魔女⑤
(雨、降ったのか)
辺りの木々にも草にも、水の粒が光っている。なにより緑のにおいの濃い、雨が降った後の独特の空気が立ち込めていた。
見上げれば眩しいくらいの青空が木々の隙間からちらちらと覗いている。
(この短時間のうちに雨?)
いや、それ以前に、少し前までは乾いた道を歩いていたはずだった。
いつからだ。いつから変わった。
仮に通り雨だったとしても、今まで歩いてきた道だけ雨に降られなかったなんて、そんなことがあるのか。
それに先ほどから感じている、この違和感はなんだ。
来たときとは違う道を歩いているような妙な感覚。
雨だけじゃない。ほかにも何か。
何かがおかしい。
「おーーい」
「え」
誰かが手を振りながらこちらに向かってくる。
(子ども……?)
少年だ。それも村では見かけない少年だった。
「おじさんあのさぁ、このへんにさぁ、花とか咲いてなかった? 色のついたやつ」
少年は近くに来るなり、まったく人見知りしない様子で男に尋ねた。
「いや、花は見てない……てかお前、こんなとこでなにしてる。一人か? 見かけねぇ顔だが」
「なんだよそれ、当たり前だろー今初めて会ったんだから。俺だっておじさんのこと知らないよ」
「いやそうじゃなくて、お前のことはほんとに見たことないんだって」
あの小さな村の中でも、まだ知らないやつがいたなんて。とりあえず、こいつは一度連れて帰ったほうがいいだろう。子ども一人森に残して、万一のことがないとも限らない。
「町中みんな知り合いなわけないだろー。知らない人のほうが多いっての」
「は? 町? ……まぁ、とにかく一旦ここから出て」
「うおっ! なんだよ!」
少年は腕を掴もうとした男の手を寸でのところでかわすと、数歩後ずさった。
「何しに来たか知らねぇけど、ここはガキが一人で来るようなところじゃねぇんだ、よっ! こら逃げんな!」
言いながら、再度少年を捕まえようと試みたが、しょうねんは「しらないよそんなの、俺の勝手だろー!」と、いらだっているような面倒くさがっているような調子で言うと、器用に男の腕をすり抜けてそのまま走り出した。
振り向いて追いかけようとしたら、濡れた落ち葉とぬかるみに足を取られて、すぐそばの木の幹に頭を打ち付けた。
「っ……てぇ……」
しりもちをつく形で座り込む。手をついた地面の泥の感触が不快感をあおった。
(……最悪)
反対の手で後頭部を抑えながら、涙でかすんだ視界のなかに少年の背中を探す。少年の姿はすでに遠く小さくなってしまっていた。
(だめだ、追いつける気がしない)
男は追いかけることをあきらめて、今にも見えなくなりそうな少年の後ろ姿に向かって、だめもとで叫んだ。
「魔女に喰われても知らねーぞぉぉー!」
すると、この距離からは考えられないような声量で返事が返ってきた。
「魔女なんていねーよ、バァァァーーーーカ!!!」
それからとうとう少年の姿は見えなくなって、辺りに静けさが戻ってきたようだった。
「なんなんだあいつ…………うるさ……」
辺りが静かになっても、少年の声がまだ頭に中に反響しているように感じる。頭痛でしばらく動けそうにない。
木の幹に頭と背中をあずけると、深く息を吸って、吐く。何度か繰り返すと、やっと正常に思考できるようになってきた。
(まぁ、魔女なんて怖がってたら、こんなところにいないわな)
男は体に異常がないか確かめながら、ゆっくりと立ち上がった。
両の手をそれぞれに動かしてみる。うん。問題ない。
少年の走って行った方向を見やると、先ほどの言葉が思い出された。
魔女なんていねーよ
男は小さく息をつく。
(……いるんだなぁ、それが)
またため息をつきそうになって慌てて口を閉じた。昔から直らない悪い癖だ。
(それにしてもあのぼうず、次会ったら敬うという言葉の意味を教えてやる)
村に戻ったら、どこの子どもなのか探し出さなくては。親に隠れて森に入るような真似は、もしそうならば、やめさせなくてはいけないし。
(あと、俺はおじさんじゃない)
つい言いそびれてしまった。これも言ってやらなくては。
服についた泥を払うと、男は速足でその場を後にした。