第六章「夢みるイルカ」
想たちが、博士の研究施設にたどり着いてから約一週間後、計画が遂行される日が来た。
とはいえ、地味なものだった。対ウィルスを放出するための仕掛けをすでに、地下層各地に仕掛け終わり、あとは博士がスイッチを押すだけだった。対ウィルスが放出されれば、結晶樹の荒廃は終わり、徐々に――崩壊はじめてから現在までと同じ程度の期間で――玲瓏城は自動的に修復されていくだろう、と博士は告げた。
メンバーたちはディモルフォセカが用意した飲み物を片手にもち、乾杯の用意を整えていた。
「この一週間、なんだかとても楽しかったわ」
明るい笑みを浮かべて、ヒズミが言った。
「俺もだ、こんなに笑ったのは久しぶりだな」
ジョシュアは、欠伸をするように牙のはえた口を大きく開いた。
「僕も楽しかった。正直、長老会から話が来たとき、行くかどうか迷ったんだけど、今思えば――。本当に来て良かったと思ってるよ」
「長老会は、最初からこうなることを予想していたのかしら?」
ふと、ヒズミが首をかしげる。
「そうかも知れない。博士が玲瓏城復活をもくろんでいるという情報を、どういう経路でか入手して、僕やヒズミを支援に――。でも、それにしちゃ偶然が多すぎる気がするな」
「ええ。結局のところ、彼らの意志はよく分からない――」
「さあ、お立ち会い! いよいよ、我々は復活の蝋燭に火を点すよ」
博士がグラスを大きく掲げた。ボタンに指を伸ばす。
「我が妹、クリスタ・アンゲロプロウに。そして、我々の〈玲瓏城〉に、乾杯!」
しかし、ボタンが押されることはなかった。
次の瞬間を目撃したのは、想だけだった。博士とジョシュアは糸の切れたあやつり人形のようにがっくりと膝から崩れ落ち、ディモルフォセカは横倒しになった。激しい金属が響く。そして、ヒズミもぐらりと身体を大きく揺らし、やがて白銀色の燐光を散らしながら霧散しはじめた。
「何だ、これは!?」
想は呆気にとられ、あたりを見まわし、まず博士に駆け寄った。身体はまだ温かかったが、胸に手を当てると、明らかに心音が停止していた。口元からはひとすじの血が流れる。ジョシュアは舌をだらりと垂らして、犬のように死んでいた。
「想……」
ヒズミの微かな声が洩れた気がして、想は必死でヒズミに取りすがった。
「待ってくれ。いかないでくれ。どうなってるんだ……」
涙が溢れてくるのにも気づかなかった。
全てが良くなるはずじゃなかったのか……?
ヒズミが微笑んでいる。眠るように、安らかな顔で。だが、もうその身体は彼の手に触れない。
ヒズミは、想が見つめる前で、ゆっくりと消失していった。
想は一人きりで、ただ呆然と立っていた。
足下から突然、無数の蝶が飛び立った。虹のように、星のように、無数の色彩を持つ翅の群。赤い蝶、青い蝶、白い蝶、黒い蝶。
彼は自分の周囲から空間が無くなっていることに気づく。時間さえもない。ただ色彩の群がアトランダムに姿を変えている。
「復活はない。新たなる始まりはない。ただ全てが終わっていくだけ」
懐かしい声が響いた。いとしい面影が彼の眼前に立っている。
「姉さん?」
「久しぶりね、想……。会いたかった」
優しい声。新城恋が白い薄布を一枚纏っただけの姿で、色彩の奔流の中に静かに佇んでいる。
「姉さんの仕業なのか?」
「ええ。長老会の意志は、死んだ私の意志を全うすること。すなわち〈玲瓏城〉の崩壊は私の最後の意志。あなたが派遣されたのは、監視者として復活を阻止するため。嗅ぎつけた悪夢があなたを籠絡しに来ていたけれど、所詮悪夢は悪夢。目覚めた者の前には霧散するしかない。あなたに仕掛けられた殺戮システムが発動し、邪魔者たちは除去された。
だいぶ遊ばれていたわね、想」
「遊ばれていた?」
ヒズミは想のことを騙していたのだろうか。
今になって、薄々思い出しはじめていることに想は気づいた。はじめて会ったとき、ヒズミは何らかの方法で想の記憶にアクセスしていた。長老会に「〈玲瓏城〉復活を食い止めろ」と、指示されたことを忘れさせ、閉ざされていた恋の記憶に侵入したことで、ヒズミに恋の姿が重なって見えた。
すべては偽りだったのだ。想を操り〈玲瓏城〉を復活させるための。
二つの混在した記憶に想は引き裂かれていた。
「ひどいよ、こんなの……」
「哀しい? 寂しい? そういうものよ、夢から醒めるときは、いつでもね。泣いても元には戻れない」
「そんな……」
想はただ唇を噛んだ。強く。
「どうして滅ぼすんだ、〈玲瓏城〉を? 父さんの夢だったんだろう?」
「世界の潮流に逆らった、ね。〈玲瓏城〉が存続すれば、それだけ人類の終焉が近くなるの。それは定められた法則で、覆せない。いわば〈玲瓏城〉自体が人類にとっての悪夢。目覚めなければならないと、私は判断した」
悲痛な表情で恋は呟く。
「まるで、神様みたいなことを言うんだな」
「神? そうね、〈玲瓏城〉では神は創造主ではなく被造物。普遍文法を超える言語認知能力を持ち、神からのメッセージを解読するために遺伝子操作で創られた私は、父さんの予想を超えて、偽りの神になってしまった。知ってる? 結晶樹も悪夢も、私が考え出したんだよ? 七歳の時に。父さんはそれを資本の力を借りて生産しただけ」
色彩の奔流はいつのまにか途切れ、あたりは闇だけになってしまった。お互いの姿だけがはっきりと見える。
「私にとって、すべては幼い日の甘美な悪夢。それで世界がこんな風になるなんて、思いもしなかった。誰が悪いわけでもないけど、終わらせたいの。こんなことは、もう……」
「悪いけど、姉さんの言うことは分からない。ごめんね。でも、玲瓏城が無理だとしても、彼らだけは助けたい。それも無理なのかな……?」
「それはできるかも知れない」
「本当に? さっきのはなかったことにできるの?」
「時間を元に戻すことはできない。でも、すべての〈結晶樹〉を束ねて、一つの巨大な量子コンピュータとして働かせれば、もう一つの時間軸を、もう一つの宇宙を擬似創造することはできるかも知れない。その中で、彼らが、そしてあなたが生き直せば、違う結末に辿りつくから」
「途方もない話だね」
想は泣きながら微笑んだ。
恋は足下に手を伸ばし、絵本をひろいあげた。
ことり、と音がして、ページの隙間から白金の鍵が落ちた。
想はそれを拾う。恋が絵本を開き、鍵穴だけが、描かれたページを指し示した。
鍵穴にゆっくりと鍵をさしこみ、注意深く回した。
どっと本のページから海水が溢れてきた。
「イルカは眠らないんだよね」
想が呟くと、恋は静かに微笑んだ。
「だけど、ひょっとしたらいるかも知れないわね。一匹くらいは。夢が見たくて、溺れて眠りながらどこまでも、どこまでも深く沈んでいってしまうイルカが……」
人間は皆、夢みるイルカなのかも知れない。色彩の海の中に沈みながら、そんなことを想は思った。
やがてページがすべての水を吸い、あらゆるページに色彩豊かな絵が揃った。
表題は『夢みるイルカ』。