7話 お世話になりました
そこからのことは曖昧だった。
色の落ちた世界のなかで、僕は茫然と立ち尽くしていた。
精神は忘我の海に溺れ、意識を昏迷の空に切り離してしまった。
逃避。
現実の光景を脳が拒絶したことは明らかで、駆け付けた誰かの手によって、酩酊した老婆のように歩かされたことだけはわかった。
赤い明滅がエンジン音とともに夢菜を運んでいく。
違う明滅が、僕を運ぶ。
自失した僕を迎えたのは、狭い部屋だった。
事情を聞かれた。
ただ僕は首を振っているだけだった。
つぎは病院に連れて行かれた。
白い男に体をいじくりまわされた。
言葉で心もいじくりまわされた。
僕はなにも感じなかった。
最後に連れてこられたのは、知らない部屋だった。
そこにはすでに、ひかりがいた。
ふたつベッドがあるだけの部屋。
部屋の奥のカーテンが開いていて、そこから夜の街が見下ろせた。
僕を連れてきた男がひかりにむかって何か言った。
ひかりはうなずいて、僕の腕をとってベッドに座らせた。
「兄ちゃん、なにか飲む?」
ひかりは小さな冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。
僕は首を振った。
液体を見るだけで吐き気がした。
容器を見るだけで寒気がした。
「……そう」
ひかりはただ静かに、僕の腕をつかんで座っていた。
ただ静かに、じっと、震えていた。
脳に焼き付いて離れない。
高熱の鉄板に張り付いた皮膚のように、無理やり剥がそうとすれば肉まで一緒に剥がれてしまう。だからといってそのままにはできない。腐ってしまうまえに、剥がさなければ。
あの光景に思考が腐ってしまう前に。感情が腐ってしまう前に。
僕の脳から、あの光景を――
すん
と、音が聞こえたのは、どれほど時間が経ってからだろうか。
ゆっくりと顔をあげると、ひかりがいつのまにか、僕の腕に顔をうずめていた。
声を殺して、涙を抑えつけ。
彼女は、泣いていた。
「……っ、夢……どうして……」
そこでようやく。
やっと。
僕は、夢菜が死んだことを、理解した。
「ひかり……」
僕は残った妹の髪に、顔をうずめていた。
ひかりは僕の体に腕をまわして、胸に顔を押し当てる。
抱き合う形になり、僕たちは震えた。
あの光景が、僕たちの感情を溶かす。
……もう、我慢できそうにない。
僕たちは、慟哭するように、泣いた。
そして朝になり、目が覚めた僕の前には、ひかりの姿がなかった。
『いままでお世話になりました』
そんな書き置きだけを残して、彼女はいなくなった。
冒頭部分は終わりです。
次回からはようやく本編に入ります。