポテトサラダを作った覚えがあります。
耕助と基本のカレーを作ります。
カレーは比較的失敗しにくい料理ですが、香辛料の量を間違えるととんでもないことになりますね。
樹里は祖父に行ってきますをして耕助と外に出た。
淡い水色の空の下、冷たい空気が頬に触れた。
「天気いいね。」
「ああ。」
嬉しそうに空を見上げる樹里に耕助もつられるように目をむけた。冬の朝日特有の冷たい陽の矢を放つ朝日の光に目を眇めてうなずいた。
「ねぇあなた、ちかくで野焼きをしているのかな?」
「どうしてだ?」
「なんか、こげくさい。」
樹里は鼻をしかめてふんふんと空気を吸い込んだ。
「ああ、冬の匂いだな。」
「ふゆの? におい?」
「ああ、冬のはじまりの晴れた日はよくこんな匂いがするもんだ。」
「ふうん?」
「それより野焼きってよく知っているな。樹里は博多の街中の生まれだろ?」
「ん。朝子お母さんの家で知ったの。」
そういえば、義姉さんの家の周りには畑があったな。
耕助は義理の姉の実家を思い起こした。朝子の家は福岡でも畑や田んぼが多くある地域の地主だった。きっと二人で散歩にでも出た時にそんな話題が出たのだろう。
耕助は我知らずに微笑みを浮かべていた。
「今日は調理実習なんだよ。」
「そうか。気をつけろよ。」
「ん。クッキーだったら、あなたにあげるからね。」
叔父を見上げる樹里の瞳はまっすぐに彼を捕らえていたが、くちびるは急カーブで笑みを浮かべていた。
「何か、欲しいものでもあるのか?」
「…別にないけど…、うまくいったらこんどの土曜日の晩ごはんはわたしに作らせてね。」
「ああ、うまくいったらな。」
「やくそくだよ!」
耕助は満面の笑顔の樹里にうなずいた。
「りーさん、おはよー!!」
「ほら、来たぞ。」
「うん! じゃあ、行ってきます!! おはよう、ゆりかちゃん。」
樹里は耕助に手を振り、友だちのゆりかに向かって駆け寄って行く。耕助は彼女を見送り、地下鉄駅に足を向けた。
四時間目、給食前に家庭科の授業があった。
樹里は一番の友だちのゆりかとは違うグループで、以前に彼女の背中に雪玉をぶつけた男の子と同じだった。
「おれはからい方が好きなんだよなー。」
彼は得意げにマッシュポテトの入ったボウルの中に胡椒を振りかけた。
「やめなよー。他の人も食べるんだよ。」
「いや、ゼッテー、うめーってば!!」
女の子の言うことを聞かずに胡椒を握った手を振りかざすが、胡椒の小瓶を握ったその親指の爪が中ぶたに引っかかった。
ポン
小さな破裂音とともに、胡椒の中身が全てボウルにぶちまけられた。
「あっ?」
間の抜けた声とともに白いジャガイモの塊が灰褐色に染まった。
昼休み、由貴のためのカメラ講義を終えた耕助は永倉と連絡を取り、街中の小学校そばにある焼き鳥丼で有名な店にランチに入った。
炭焼きの焼き鳥の香ばしい香りと共にタレの濃厚な味を白飯と共にかっこんだ耕助は後輩に愚痴った。
「まさか、自宅だとは思わなかったぜ。」
「で、どうしたんですか?」
「仕事だからな。きちんとドライバを入れて彼女の撮った写真をパソコンに移してきたよ。」
「そうですか。で、どうでしたか?」
「ああ、露出のミスとか、シャッタースピードが遅くてブレはあったけど、構図とかはうまかったな。やっぱりセンスがあるんだな。」
「まあ、それもそうですが、おうちはどうでしたか?」
「なんだ、そっちか。普通だったぞ。」
「ああ、そうでしたか。」
永倉はつまらなそうに話を断ち切った。
「なんだよ?」
「どうでもいいですよ。土方さんはそういえば、そういう人でしたね。忘れていましたよ。」
「なんだか知らんが、とても侮辱された気分だぞ。本社のパワハラやセクハラの担当に電話を入れていいか?」
「入れてもいいですよ。そうして、土方さんのヘタレを全社的に自分で広めてください。」
「ぐぬぬ…」
耕助が児童館に樹里を迎えに行くと、彼女はテーブルに向かって勉強をしていた。
「樹里!」
「あぁ…ん。いましたくするね。」
耕助の呼び声に初めて気がついたように急いで帰り仕度をした。鏡の前で帽子の角度をチェックし、身だしなみを整えた樹里は耕助に駆け寄った。
「ごめんね。」
「いいよ。さあ、帰るか。」
「ん。」
「ありがとうございました。」
「またね。」
耕助たちは残ってくれていた指導員のお姉さんに挨拶をして表に出た。
暗い帰り道で二人が吐く白い息が目立つ。耕助の胸のあたりにある樹里の頭が何度か右隣の耕助を見上げようとして、また正面に向けられていた。
「…失敗したのか?」
「うちのせいじゃなかっ!! …ん。男子がこしょうを入れすぎて…食べられなかった。」
「胡椒? クッキーじゃなかったんだな。」
「ポテトサラダだった。 …うち、あなたん作ったゴロゴロしたほうが、好いとんにグループの子がたは潰れておった方がうまいっていうし、うちがおかしかろうもんいうても、一人だし…。けっきょく、みんなん潰して… 最後はあのアブラムシがつやつけて、みんなダメにしてしもうた。」
樹里は耕助にぶちまけるように早口で博多弁混じりに訴えた。
「…? まあ、仕方がなかったな。」
「ん…」
樹里は黙々と足を進めていた。耕助は深くため息をつき、冬のカシオペアが浮かんでいる夜空を見上げた。
「汚名挽回といったところで、作ってみるか?」
「?……!? いいの!? ほんと!?」
「ああ、その代わり、俺が隣で監視しているからな。」
「ん!!」
「あと、カレーを作ろう。」
「えっ!? む、むずかしくない?」
「何を言っている? 小学生の料理といったらカレーだぞ。」
「そ、そうなの?」
「ああ。」
朝の急カーブの小悪魔スタイルとは違うが、満面の笑みで樹里は耕助を見上げた。
耕助の左のポケットが急にひっぱられた。
「あったかい。」
樹里が自分の右手を彼のポケットの中に入れていた。
「甘えん坊め。」
「甘えさせる方がダメやん!」
「おまえ、なにを言っているんだ?」
土曜日の朝、早いうちに家の掃除を済ませ、樹里の祖父はベランダのそばでメガネをかけてむかしの小説を読んでいた。
その頃キッチンでは耕助が見守る中、樹里が包丁を握りしめた手が震えていた。
「樹里。」
「なに?」
「ピーラーを使えよ?」
「…いいの?」
「あ、当たり前だろう。」
こくりと頷いた樹里は包丁をゆっくりと下ろし、ピーラーを手に取り、ジャガイモの皮を剥きはじめた。
「いもはデコボコして包丁は難しいぞ。」
「うん。でも、ジャガイモって男の子っぽいよね。」
「うん? ああ、そんなことを言っていた女がいたな。」
耕助が由貴の言葉を思い出し、何気なく口にした言葉に樹里は手を止めて、鋭い動きで耕助に向き直り、彼を睨みつけた。
「あんた、どんおなごんこつ、いいよった?」
「えっ!? えぇ…? なに、その反応…」
包丁を持たせなくって、本当に良かった。耕助は首筋に冷たい気配を感じてこめかみに冷や汗がたらりと落ちた気がした。
「で?」
「し、仕事先だぜ。」
「そう。」
興味がなくなった樹里はイモの皮をむいた。
「むいたイモは水に浸けておくといいんだ。アクを抜くんだ。」
「ふうん。」
耕助の用意した水の張ったボウルに樹里はジャガイモを投入した。その後もピーラーを使って人参の皮むきを行い、下準備を終えた樹里は耕助を見上げた。
「なんだ?」
「あなたの作り方を教えて。」
「俺のか? けっこう適当なんだけどな。まあ、いいや。」
「ん。あなたの味にしたいの。」
「そこまでこだわることはないぞ。樹里は樹里の作りたいように作ればいいんだぞ。」
「だって。それがいっしょにいる家族でしょ?」
「…ああ、そうだな。そうか。うん、わかった。」
耕助は樹里から目をそらせて、作り付けの棚の扉を開けた。中には缶詰がたくさん入っていた。その中から耕助はトマト缶を取り出した。そして冷蔵庫の野菜室からニンニクを取り出した。
ニンニクのかけらを二つ皮をむいた。つるりとした白い肌を出したニンニクを耕助はまな板の隅に置き、菜切包丁の腹で潰し、さらに細かく刻んだ。
「俺はな、ニンニクを入れるんだ。香りづけにいいぞ。」
「ん。」
寸銅なべを火にかけるとオリーブオイルとニンニクを入れ、ゆっくりと温めるとニンニクとオリーブオイルの香りが立ってきた。
「いい匂い。」
「だろ。ここで玉ねぎを入れるんだ。」
彼の指示で樹里は小さなザルに入れていた玉ねぎを鍋に空けた。ジュッという音が聞こえた。耕助はすぐにシリコンのヘラで玉ねぎをかき混ぜた。
「すぐに火を細めて、ゆっくりと玉ねぎを炒めるんだ。手を休めると焦げるから気をつけるんだぞ。」
「うん。」
耕助からヘラを受けとった樹里の小さな手は動きを止めることなく玉ねぎをかき回していた。腕が疲れてパンパンに張ってきた頃に、耕助はニンジンや芋を投入し、樹里と代わった。
「軽く炒めたら、ここで肉を入れる。豚バラ肉の脂肪のところ、白いところだな、ここが透明になるまで炒めたら、トマト缶を入れるんだ。」
「うん。」
「でもな、これだけじゃあ、こげつくから水も入れる。そしてローリエの葉っぱを少し入れてあと、バジルを適当に振りかける。」
言葉通り、耕助は水をカップで二杯注ぎ、二つのハーブの入っている袋や瓶から適当に入れた。
「秋はトマト缶の代わりにキノコをこれでもかってくらい入れるんだ。だから、オリーブオイルの代わりにバターに代える。コクが出るんだ。」
「ん。わかった。」
「これでしばらくお休みだ。」
くつくつと鍋のカレーが煮える中、耕助はスツールに腰をかけた。樹里も耕助の膝にちょこんとおしりを下ろした。羽を載せたように暖かい重みがかかってきた。
「重いよ。」
「あなた!? 失礼だよ!」
「まあ、それだけ成長したってことだな。」
「…ん。」
恥ずかしそうに頷く樹里の背に手を回した耕助に寄りかかった。
「このあいだから甘えん坊だな。」
「そ、そんなことないよ?」
「まあ、いいけどな。」
「…ん。」
素材に火が通ったところで耕助はさらりとアクを取り、隠し味程度にケチャップとソースを入れた。
「俺のかあさんの時はハーブやオリーブオイルなんか使わないでケチャップやソースの量が多かったんだけどな。俺が作る頃になって少し変わったんだ。」
「ふうん。」
「うちのカレーは作る人間によって少しずつ変わるんだ。」
「…でも、あなたも最初はおばあちゃんの作る通りに作ったんでしょ?」
「どうだったんだろうな。今となっては覚えていないな。で、火を止めてカレールゥを入れるんだ。」
「ん。」
溶かしたことを確認するとまた火をつけて、とろ火にした。
「これでもう少し煮るんだ。」
「どうして?」
「ルウが溶けるのと、味がなじむんだそうだ。」
「へぇ。」
ゆっくりと溶けるカレーの重みを感じながら樹里はおたまで鍋のカレーをかき混ぜた。
「ど、どう?」
「ああ、うまい。」
「辛い。」
「爺さんは辛いのが苦手になっちまったもんな。」
「そうなの。」
「ああ。」
樹里はスプーンでカレーをすくい口に入れた。カレーの香辛料が際立つ中、ほのかな玉ねぎの甘みが舌の上で辛味を和らげてくれた。




