第四章「復活の賢者」
結局、道を二、三度間違えた後、やがて明るい部屋へ辿りついた。坑道と同じ翡翠のような壁面だったが、ずっと整った形状をしていた。
「博士、戻ってきたぞ」
言うなり、ジョシュアは袋に入れられた土蜘蛛の脚をテーブルの上に投げた。
「おお、持ってきてくれたか。助かるよ。……だが、その子らは? 妙な道連れを沢山つれてきたもんじゃないか」
博士は、無精髭の痩せた男だった。想像していたよりずっと若く、三十台中盤といった外見だった。彼はジョシュアが連れてきた奇妙な同伴者たちを見て、大きく眉を上げて見せた。
「〈獣人〉、〈悪夢〉に〈自動人形〉か。賑やかなことだな。〈玲瓏城〉で暮らす種族がすべてここに集まったことになる」
ジョシュアが簡単に三人をここまで連れてきた経緯を説明した。博士は物事が詳細でなければ気が済まない性格のようで、何度か質問を差しはさんだ。特に想が新城智之の息子だったことには驚き「面識はなかったが、君の父親のことを尊敬していた」と伝えた。
長老会の差し金、ということについても、どうやら最も興味を覚えたのはこの人物のようだった。
「失礼ですが博士、あなたのお名前は?」
ヒズミが尋ねる。
「私か? 私はヴァシリス・アンゲロプロス。ペルポネソス半島の生まれでね。覚えにくいだろう? だから博士で構わない。このあたりにもう学者はいないし」
博士の独特の発音は、どうやらギリシア訛りらしかった。
「そうそう。ずいぶん汚れていると思ったら、脱走したノエシスたちを破壊してくれたらしいね。恩に着るよ」
博士は、卓の上にのっていた硝子瓶を指先で数回叩いた。鈍い音を立てた硝子瓶の中は、さっきの不気味な褐色をした粘液状のもので満たされている。
「これは一体、何なんですか?」
想は思わず尋ねた。
「ふむ。現象学の用語だが、ノエシス-ノエマという言葉を聞いたことがないかね? ノエシスとは、意識の中に浮かぶ諸現象に対して“意味”や“構造”“概念”を付与する作用面――。思い切り省いて言うならば、人間の意識が持つ純粋な“欲望”や“願望”、あるいは“志向性”とでも言うべきもののことだ」
「欲望?」
「うん。そういった用語を借用して、仮想生命に与えた仮の名でしか無いわけだが――。一言で言えば彼らは“具現化された欲望”とでも言うものかもしれんね」
想は、改めて覆い被さられたときの気色の悪さを思い出し、少し毛が逆立つのを感じた。
一様に表情を歪めた想たちを見て、博士は苦笑した。
「そんな顔をしないでくれ。私にとっては大切な子供であり、研究対象だ。破壊されてしまったものたちには、気の毒なことだったと思っているが、暴走すると手が付けられなくてね」
子供と研究対象とが、慈愛の対象として横に並べられたことで、ふと想は博士の顔に父親の面影が重なって見えた。自分の父親も、どこかそういう二重になった視線で自分と姉のことを見ていたような気がする。
『父さんはね、とても気の毒なの人なの』
そんなことを姉は言っていた。何度目かの姉の姿がフラッシュバックする。
『すべてを捨てて生みだそうとしたものが、結局、最後まで手に入らなかった。玲瓏城も楽園にはならなかったし、私もまた父さんが望んでいたような私にはなれなかった。大人が子供に希望を押しつけるとか、そういう類のことではないの。私がどんなものになろうとも、父さんは愛してくれただろうし、実際に愛してくれている。できる限りのことをしてくれたし、私以外の何かであるように命じたことも無かった。彼は期待していたわけでもなく、失望したわけでもない。
にもかかわらず、私は彼を裏切ってしまった。彼の予期を超えたものになってしまった。遥かに、高く、遠くへ。だから、私は父さんが望む限り、傍にいようと思う。
それに正直、どこかに行きたいとももう思わなくなってしまった。もし、父さんが許してくれて、私がそれを望む日が来たら、私をどこかへ連れ出して。お願いだよ、想――』
姉はあらゆることを完全に理解した上で、父親のことを純粋に、そして完璧に愛していたように思う。自分も父親のことを好きではいたが、何か割り切れないものを抱えていたのではないだろうか。
そして、それは玲瓏城の“崩壊”について、悲しみと同時に不思議な心地よさを覚えるような、アンビヴァレンツな感情の波を生みだす原因となっていた気がする。
うつむいていたヒズミが顔をあげ、髪をかきあげる仕草で、ふと我にかえる。
「もう一つ教えて下さい、博士。土蜘蛛の脚を求め、欲望を具現化した疑似生命を生みだし、この〈玲瓏城〉の最下層付近で、あなたは一体何をしようとしているのですか?」
「単純に言えばだね、お嬢さん」
ヴァシリス・アンゲロプロス博士は腰に手をあて、悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。
「この〈玲瓏城〉の崩壊を止め、復活させようとしているんだ。おわかりかな?」