11話 叱咤
煌々と照りつける陽光が、僕たちの肌を刺す。
家から車で三十分。電車を使っても同じくらいの距離には海水浴場がある。
四年前、溺れた雛菊を助けた海岸。あのときもたしか、いまみたいに家族連れで賑わっていたっけ。遠浅で子供向けの海水浴場なのでふつう溺れるようなことにはならないんだけど、あのときは雛菊はいまとは違ってとても小柄だった。
……四年。
泣き喚きながらもがいていた女の子が、不遜なお嬢様になるのに充分な時間。
あれからここに来る気もおこらず、この夏の景色は久々に訪れた僕にとって懐かしいものだった。あの中学二年のときの僕はひとりでヒマを潰しに来たけど、なんで泳ごうと思ったのかは覚えていない。
「先輩、こちらです」
送迎の高級車から降りると、雛菊は海水浴場を左手に丘のほうへ向かう。夏だというのにスーツをぴっしりと着こなして麻の手袋をしている運転手をその場に残して、僕も駐車場を横切った。
やっぱりお嬢様だったんだな。
ようやく実感できたことはもちろん言わない。
「あそこです」
海岸線の先には丘があり、木々も乱立してちょっとした林になっている。
ここからじゃ見えないが、林のなかにはキャンプや宿泊につかえる貸しペンションがいくつもあるらしい。
僕は颯爽と歩く雛菊のうしろを無言でついていく。
道路を進み、丘のふもとにくる。道路はゆったりと歪曲して丘をよけて伸びているが、雛菊は舗装されていない土の坂道を登りだした。左右には木が植わっていて、そこには『ペンション利用者以外立ち入り禁止』と看板がかかげられている。その下には小さく『雛菊不動産』とあった。
うだるような暑さに汗がにじむ。
雛菊はずんずんと前を進む。ゆったりとしたシャツを重ね着し、動きやすそうなホットパンツ。雛菊にとても似合った服装で、シャツにジーンズという地味な僕とは違いすぎる。
それでも気温は平等に僕らを熱しているようで、足早に歩く彼女の首筋にもうっすらと汗が滲んでいた。
「すこしは考えましたか?」
と、雛菊が唐突に言う。
前を向いたままなので表情は見えない。
「なにが?」
「鏡ひかりについて、です」
「意味がわからないよ」
「それはそれは。愚鈍な先輩なことで」
どこか苛ついた態度の雛菊。
「なぜ鏡ひかりが姿を消し、こんなところで目撃されたか考えなかったのですか? 本当に?」
「……そりゃあ、だって」
「鏡ひかりを疑いたくないから、ですか?」
雛菊はあきれたように息をつく。
「たしかに彼女が例の連続猟奇殺人犯の可能性であることはあり得ません。しかし、なにか事情を知っていると考えるのが普通の思考です。もちろん警察も私も同じ考えです。それくらいは先輩も理解していますよね?」
「そりゃあ……」
「ではなぜ鏡ひかりは姿を消さなければならなかったのか。事情を知っている場合、なぜ逃げなければならないのか。それを考えようとはしなかったのですか? もしかしたらつぎは彼女が狙われていて、周囲に迷惑をかけたくない一心で逃げているのかもしれない。もしくは真実を公に出せないと思っているからかもしれない。もしかしたら真犯人をかばっているのかもしれない。もっとも彼女がかばおうと思う対象は、おそらく先輩だけでしょうけれど」
「……犯人は僕だって言うのか」
「可能性が否定できますか? 捜査の鉄則は第一発見者から疑え、ですよ」
「ふざけ――」
「ふざけてる? 冗談もほどほどにしてください!」
雛菊は振り返って、僕を睨んだ。
「そう思うのなら、どうしていままで腐っていたのですか? どうしていままで無味な日常をダラダラ過ごしていたのですか? あなたにとって『夢菜』という存在は、その程度のものだったのですか? 犯人に復讐しようとも思えないほどのちっぽけな存在だったのですか?」
なぜだろう。
雛菊は怒っていた。
「そんなことない。僕にとって夢菜は大事な存在だったんだ。だけどひかりだって同じくらいに大事で、そのふたりがいっぺんにいなくなった僕の気持ちをキミは考えてない」
「そうですね。でも、それがどうかしましたか?」
雛菊は、とても怒っていた。
「結果的に、あなたはなにもしていない。妹たちのためになにもしていない。それどころか彼女たちのことをまじめに考えようとしない。ひかりは行方をくらまし、夢菜の首から下はいまだに見つかっていないんですよ? あなたは夢菜の体を取り戻そうとは思わなかったのですか?」
「それは……」
「それは? 言い訳なんて聞きたくありません。あなたはただ逃げているだけです。考えないようにしているだけです。理屈や感情を折って、ただ現状に平伏しているだけです」
考えないようにしていた現実。
首だけで死んだ夢菜。
あの血の匂い。体液の匂い。
……たしかに僕は、それを思い出したくなかっただけだ。
「先輩は、鏡瑛太でしょう?」
と、雛菊はじっと僕を見つめる。
「あそこで私を助けたときの鏡瑛太は勇敢でした。自分が溺れる危険を厭わず、自分が傷つくことを考えず、ただ私を助けようとしてくれました。私はそれこそが先輩だと信じて、同じ高校に入学しました」
「…………。」
「しかしなんですか、その体たらくは。それがいまの先輩ですか? たしかに大事なひとが亡くなったことは悲しいでしょう。辛いでしょう。でも、あなたの目の前にいるのは誰ですか? 私です。あなたに助けられたおかげで生きている雛菊姫子です。あなたの勇敢さを目標にしていままで生きてきたんです。ここに立っている私は、あなたそのものなんですよ。なのに本人がそんなのでどうしてくれるのですか?」
無茶な理屈だった。
ほんとうに無理やりだ。
……だけど。
「先輩はそろそろ前に進むべきです。充分に休んだのでしょう? 思考停止はここまでです。あなたはあの完璧なる鏡夢菜、その兄でしょう? この街の誰もが知るあの少女に、ずっと慕われていたのでしょう? たとえ兄だとしても、つまらない人間をあの夢菜が死ぬ直前まで慕うとは思いません。あなたのポテンシャルを見せてください。私には、いまのあなたがただ愚鈍な人間になったのだとは思えない。だから先輩、きちんと前を向いて歩いてください」
「……雛菊」
もしかして、と思う。
いまの叱咤は、激励なんだろうか。
雛菊は怒るように――しかし場面にそぐわずとても愛おしそうに――僕を見つめる。
その視線は、嫌じゃなかった。
「……わかった」
「そうですか。それはなによりです。でも気をつけてくださいね先輩」
雛菊は再び歩き出し、すぐに坂の頂上へと登りつく。
そこでようやく、僕はその異様な暗さに気付いた。
遠目からはちょっとした林だと思っていた。
夏の真昼、とても明るいはずのその場所は、木々の枝と葉が入り乱れた天井に覆われて、まるで夜のように暗かった。
うす暗く、空気も冷たい。
「……気をつけてください。ここから先は、〝日常〟なんかじゃない」
そう言った雛菊の。
その後ろに、いつの間にか男が立っていた。
「雛菊っ!」
僕はとっさに雛菊の腕を引き寄せた。
彼女がいた空間が、男の振り下ろした手に裂かれる。
「ちっ」
男は振り下ろした中華包丁を、そのまま返す刀で振り上げてくる。
雛菊をひきよせた勢いを止めずに、後ろに倒れる僕。
――なんだコイツ!
雛菊をそのまま後ろに放り投げ、僕は倒れたまま男の足を蹴る。
ゴッ、と脛を蹴られてひるんだ男はすぐに包丁を僕にめがけて振り下ろしてくる。
横に転がってなんとかかわす。
だが、次はない――
「先輩、頭下げて!」
聞こえて頭を伏せた僕のすぐ上を、雛菊が飛んだ。
彼女は重ね着していた服をひとつ男の顔に勢いよくかぶせた。
闇雲に包丁を振り回した男。
さっと後退した雛菊は、
「逃げますよ先輩!」
起き上った僕の手をとり、坂を駆け降りた。




