書
私は自らの命のために ほうれん草 を手に入れなければならない……。
ああ、君たちの言いたいことは分かる。
「ちんげん菜 ではいけないの?」ということだろう?
だがこれには理由があるのだ。順を追って話そう。聞いてくれ。
私は栗平由梨という。ある組織に所属する女性メンバーの一人だ。その組織は人には言えないような仕事を請け負う、いわゆる“危ない”組織であった。はたから見れば、ただ靴に靴ひもを通しているだけの会社だ。が、その実態は危険極まりないものであった。これについて君たちに話すのは控えておこう……。
肝心なのは、そこでの私の成績が最悪である、ということだった。
仕事を達成できないだけなら、まだましな方だった。私は、
「鉛筆を削っておいて」と言われたらボールペンを削り、
「消しゴムをとって」と言われたら はんだごて を渡してしまう。
そんな人間だった。
ついに上司の堪忍袋の緒が切れたのは、その日出社して早々の午前9時であった。
着くなり上司はこう言った。
「ほうれん草を買ってこい」
それは苦悶の表情の中から絞り出され、その一言を発すること自体が大変な苦労であるかのようだった。
空気がずっしりと重さを増して、私たち二人に纏わりついているようにも感じた。
私は未だかつて、これほど重々しい「ほうれん草を買ってこい」を聞いたことはなかった……。
まあ、そもそも「ほうれん草を買ってこい」という言葉を聞いたこともなかったが。
ただ私は感じ取ったのだ。
きっとこのミッションを失敗したら私はクビになる。
私はこのミッションに失敗するわけにはいかなかった……。
◇◆◇◆
やあ、こんにちは。
俺は稲城翔。ほうれん草研究家だ。
ほうれん草研究家という肩書きとはなんだ? と思われる方も多いだろう。お答えしよう。
ほうれん草研究家とは“チンゲン菜について研究する者”のことである!
……ああ、わかっている。「だったら、チンゲン菜研究家と名乗れよ!」って言いたいんだろ?
これにも事情があるんだ……。
だが一つ言わせて頂きたい。君たちはいま、チンゲン菜研究家という存在を認めはしなかったか? 消極的であっても、俺がチンゲン菜研究家を名乗ることを勧めたはずだ。
これが初めからちんげん菜研究家と名乗っていたらどうだろう? きっと、
「そんな変な肩書きなんか名乗るなよ!」
と突っ込みがきていたことだろうと思う。それが初めにほうれん草研究家と名乗っておくことで
「だったら、チンゲン菜研究家と名乗れよ!」
という声に変わるのだ。これも私がほうれん草研究家を名乗っている理由の一つである。
さてそんな俺の物語を語らせて頂こうと思う。
ほうれん草そんなに好きじゃないです。