ま
「この ほうれん草 を君に渡すわけにはいかない。」
俺は宣言した。決して栗平さんには渡さないがために。
「ど、どうしてですかっ! 私がほうれん草を必要としていることは知ってますよね!?」
「どうしてか、だって? それは俺が『ほうれん草研究家』だからさ!」
きっと今の俺にはド迫力の集中線が描かれていることだろう。
しかし、ほうれん草研究家をやっていることが役立つときが来るとは、夢にも思わなかった。
「ほ、ほうれん草研究家なんですか!? ドラゴンをほうれん草で倒すという、あのほうれん草研究家ですかっ!?」
「いや、そのほうれん草研究家ではないです。」
そんなほうれん草研究家ではない。断じてない。なんだそのほうれん草研究家は? どこでそんな変な知識を身につけてしまったんだ。
「栗平さん、落ち着いてください。現代社会にドラゴンは存在しません」
「え、じゃあ母の言っていたことは嘘だったんでしょうか? この国には至る所にドラゴンが潜んでいるという話だったんですけど……。全長5cmのドラゴンが……」
「トカゲだよっ! 全長5cmのドラゴンはトカゲだよっ!」
「翔兄、話が逸れてない?」
しまった。どうしてほうれん草の話からトカゲの話になってしまったんだろう?
「とにかく、栗平さんにこのほうれん草を渡すわけにはいきません。ほうれん草研究家として」
「怜ちゃん、本当に稲城さんはほうれん草研究家なんですか……?」
「え。ああ、うん……。まあ、ほうれん草研究家ではあるね」
「疑念があるのなら俺の友達にも聞いてみてください。きっとみんな俺がほうれん草研究家だと証明してくれますから」
「わかりました……。そこまでおっしゃるのなら信じます」
日頃からほうれん草研究家って名乗ってて良かった~! 青梗菜研究家って名乗らなくてよかった~!
怜も「本当は青梗菜研究家だけど」と言いたい様子だが思いとどまっているようだ。
「でも、それじゃあ私はどうすればいいんですか?」
「調理済みのものは無理ですが、代わりにこれを持って行ってください」
そういって俺が渡したものこそ、ほうれん草だ。これでようやく、栗平さんにほうれん草を持たせることに成功したわけだ。
時間にしたら数時間の攻防だったが、いろいろなことがあった気がする。綱島なんか未だに闇鍋戦争から復活できていないでいるしな。明日の朝には元気になっていてくれることを祈ろう。
「あの……稲城さんはほうれん草研究家なんですよね? 是非ともお願いしたいことがあるんですけど……」
ん? なんだろう? 俺はかつてない達成感を感じて高揚しているので、大抵のことは引き受けてあげるよ。
「なんですか? 俺にできることなんでしょうか?」
「はい! ぜひ稲城さんにやってもらいたいことなんです!」
ここまで言われたら頼み事が「私の家の蜂の巣を取り除いてください!」とかでも「はい!」と答えてしまいそうだ。
いや、まあ、実際にそうだったら断るけど。
「で、そのやってもらいたいことってなんなんですか?」
「その……いきなり断らないでくださいね?」
「……そんなに大変なことをさせられるんですか?」
「いえ! 大変ではないんですけど……」
さすがに警戒心が働いてしまうな。ほうれん草研究家だからと頼むこととはなんだろう? 俺にはせいぜい、いいほうれん草の見分け方を教えるくらいしかできないけどな。専門は青梗菜だし。
「まあ、俺にできることなら精一杯のことはするので言ってみてください」
「はい。あの……私と一緒にほうれん草を届けるために、会社までついてきてくれませんかっ!?」
ん? 会社についていく? 俺が?
「……俺が栗平さんの会社に行くんですか?」
「はい! そうです!」
「え~と、俺について来てほしい理由を教えてもらえますか?」
「ほうれん草に詳しいということでしたので、会社にほうれん草を持ち帰ったときに、会社の人たちに詳しい説明をして頂きたいと思ったんです!」
要は「ほうれん草買って帰るだけでなく+αの要素があれば、多少は怒られずに済むのではないか。まして部外者がいる前でならなおさら」ということだよね?
「ええと、でも説明と言っても何を説明すればいいのか……。栗平さんの上司は、どうしてほうれん草を買ってこいと言ったんでしたっけ?」
「わかりません!」
ええ……。
「ただ、何かしらほうれん草を必要とする目的はあるはずなんです。そうでなければわざわざ買いに行かせる必要がありませんから。なので稲城さんに目的達成のために協力していただきたい、と思っているんです。ダメでしょうか?」
「翔兄。行ってあげれば? どうせ明日は仕事も予定も入ってなかったんでしょ?」
援護射撃が来てしまった。
けど、まあそうなんだよな……。あまり気は乗らないが、栗平さんの会社に興味がないわけではない。なんて言ったって従業員におつかいでほうれん草を買いに行かせる会社だからな。気は乗らないが、気にはなる。
あと、ほうれん草を何に使うのか気にならなくもない。
「わかりました。連れて行ってください。俺にできることをさせてもらいます」
こうして俺と栗平さんの奇妙な関係はもう少し続くことになったのだ。