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涼やかな朝の風に乗ってひらひらと舞う桜の花びらが、心地よい空色を背景として視界のそこかしこに彩りを添える。
春のうららかな陽気を一身に受けながら、俺――音澄大竜は今、通学路である歩道をゆったりと通過している。
今日は入学式。
高校生となった俺は心機一転、これまでとはガラリと変わった新鮮な学園生活を夢見て胸を膨らませていた。
べつに、中学時代が灰色や真っ黒だったわけではない。
バラ色とまでは言えないものの、爽やかな水色、もしくは明るい若草色、といった印象だっただろうか。友人たちと毎日のようにバカ騒ぎして、それなりに充実した日々を送っていた。
たとえそうであっても、新たな生活の始まりとなれば、多くの期待とちょっぴりの不安が入りまじった複雑な気持ちになるのも当然というものだ。
ワクワク、そしてドキドキ。
もしかしたら、心をときめかせるような衝撃的な出会いだってあるかもしれない。
中学時代の生活について不満を述べるとすれば、真っ先に挙げられるのは彼女ができなかったことになる。
もとより積極性に乏しい俺だから、生活環境が変わったからといって、そう簡単にはいかないと思うが。青春真っ盛りの学生世代、恋は生活を彩る大切な要素と言っても過言ではない。
ふと、桜の花びらが鼻先をかすめるように舞い落ちていく。
この季節になると、思い出してしまうな。
あのふたりの女の子のことを――。
小学生だった頃には、俺にも彼女がいた。しかも、ふたり。
いや、彼女とは呼べないか。なにせ、それは小学校一年生から二年生の春までのことだったのだから。
とはいえ、俺は確かに、ふたりに恋していた。
相手のふたりも、俺のことを好いてくれていた。
なんの根拠もない漠然としたものではあったが、「このふたりを幸せにしてあげないと」と考えていたような記憶すらある。
しかし、ふたりは忽然と俺の前から姿を消した。
俺が交通事故に遭って数日間入院しているあいだに、引っ越してしまったのだ。揃ってふたりとも。まるで申し合わせたかのように。
なにも聞いていなかった。そんな素振りさえ、見せていなかった。
俺は最初、ふたりを恨んだ。
どうして前もって教えてくれなかったのか。
どうして入院している俺に会いにきてくれなかったのか。
俺とふたりは、仲よしだった。
そう思っていた。
だが、俺が勝手に思い込んでいただけで、ふたりの認識は違っていたのか?
悩んだ時期もあった。
引っ越しの件はおそらく、俺を悲しませないために黙っていたのだと考えられる。
病院にまで足を運ばなかったのも、急な引っ越しだったからなどの理由があって、状況的に仕方がなかったのかもしれない。
そうやって自分を納得させることができたのは、随分と時間が経ったあとだった。
ふたりの女の子。
春原うるると、棘薪エリカ。
彼女たちは、人間ではなかった。
うるるはウーパールーパーの化身で、エリカはエリマキトカゲの化身だった。
すなわち、物の怪とか妖怪とか妖かしとか、そんなふうに呼ばれるような存在だったのだ。
その昔――俺たちが生まれるよりも前、一大ブームになったことがある変わった動物、ウーパールーパーとエリマキトカゲ。
ウーパールーパーはつぶらな瞳がチャーミングで、顔の両脇から生えたヒレが特徴的な両生類だ。
両生類だがカエルのように変態はせず、幼生のままの姿で一生を終える。
有名なのはピンク色の胴体を持つものだが、色のバリエーションは豊富らしい。
日本での正式名称はメキシコサラマンダー。アホロートルという名前で呼ばれることもある。
一方のエリマキトカゲは、名前の由来となっている首の周りにある襟巻きのような部分が特徴的なトカゲだ。
敵を威嚇する際や求愛行動の際に、その襟を大きくを広げる。二本足をちょこまかと動かす走り方も、とてもユーモラスで可愛らしい。
どちらも、俺たちが生まれる前にテレビのCMで話題となった動物ということになる。
そんな動物の化身だなんて。
ふたりから真顔で告げられても、正直俺には信じられなかった。
正体を見せてあげる、と言われて、ウーパールーパーとエリマキトカゲになったふたりにも会ったわけだが。
その状態では言葉を話せないため、本当にそれがうるるとエリカなのか、判断はつかなかった。
目の前で変身してくれたら、嫌でも信じざるを得なかっただろう。
ただ、ふたりは絶対に俺の見ている前で変身してはくれなかった。
「はぁ!? 変身してるところが見たい!? なに言ってんのよ! 見せるわけないじゃない、このド変態!」
頼んでみたら、エリカから凄まじい勢いで怒鳴りつけられたっけ。
「そうだよ~。女の子が脱ぐところを見たいだなんて。ダイナってば、エッチなの~!」
うるるのほうも、のんびり口調でそんなことを言っていた。
当時は小学校一年生だったはずなのに、随分とませていたんだな。
その理論でいくと、ウーパールーパーとエリマキトカゲに変身した姿は、完全にすっぽんぽん状態になる気もするのだが。
……いや、着ぐるみ的な感覚で、あの姿に着替えた、ということだったのか?
う~ん、謎だ。
ところで、ふたりがウーパールーパーとエリマキトカゲの化身だという話は、俺たちだけの秘密だった。
もし他人に口外してしまったら、とんでもない災厄が俺のもとに訪れることになるのだとか。
こうして思い返してみると、俺はふたりにからかわれていただけなのでは、という疑念がそこはかとなく湧き上がってくる。
むしろ、そう考えたほうが現実的なのかもしれない。
それでも俺の記憶の中では、あのふたりの女の子は紛れもなく、ウーパールーパーであり、エリマキトカゲだった。
のんびり屋でおっとりした性格のうるるは、ピンク色のワンピースを好んで着ていたことも含めて、まさにウーパールーパーといった感じだったし、
口が達者で気も強いわりに意外と臆病者で、恐怖を感じるなりすたこらさっさと逃げ出すエリカの姿は、まさにエリマキトカゲそのものだった。
とても懐かしい、幼き日の思い出。
引っ越してしまってから一度も会っていない、大切な彼女たち。
いったい、どこでなにをしているのだろう。
今でも元気にしてるかな?
……うん。
きっと元気だ。
なにせ、あのうるるとエリカなのだから。
どこか遠く、この爽やかな大空の下で、今日も笑顔をきらめかせているはずだ。
いつ彼女たちと再会しても恥ずかしくないよう、俺は俺なりに高校生活を精いっぱい楽しもう。
そんなことを考えているうちに、壮麗な雰囲気漂う立派なアーチ状の校門が目の前まで迫っていた。
ここが今日から、俺の母校となる竜宮の使い学園だ。
「よし、行くぞ!」
気合いを言葉に込め、力強く足を繰り出す。
新たな生活の始まりに思いを馳せながら、俺はこれから三年間お世話になる学園の校門を静かにくぐり抜けた。
☆☆☆☆☆
一歩。
学園の敷地内へと足を踏み入れた、まさにそのときだった。
突然、前方から凛とした声がかけられたのは。
「ようやく来たわね、ダイナ! 待ちくたびれたわ!」
左手を腰に当て、右手をまっすぐ伸ばした女の子。その指先はビシッと俺のほうへと向けられている。
竜宮の使い学園の新品の制服を着ていることから考えるに、この学園の新一年生になる女子生徒なのだろう。
「うふふふ、ダイナ、随分と大きくなってる~! ほんとに、お久しぶりなの~!」
その横にはもうひとり、こちらも新品の制服を身にまとった女子生徒が、無邪気な笑顔を伴って立っていた。
ふたりの喋り方や仕草、そしてなにより顔を見て。
一瞬でわかった。
「エリカ! うるる!」
懐かしさが噴水のように込み上げてくる。
思い出の幼馴染みとの、不意打ちすぎる再会だった。
「ふたりとも、戻ってきてたんだ! それに、その制服を着てるってことは、この高校に入学したんだよな?」
「ええ、そうよ!」
「またダイナと一緒に遊べるの~!」
俺を含めた三人全員の顔には、心からの喜びの念がこぼれ落ちんばかりに浮かびまくっていた。
うるるが言ったように、俺は昔と比べてずっと背も高くなっている。
ふたりと仲のよかった当時は小学校一~二年生だったのだから、当然といえば当然なのだが。
無論、うるるとエリカのふたりだって成長している。
ウーパールーパーの化身とエリマキトカゲの化身ではあっても、どうやらそこは変わらないようだ。
うるるは口調と同様、表情も実に穏やかで、微妙に垂れ気味の目は吸い込まれるほどに大きい。
肩の長さで切り揃えられたボリュームのある髪の毛はふわふわとしていて、それもまた可愛らしさを助長させるのに役立っている。
少々ぽっちゃりしている印象を受けるが、その分、胸の膨らみがこれでもかとばかりに主張しているのも、思わず目を奪われてしまう部分だ。
一方のエリカは、若干吊り目気味の強気な眼光が凛々しい雰囲気を強調してはいるものの、決してキツい顔というわけではない。
ポニーテールにまとめられた髪を振り乱しながら喋り、溢れ出る躍動感を惜しみなく全身で表現している。
細身でスラッとしているエリカの胸は、隣のうるると比較してしまうこともあってか、性格に反してとても控えめな感じだった。
「ダイナがいることを知って、わたくしたちはすごく楽しみにしてたのよ? だから早起きして待ってたのに。あんた、なかなか来ないんだもん!」
「うっ……。ごめん、待たせちゃって」
知らなかったんだから、仕方がないじゃないか。
といった本音は飲み込み、文句をぶつけてきたエリカに謝罪する。
「でも、会えてよかったの~!」
うるるはほんわかと笑顔を浮かべていた。
それだけに留まらず、
「あたし、めちゃくちゃ嬉しくて、心臓がバクバクしてるの~! ほら~!」
そっと俺の右手を取ったと思うと、自らの左胸に押し当ててきたではないか。
ふにょん。
たわわに実った柔らかな感触と温もりが、手のひらすべてに余すことなく伝わってくる。
「ちょ……っ! うるる、ずるい! わたくしだって、ドキドキしてるんだから!」
さらにはエリカまで、俺の反対側の手を取り、自分の胸にぺったりと押し当てる。
「うわっ! 思った以上にペッタンコ――」
殴られた。
顔面にグーパンチは、できればやめてほしかった……。
それはともかく。
懐かしい幼馴染みとの思ってもいなかった再会。
バラ色の高校生活が始まりそうな、そんな予感がした。
「そういえば……。ふたりの正体については……」
ここは校門から入ってすぐの場所。言うまでもなく、登校中の生徒たちが次々と通り抜けている。
いきなり女子生徒ふたりの胸に触ってイチャイチャしているような状態だったため、注目の的にすらなっていた。
だからこそ、俺は小声で問いかけてみたのだが。
「うん、そうね。もちろん秘密よ! バラしたら、責任を取ってもらうからね!」
「ダイナはあたしたちふたりの弱みを握ってるんだもんね~。それは絶対に喋っちゃいけない極秘事項なの~! 責任重大なの~!」
うるるとエリカには、会話のトーンを落とす様子なんてこれっぽっちもなかった。
周囲から、なにやらひそひそと話す声が聞こえてくる。
「あいつ……女の子ふたりの弱みを握って、服従させようとしてる……?」
「よもや、あんなことやこんなことまで強要してるとか……?」
「責任を取って、ふたりとも嫁に……?」
あらぬ誤解を生んだ瞬間だった。
俺の高校生活は、バラ色というよりも、毒バラ色になってしまうのかもしれない。
眉根を寄せて頭を抱える俺を、ふたりの幼馴染みはキョトンとした顔で眺めていた。
☆☆☆☆☆
俺はうるるとエリカの腕を引っ張り、そそくさと昇降口前の掲示板へと移動した。
掲示板には新入生のクラス分けが貼り出されている。
そこにはたくさんの生徒たちが集まっているし、人ごみに紛れてしまえば注目からも逃れられるだろう、と考えたのだ。
「強引に引っ張ってくるなんて……。ダイナってば、意外と大胆ね」
「こんな多くの人に見られてる中で、あたしたちになにをするつもりなの~?」
ふたりの発言は、とりあえず無視しておく。
貼り紙を見てみると、俺の名前は三組の欄に記載されていた。
「あっ、あたし、三組なの~!」
「わたくしも同じよ! ダイナは?」
……なんとなく、予想はしていたが。
やっぱりそうなってしまうのか。
苦労の絶えない毒バラ色の高校生活が確定した瞬間でもある。
ともあれ、楽しくなりそうなのは間違いない。
「俺も一緒のクラスだよ」
ふたりが発する騒がしいほどの歓喜の声を聞きながら、俺は一年三組の教室へと向かった。