13話 彼女の肢体
ペンションに泊まることになったのは、本当に偶然だった。
ひととおりの捜索を終え、ようやく僕たちは警察に連絡をした。
包丁男が襲ってきたことは随分と疑われたけれど、争った痕跡があることと、林の下の商店街でそれらしき人物が目撃されたことで、軽い事情聴取が行われた。単なる通り魔だという扱いで処理されるらしく、実質的な被害はないので書類上だけの問題だった。
現場検証と見聞を終えて解放されたときには、すでに夜も深かった。
もちろん雛菊の専属の運転士はそれまで待っていてくれたのだが、いざ帰ろうと思ってみると車のタイヤがパンクしていた。
すぐに代わりの車を用意しますと申し出た運転士に、雛菊は首を振った。
「せっかくですし、たまには電車を使って帰りましょうか」
運転士はパンクが直り次第帰ればいい、と伝えた雛菊と歩き、僕は海岸沿いの駅まで向かった。
ちょうど電車が遅れていたので、しばらく近くのファミレスで時間を潰すことになり、そろそろ終電の時間になっただろうと駅に向かってみれば、とっくに最終電車は発車していた。
「……どうすんだよ。やっぱり迎えに来てもらうか?」
「いえ……こうしましょう」
と、雛菊はペンションの鍵を取り出して不敵に笑った。
こうして僕は雛菊とふたりで夜を過ごすことになった。
近所の二十四時間スーパーでお揃いのジャージを買った僕たちは、ペンションに戻ると夜食のカップラーメンをすすった。
「じつは私、こういう食べ物はほとんど食べたことがありません」
「どんな箱入り娘だよ」
「中学以降は、ですけれど」
「その前は食べていたのか?」
「ええふつうに。いくら雛菊グループの娘とはいえ昔はどこにでもいる活発な少女でしたから。勉強もスポーツもそこそこで、親の命令なんて無視して遊びまわっていたくらいでした」
「……随分と変わったんだな」
「あの海の件がきっかけでした……」
雛菊はカップめんの汁をゆっくりと嚥下していく。
「あれ以来、両親は私に厳しい監視をつけました。勉学も運動もスケジュール管理、逃げ出さないように執事付きの生活、まさに英才教育そのものでしたね。この高校に入るなんてとてもレベルに合わないと反対されましたが、さすがに子供じゃありませんので、『ここじゃなきゃ中卒で就活する』と駄々をこねて押し切りました」
「……子供じゃん」
「もちろん演技ですよ。子供の真似ごとをするということは、大人の証拠でしょう?」
さあ、それはどうだろう。
僕にはわからない。
カップめんの残り汁を流しに捨て、雛菊はシャワールームに向かった。
僕がビングの椅子に座ってぼうっとしていると、
「よろしければ先輩も一緒にいかがですか?」
とシャワールームから聞こえてきた。
「はやく入ってこい」
「つれないですね。こんな美少女が誘惑しているというのに」
鼻で笑う雛菊だった。
そんな冗談を交わせるようになったのはいいことだろうか。
自信家のお嬢様なんて、あまり仲良くなりたい相手ではないんだけど……。
しばらく椅子に座っていたが、時間をもてあまして窓際に近づく。
カーテンを少し開けてみると、ガラスの向こうに煌々と浮かぶ銀月が見えた。
「……ひかり、おまえ、どこにいるんだ?」
雛菊はこのペンションで手に入れたいろいろなものを、自分の家に送った。
ひかりの状態とやらを、把握するために。
それはまったく意味がわからない。
だけど、必要でないことをしないやつだ。
きっと意義があるのだろう。
僕がシャワーを浴び終えたときには、リビングの明かりが消えていた。
すでに雛菊はベッドルームに行ったらしい。
二階には三部屋あり、その真ん中の部屋を使うと言っていた。
時計を見ると短針がすでに2時を回っていることに気付いた。いろいろ神経を使う一日だったので、僕もそろそろ疲労がまぶたに溜まっていた。
二階に上がり、僕は一番奥の部屋に向かう。この部屋のベランダからは海が見えるから、なかなか気にいった。
とりあえず部屋の電気は点けずに、月明かりだけでベランダに向かう。窓を開けると生ぬるい風が吹き込んできた。
肌にまとわりつくような空気。
どこまで逃げてもついてきそうなほど、粘着質な風。
あまり好きではない。
でも、嫌いではない。
窓を閉める気になれず、僕はベッドに横になる。
薄いスプリングベッドには、簡易のシーツがかかっているだけだった。とはいえつい最近まで誰かが使っていたらしく、わりと綺麗な状態だった。
……誰か、じゃない。
そのシーツからは、ひかりの匂いがした。
「…………。」
僕はゆっくり目を閉じて、眠りに落ちていった。
もぞり。
とシーツのなかで動く気配がして、とっさに目が冴える。
体は深い眠りについていたけど、脳は半分起きていた。
包丁男のことを警戒していたのかもしれないし、雛菊と同じ屋根の下で寝ていたから緊張していたのかもしれない。
とにかく僕はすぐに目が覚めて、動く気配を見た。
「……え」
僕のベッドの上に、目を閉じたままの雛菊がいた。
まったくまぶたが開いておらず、寝息が聞こえる。
熟睡しているのがわかる。口元がわずかにゆるんでいて、少しだけ涎が漏れている。
美しい彼女の顔は、窓から差し込む月光に照らされてセピア色の絵画のよう。
ああ、間違いない。
ぐっすりと、眠っている。
なのに。
その体は、僕の方へと這ってくる。
ずり、ずり、ずり
ずり、ずり、ずり
ずり、ずり、ずり
雛菊の体だけが、僕のほうへと向かってくる。
寒気が走った。
気持ち、悪い。
「……っ」
僕は声にならない声をあげて、ベッドから落ちた。
背中を強く打って、めまいがした。
打ちどころが悪かったのか、起き上れない。
そんな僕の体に、雛菊の体が落ちてくる。
ぐっ、と胸を圧迫されて息が詰まった。
「ひ、ひなぎく……」
彼女の肩をつかむ。
まだ目は覚めない。
意外と重たい雛菊の体。
漂う女の子の匂い。
僕の体にもたれかかかる彼女。
その彼女の手が、僕の服と体の間に滑り込む。
「――っ!」
両手とも。
彼女の手が僕の背中に回る。
肌と肌が触れ合う。
力を込めて、僕を抱きしめる。
「お、おい雛菊っ!」
無理やり引きはがそうとしても、離れない。
強い力。
女の子の腕力じゃない。
腕だけじゃなく、足も僕の足に絡みついてくる。
すぅすぅと、寝息だけは安息で。
まるで彼女の肢体だけが、別の生き物のように思えた。
「……雛菊!!!!」
僕は、あらん限りの力で叫んだ。
「……え」
と。
雛菊はようやく目を覚ました。
その瞬間、僕を潰すかのように締められていた彼女の両腕から力が失われる。足も中途半端に絡んだまま、床に投げ出されていた。
雛菊ははだけた僕の上半身を見て、自分の体勢を見て、それを交互に数度繰り返すと、
「……失礼しました」
静かに立ちあがった。
そしてなにも言わずに、部屋から出ていった。
そこには戸惑いも疑念も申し開きもなかった。
ただ、どこか寂しそうな表情を浮かべていた。
パタン、と閉じられた扉。
いまのはなんだったのだろうか。
そんな疑問が僕の頭を巡ろうとする。
雛菊の行動に恐怖を覚えた。
あれは雛菊の意志じゃなかった。
雛菊の恣意じゃなかった。
不気味で不自然なあの行動に、嫌悪感が押し寄せる。
……だけど。
あれを見て。
彼女の蠢く四肢を見て。
なぜか懐かしいような気持ちになった僕が……いて。
そして。
あんなものに、興奮してしまった僕が、いて。
抱きついてきた雛菊に反応をしてしまった僕を。
性的興奮を覚えてしまった僕を。
そんな僕の腐りきった心と肢体が。
僕は、一番気持ち悪いと思った。




