玉砕 そして…
振られたばかりの耕助は亡き兄の不始末を片付けるために福岡に向かった。
そこで知った驚愕の事実。
兄貴の娘が!? 俺に引き取れと!?
「土方さんにはもっといい人がいますよ。私のようなダメダメな子とは釣り合いませんよ。」
今までの胸の高まりが急降下する。頭の血がどこかに消えうせて、めまいがする。
倒れそうな体を意地でも立て直し、唇だけで笑った。
「本気だったんだけどな。」
「まさか!? そんなこと言って、からかっているんでしょ?」
細い手でビールのジョッキを持ち上げた後輩の水無は喉を鳴らして、残っていたビールを飲み干した。
どう考えても、本気に受け取ってもらえていないことが彼女の表情から透けた。
正直、二人で飲みに行くことができたことで、彼の期待は確信に変わっていた。
結果は玉砕。
冗談として受け流された最悪な状況だった。
確かに年齢差はある。でも、久しぶりに自分を出しても引かれないような子だったのだが……
彼女の分の会計まで持った彼は律儀に頭をさげる彼女を見送り、さみしく一人で家に戻った。
「耕助か?」
「ただいま。」
「……トイレにゆく。」
耕助は小さくため息をついて、ジャケットを脱ぎ、父親をベッドから車椅子へ移した。
「すまない。」
「仕方がないさ。」
トイレのドア越しの親子の会話は淡々としていたが、耕助は泣きそうだった。
「結婚、できないよな。」
「アァン?」
「なんでもないよ。」
父親が水を流す音で耕助のため息はかき消された。
「ちょっといいか?」
「は、はい……」
昨日は遅くまで自宅で痛飲し、寝不足な耕助は壁に右手をつき、スタッフに声をかけた。
「明日の引き継ぎなんだけど、永倉が急な休暇で出れなさそうなんだよ。課長からは南雲さんが代わりに行ってくれるとのことなんだけど。」
「あ、はい。」
三年目のスタッフの南雲はつかの間、目を合わせて、すぐについっとそらせたまま返事をした。
緊張しているのだろうか? まだ心許ないが言ったことはきちんとこなしてくれる娘だ。
「喜多方商事の取引で……」
耕助は見積もりの条件などを事細かに話し、南雲は目を伏せながら、付箋に書き出していた。
「わかりました。」
「相手の課長は色々と細いから気をつけてくれな。」
「は、はい……」
「本当に助かるよ。ありがとな。」
「い、いえ……」
ふと何かが気になって振り向くと遠くのデスクでは昨晩、昨夜、耕助が玉砕してしまった後輩の水無がこちらも見ずに書類を作っていた。
言い知れない焦燥感とともに寂しさを胸に耕助は課長の席に向かった。
「一応の引き継ぎは終えました。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。」
「はい。じゃあ、お疲れ様でした。」
課長は頷いて、耕助の帰宅を了承した。
家に戻ると父親はショートステイに行った後だった。久しぶりに一人の家は静かで落ち着いた。しかし、くつろいでいる暇はない。手っ取り早く二泊程度の荷物を一生使うつもりで大枚をはたいて買ったスペイン製のボストンバックに詰め、家を出た。
耕助には兄が一人いた。
生真面目が服を着たような男であったが、長くもない彼の人生の中で一度だけ間違いがあった。耕助はそれを知っていたが、兄家族のために黙っていた。
先月、彼の葬儀が済み、家に戻った時、玄関先に一人の女性が立っていた。事情の知らない兄嫁はやつれた女性の話を聞き、激怒し、骨壷を投げようとして親、親戚一同から止められた。
一度冷静になってということで、今日の夜、話し合うことになっていた。
台風が近づいているとのことで空は重苦しい鉛色の雲が渦を巻くように流れていた。
福岡行きの飛行機は定刻どおりに飛んだが、空港バスが遅れ、予約したビジネスホテルでチェックインをすると、そのまま約束先の弁護士事務所に向かった。
「依頼人の松永さんは急に体調を崩されたとのことで、私が代行という形になりました。」
「結構です。こちらとしても正直、どのような顔を合わせていいのか、わかりません。」
「それで条件なのですが、これまで詰めてきた内容どおりということでよろしいでしょうか?」
「はい。兄の保険金、家屋と土地はすべて朝子さんへ。兄の私物は……処分できる物は処分させてもらい、幾つか思い出の物だけと位牌はこちらで引き受けるということですよね。」
「ええ。私物の処分に関しては、もうおうちにいらしても結構です。松永さんは実家に戻られていますので。」
「ではあの家は、もう誰も?」
「はい、買い手も内定されているそうで、処分が終わり次第、契約をされるそうです。」
「わかりました。鍵はこちらへお返しした方が良いですか?」
耕助は弁護士が差し出した鍵を受け取った。
「…そうですね。その方がよろしいと思います。あと、もう一つ問題がありまして。」
「なんでしょうか?」
財産分与は彼女の望むとおりにした。兄の女性に関しては耕助たちは一切口を挟むことができなかったためにどのようになったか、わからない。その件だろうか?
「お兄様の大吉さまですが、生前にあちらの女性との間の子供を認知されていたそうです。松永さんはご家族とも相談され、今後無関係ということでされたいとお話しされたそうです。ですが、あちらの女性は事情があり、今後そのお子さんを養育することが難しいと話されていたそうで……」
「ああ……そうですか。」
「養育義務は亡くなられたお兄様にのみ発生しますので、法律的には松永さんは義務はありません。ただ、あちらの事情もなかなか深刻でして…」
「たしか、子供には財産分与は行くと思いましたが?」
「ええ、それに関しては…」
絡み合った問題だったが、いつもビジネスライクに話を進めるこの弁護士にしては珍しく言葉を濁し続けていた。
「どのような事情でしょうか? 差し支えなければ教えていただくことはできませんでしょうか? 死んだとはいえ兄の不始末ですし。」
「ええ…。相手の女性ですが葬儀の後にいらっしゃった時には既にかなり進行していたそうで……」
守秘義務があるのだろうか、言葉を濁しつつ説明してくれた内容はある意味単純な話だった。顔を出すつもりはなかったが、身寄りのない彼女は小学生の子供を残したまま逝くことに不安を感じた。その思いがあまってのことだったと弁護士は耕助に話した。
金では解決できない問題だよな。耕助は自分の額に手を添えた。
「向こうは俺に何かをしてほしいのでしょうか?」
つい普段使いの言葉が混じった。
「本音は引き取ってほしいのでしょうね。施設に入れたくないようなことをおっしゃってましたから。」
「ですが、うちには障害を持った父が……」
「ええ、知っている様子でしたよ。多分、松永さんがお話しになられたんでしょうね。」
「義姉さんは無理か。……すみません、今回のお仕事とは関係ないことでしたね。」
「いえ。決して施設が悪いとは言いませんが、私もあの女の子がこのまま肉親の縁の薄い育ち方をするのは、なんとも…」
耕助は相手の女性に会うことを告げ、事務所を後にした。
時間は限られている。耕助はタクシーで兄の家に向かった。家に着く頃には雨が降り出してきた。
人気のない家はガランとしていた。耕助の住む土地と比べ、こちらは暖かい気候なのに寒々しい空気を感じずにはいられなかった。兄の荷物は既に段ボール三箱程度にまとめられていた。中を確認したが、兄の位牌はなかった。
その代わりに手紙が一通、一番上の箱の上に乗っていた。
几帳面な義姉の手にしては字が乱れていた。内容は取り乱してすまなかったということと、今もまだ黙っていたことを許せはしないが、かといって位牌を置いて行くこともできないことが綴られていた。
「義姉さん、すみませんでした。」
耕助は手紙に手を合わせた。
福岡に来て、屋台を楽しみにしていた気持ちがなかったと言えば嘘になるが、夕方にはそんな気にもならず、コンビニエンスストアで適当に求めた弁当をホテルの一室で食べた。
次の日、見慣れない地方局の天気予報では朝から大荒れとのことで、またタクシーを利用することにした。
がんセンターの四階病棟に彼女はいると弁護士から聞いた。外来の混雑を避け、エレベーターで上がった。
節電のためか照明が落とされた薄暗いロビーには女の子がテーブルの隅でノートを広げていた。
ナースステーションで彼女の名前を出すと少し待たされた。年配の看護師長と思われる貫禄のある女性が出てきた。
「松原さんとはどのような関係でしょうか?」
「…彼女の娘の父が俺の兄です。」
「義理の弟さんということでしょうか?」
「なら、そう言いますが?」
「立ち入ったことをお尋ねしますが、お兄様は?」
「先月になくなりました。」
「……そ、そうでしたか。…すみませんでした。」
「いえ。」
「今日は、ご面会に?」
「ええ、彼女の弁護士さんから連絡が入っていると思います。」
「後で少しお話を伺いたいのですが、時間はよろしいでしょうか?」
「ええ。で、彼女はどちらの病室に?」
師長の先導で四人部屋の奥に通された。
彼女は見る影もなかった。やせ細り、髪が抜け落ちたのだろう、ニット帽をかぶっていた。
「初めまして。土方耕助です。大吉の弟です。」
「……大吉さんとはあまり似てらっしゃらないのですね。松原ひとみです。この度はご迷惑をおかけしました。」
「いえ。ロビーにいた子は松原さんのお子さんですか? よく似ていらっしゃいますね。」
「髪の長い女の子ならそうです。」
「…兄の、子供なのですね。」
「ええ。」
それから、彼女はポツリポツリと話し始めた。
兄と出会ったのは兄が結婚する前だったが、義姉と付き合っている時期かは微妙だとのこと。その時、彼女は名目だけだったが結婚していたこと。今は離婚し、元の夫の行く先は不明であること。自分は肉親もいないので、自分が死んだら娘は一人きりになり、施設に入るしかないことなどなど。
まずい。
このようなことを聞かされると逃げ道がないではないか。
「娘は…樹里は聞き分けのいい子です。わたしが仕事をしていたこともあって、簡単な家事でしたら一通りのことはできます。」
「ですが、うちには障害を持った父がいますし、俺は独身で……」
「そこは知っています。知っているんです。……知っていますが、肉親の縁が薄い娘にとって頼れるのはあなたしかいないのです。」
「……」
「ずるいのは承知しています。そのようなことをしても、娘を守りたいのです。」
確信犯なのはとうに承知している。子供を持った母親は手段を選ばないのだろうな。
「ですが、うちに引き取られても父のこともあります。お恥ずかしい話ですが、父は体のこともそうですが、そのせいか、とても理不尽で怒りっぽく、すぐに八つ当たりをします。樹里ちゃんがこれからも大変なことやいろいろなことがあると思います。俺もきちんとした関わりを持つことができないかもしれません。」
「それでも、この先一人で生きて行くよりずっとマシです。きっとあなたなら……」
「初めて会った男を信じられるのですか?」
「ええ。」
それまでとは違って力強い返事を返した彼女はナースコールを押した。
粗雑なスピーカー越しに看護師の声が聞こえた。
「はい。」
「すみませんが、娘をわたしの部屋まで呼んでいただけますか?」
「少しお待ちください。」
看護師の返事を聞き、彼女は耕助に真剣な眼差しを向けた。
「だって、大吉さんの弟さんでしょ?」
耕助は言葉に詰まった。
しばらくすると小さな女の子が顔を出した。綺麗な黒髪に包まれた白い顔は不安そうな表情を浮かべていた。
「樹里。」
「なぁに?」
「この人は、あなたのお父さんの弟さんなの。」
「おとおさんのおとおうと……?」
「あなたのおじさんよ。」
小さな顔が左右にゆっくりと揺れた。いきなり言われても、ピンとこないのだろう。いくつくらいなのだろうか?
「はじめまして、樹里ちゃん。おれは土方耕作。君の親戚だ。」
「う、うん。はじめまして。」
これが、樹里との出会いだった。