邂逅
もう少し、シリアスが続きます。
なぜ、おれは樹里と一緒にご飯を食べている?
耕助は十歳の少女と一緒に夕食を食べている状況に改めて首を傾げていた。
福岡に詳しくない耕助はネットでチェックした店に入っていた。樹里は耕助の向かいに座り、かしこまった様子で自分の注文もろくにできない様子だった。耕助は子供でも大丈夫そうなものを選び、ウェイターに注文した。
「おいしいか?」
「うん。」
夜に幼い少女を連れて食事をするという状況に耕助はあらゆる意味で緊張したが、周りは取り立てて不自然な視線を向けることがなかった。若干、安心した耕助は椅子の背もたれに寄りかかった。
樹里が箸を休めて耕助を見上げた。
「別に、なんでもない。」
「…ん。」
母のひとみに似たその顔は年齢にそぐわない大人びた無表情、そしてなんとも言えないような寂しさが同居していた。
弱ったな。
耕助はそれ以外の思いが浮かばなかった。
「あなたは、わたしを連れて行くの?」
「悩んでる。」
樹里は小首をかしげた。
「おれと一緒に行くってことは、お母さんと離れることになるぞ。友達ともお別れになるしな。それでもいいのか?」
「……でも、しかたがないんでしょ?」
「誰が言った。」
「おかあさん。」
「……」
「女の子はいつかはお嫁に行くから、樹里は早いだけだって。お友達は会えなくても連絡はいつでもできるよって。」
「おれは樹里を嫁にするつもりはねぇよ。」
「わたしも早いかなって思う。」
「おれは好きな人がいるんだよ。」
「付き合っているの?」
「振られた。」
「わたしは…、あなたのことをよく知らないから今はわからないけど、きらいじゃないかも」
「樹里はおれの姪だから、結婚とかはできねぇんだよ。」
「そうなんだ。知らなかった。」
「そもそもそんなつもりはないよ。ともかく、今の樹里のお母さんは樹里のご飯とか学校に行く支度はできないだろ。」
「だいたい、自分でできるよ?」
「先生とお話しするとか、親の仕事があるだろう?」
「それはちょっと無理かも。」
「だろう。お母さんはおれにそれをして欲しいんだけど、おれは随分と離れたところに住んでいるから樹里は転校しなくちゃいけなくなるんだ。」
「あなたがこっちに来ることはできないの?」
「仕事もあるし、おれの父親もいるから無理だな。父親は自分でいろいろなことができないんだ。」
「病院でそういう人を見てる。あなたも大変なのね。」
「樹里に慰めてもらうつもりはねぇよ。」
樹里はウーロン茶の残ったコップに口をつけた。顔の半分くらいがグラスに隠れた。
「樹里はどうしたいんだ。」
「お母さんは、わたしとずっといることができないって言ってた。ふつうは大人になるまでは一緒にいるけど、早すぎてごめんねって。わたしも、しょうがないかなって。お母さんが痛いの見たくないもん。うち、おとおさんも誰もいないから。お友達とはなれるのもいやだけど、一人はもっといや。」
耕助は年端もゆかない姪に見透かされたような気がしてぞっとした。
自分のやぶれた恋情は実はただ一人でいたくないがための欲望だったのではないか?
そんな汚い心を覗かれた気分だった。
しかし、目の前の少女が浮かべた微笑みのもろさに息を詰めてしまった。
「だから、あなたがいるって知ってうれしかった。」
目を伏せ、肩の力を抜いて浮かべた笑顔は心から安心を得た少女の喜びが素直に現れたものに感じた。
自分の一言で彼女はどうなってしまうのか?
耕助は身震いがした。
「ああ、だめだ。」
「どうしたの?」
「なんでもない。さっ、出るぞ。」
「え? うん。」
耕助は会計を済ませて外に出た。病院を出た頃は霧雨だったが、すっかり本降りになっていた。耕助は樹里と一つ傘の下、彼女の家まで送った。
樹里は寂しそうな表情を浮かべていたが、自分の泊まるホテルに連れて行くわけにもいかない。耕助は後ろ髪を引かれる思いで樹里と別れた。
次の日はすっかり晴れて、強い朝日が水たまりに反射していた。
耕助は弁護士に連絡を入れたのち、病院に顔を出した。昨日よりも青い顔をした彼女はこうなることを予想していたような口ぶりで彼に謝意を表していた。
樹里はいつも学校が終わるとその足で病院に向かうとのことで、昼のうちに義姉に電話を入れることにした。
電話口の義姉はあの時の激情が嘘のようにいつもの温かみのある声だった。
「いくら聞き分けの良い子でも、独身の耕助さんには大変ですよ。ましてや…」
「わかっています。けど…会っちゃったらもう負けですよね。見捨てるようなことはできませんよ。兄貴の不始末ですしね。」
「……」
「けど、本当にいい子だと思います。頭も良さそうだし、性格も良さそうですよ。」
「耕助さんはだから彼女ができないんですよ。」
「なんと?」
「女の子に幻想を持ちすぎです。小さくても女の子はいくらでも仮面を被りますよ。女はメギツネです。気をつけてくださいね。」
「ははは。」
「いつお帰りになりますか?」
「明日の朝の便で戻ります。」
「私もそのことをお会いして確かめたいところですが、明日は用事があって難しいですね…わかりました。耕助さんを信じるとしましょう。
転校の手続きなど色々と大変だと思います。わたしが弁護士の中本さんと一緒にしておきます。それが終わったら、耕助さんはその女の子を迎えに来てください。」
「そんな、悪いですよ。」
「きっとすごい時間と手間がかかりますよ。わたしはさいわいなことに仕事も何もないですから。」
「でも…」
「せめて、これくらいさせてください。あの時の罪滅ぼしです。もう少しで耕助さんにけがをさせるところでした。」
俺のことより、部屋の中で散骨しようとしたことを気にかけて欲しいなどと耕助は思いつつ、義姉に甘えることにした。
樹里が戻ってくるまで、耕助はひとみと共にいた。彼女は自分の残り時間を理解していた。
「別に、娘と死に目に会えなくてもわたしは構わないと思っているんですけどね。」
「……」
「黙って逝ったあの人の思い出を汚すような真似をしてしまったのですから、それくらいの罰は受けて当然です。」
「でも、仕方がなかったんだろう? 義姉さんも怒ったけど、俺はあんたのことを自分勝手だとは言えない。どんなになっても自分の子を守るのが親の本能だろう? それをあかりさんが罪悪感を持つ必要なないと思う。」
「…耕助さんはお兄さんより女のことを知らないのですね。」
耕助は義姉にも言われたことをあかりに言われ、むっとした。
「でも、あなたのような人が樹里を引き取ってくれて嬉しいです。」
「ただいま。」
耕助は口を開くこともできずにいたとき、樹里が学校から帰ってきてた。情けないことに耕助本人も気がつかないうちに胸をなで下ろしていた。
「おかえり。」
樹里は学校であったたわいない話を母に聞かせながら、ランドセルを下ろした。彼女は自然に耕助のそばに並んで座った。
「樹里。」
「なに?」
「耕助さんのところに行くことが決まったわよ。準備が終わったら、迎えに来てくれるそうよ。」
「う、うん。」
「それまでは、もう少し、辛抱してね。」
「おかあさん。」
樹里はふとん越しに母の胸に寄り添った。
耕助の福岡での用事は終わった。
父が戻り次第、樹里の話をすると、案の定、父は激怒した。耕助の話が耳に入らない様子なので、多少無理に父をベッドに戻した。二、三発頭に猫パンチをくらった耕助は部屋で冷酒をあおり不貞寝した。
福岡の義姉との間に様々な手続きと書類が行き交った。
そうしているうちにひとみは生命のろうそくを燃やし尽くしてしまった。年下の課長の渋い顔を見ないふりをして耕助はまた福岡に飛んだ。
内々で簡単に済ませた葬儀の後、樹里だけを先に連れて耕助は帰った。
樹里は耕助にぴったりと張り付き、少し泣き、寝る時以外は耕助の手を離さなかった。