6話 すき?
「ねえ、なにしてたの?」
家に帰った僕を出迎えたひかりが、エプロンを外しながら言った。
日は傾いていた。雨の時期の夕日はとくに紅い。本来は美しいはずの陽光がリビングに差し込み、部屋のなかを毒々しい赤色に染めている。ひかりの言葉のなかにあるわずかな怒気を象徴するかのようだった。
僕はかばんをテーブルに置き、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
「夢菜とカラオケ」
「ふうん。そう」
ひかりはエプロンをソファに放り投げて火を止めた。
そのままリビングをでていくと、自分の部屋に戻っていった。
なぜ怒っているのかわからないけど、こういうときは、そっとしておくに限る。
ひかりが作ってくれたシチューを食べ終え、ソファにぼうっとして座っているとテレビのニュースで近くの場所を映していた。学校のすぐ近くの公園で、なにやら殺人事件があったらしい。とくに珍しい事件ではないが近くということもあり、じっくりと見入ってしまう。
殺されたのは、近所に住む小学生らしい。名前に聞き覚えはなかった。
首を切断された遺体で発見された、とニュースキャスターが読み上げていた。
首の切断。昼間の鶏を思い出してしまい、気分がすこし悪くなる。小学生が殺されたことよりも、鶏が殺されたことを思い出して気分が悪くなってしまったことに、わずかな罪悪感を覚えた。
「もう食べたの?」
「え……あ、うん」
いつのまにかリビングにいたひかりに聞かれて、僕は振り向きながらうなずいた。
「なに、顔色悪いけど」
「べつになんでもないよ」
「ふうん」
さほど興味もなさそうだった。
僕もあんなことはさっさと忘れたいと思っている。樹脂化した死体なんて、考えてもわからないことだし、それになにより気味が悪い。薬品の匂いがしていたから、おおかた誰かが新薬の実験に使ったのだろう。だからこそ化学の教師が調べる、と言っていた。
……でも。
歯痒い。
あれをどこかで見た気がして仕方がない。
あれがなにかを知っている気がする。
そんなこと、あり得ないはずなのに。
ニュースはすでに、スポーツ報道に切り替わっていた。
ひかりは海外の贔屓にしているサッカーチームが負けたことに小言を並べていた。女子サッカーも好きだが、海外のプロリーグが大好きらしい。
僕はしばらくリビングにいたけど、とくに面白い番組もなく、自室に戻ることに決めた。
リビングの扉を開けようとすると、ひかりが振りかえって言った。
「ねえ、夢元気だった?」
「うん。ってあれ、ひかりも夢菜に会ったんじゃないの?」
「会ったけど。べつに、そんなに話してないし」
「そっか。まあ元気だったから心配しなくてもいいよ」
「……そう、そうだよね……あの子が落ち込んでるわけないもんね」
ひかりは少し顔を伏せて、
「あたしのこと何か言ってなかった? 怨みごととか、言わなかった?」
「怨み? 夢菜がひかりに? なんで?」
「なんでって、あんたが……」
ひかりは言いかけて、言葉を止める。
僕が……なんだろう。
「まあいいわよ。夢が元気ならそれで」
ひかりはこれ以上は良い、と言わんばかりにテレビに向き直った。
判然としなかったが、ひかりのことだからいつも通りだ。
僕は自室に戻った。
脱ぎ散らかしていたはずの服はいつのまにか片づけられて、部屋の端にあるバスケットに放りこまれていた。床には掃除機をかけたあとがある。入学式の日に家の片付けをするひかり……どうやら、またこんども友達ができる気配がなかった。
僕はベッドに寝転んで。
――ぎょっとした。
「……やっほー、お兄ちゃん」
夢菜がいた。
僕の部屋は、マンションの廊下に接している。窓を開ければマンションの廊下から見える構造だ。
その廊下から、夢菜がちょこんと顔を出して部屋をのぞいていた。
「ゆ、夢――」
「しーっ、静かにしてね」
夢菜はまた悪戯な笑みを浮かべる。
僕は小声になる。
「ど、どうしてここに」
「ちょっと聞きたいことがあってきたの」
「聞きたいこと?」
窓のむこうから、顔だけをのぞかせている夢菜。
その顔には、どこか疲労の気配が浮かんでいた。
わずかに顔が青い。綺麗な顔に、うっすらと隈が浮かんでいた。
すこし心配になりながらも聞き返すと、夢菜は、
「うん。お兄ちゃん……夢菜のこと、好き?」
「え」
言葉に詰まる。
もちろん、その質問は昔からよくされていた。
夢菜は家族のことを大事にしている。もちろん兄の僕のことも。
僕がひかりと喧嘩したとき、夢菜はいつも「ひーちゃんのこと、好き?」と質問してくる。逆にひかりには「お兄ちゃんのこと、好き?」と質問する。それも喧嘩の熱が冷め、お互いに顔を合わせたときに。
そんな質問に気恥ずかしくて答えられないとき、夢菜は決まって言うのだ。「じゃあ、夢菜のこと、好き?」と。僕たちはそれには頷く。そしてそのあと、改めて夢菜は問うのだ。「ひーちゃんのこと、好き?」
夢菜が気を使って僕たちを仲直りさせてくれていたのは、わかっている。
だからその言葉は、慣れたものだった。
だが、いまの夢菜は、どこか違う。
「……夢菜、どうした?」
「答えて」
夢菜はみるみる、顔を青ざめさせていく。
美しい顔から血の気が失われていく。
肌はまばゆいほどの白色から、鈍色へと。
「答えてお兄ちゃん……夢菜のこと、好き?」
僕は答えられなかった。
いつも可憐で元気で、さっきまで楽しそうに歌を歌っていた夢菜。
そんな彼女が、僕の部屋の窓から死んだひとのような顔だけを出している。
違和感だらけで、言葉がうまく出てこない僕は。
……あれ。
ようやく不自然に気付いた。
窓から顔だけを出す?
部屋の窓は高くない。小さなひかりなら、まだしも、スタイルのいい夢菜がそこから顔だけを出すなんていう高さではない。ふつうに立っていたなら、胸のあたりから見えるはずだ。
なのに、なぜ顔だけで……
「え」
僕は間抜けな声をあげる。
そのとたん。
夢菜の口から。
どぷっ
と、赤い液体が漏れた。
血の気を失った夢菜の顔。
いきなり求められた回答。
吐き出される血。
血液。体液。唾液。
とっさに窓に駆け寄った僕が見たのは――
切断。
断絶。両断。絶縁。切分。裁断。剪裁。分離。断割。
血。
赤い。黒い。臭い。鉄。粘液。異臭。
管。
繋がれた糸。ポリタンクに繋がれた疑似血管。
夢菜の首が、ぽつんと台に乗っていた。そしてそこに繋がれていたのは大きなタンク。
夢菜の切り離された頭部。頭蓋。首。
「あ……おにい、ちゃん……」
夢菜の目から、光が失われていく。
夢菜の顔から、表情が失われていく。
「あ、ああああああああ」
僕の口から洩れ出したのは、声か空気か。
「お……にい……ちゃん……」
「あああああああああああああああ」
夢菜の口から洩れ出したのは、声か血液か。
それとも、命そのものか。
「……ゆめなの……こと……すき……?」
僕は、絶叫した。
展開は加速します。
仄暗い闇に向けて進みます。