第二章「砂漠の獅子」
扉が開くと、そこは砂漠だった。
上を見上げると、星空があった。しかし、地上から見える空とは異なり、星が均整のとれた格子模様を描いている。地下層の天蓋に作られた仮の天球だった。
あたりが不思議に明るいのは、硝子の破片のような砂粒の一つ一つが輝いているからだった。
「この辺りも昔は居住区だったのにね。建材に使われていた〈結晶樹〉が分解されて粉末状になってるみたい。最下層に向かうには、少し先にある坑道を降りなきゃいけないわよ」
ピッと耳が目的地の方向を指す。
「しばらく歩こうか」
二人は歩いていくことにした。
雑談しながら歩いていくうちに、ヒズミと名乗る〈悪夢〉が思っていた以上におしゃべりだったということを思い知らされた。
歩きづらそうなハイヒールなのに、スカートを優雅に揺らしながら、身軽に歩いていくのだが、口数がまったく減らない。
曖昧に相づちをうっているうちに、ほとんどヒズミの独白に近いペースに巻き込まれてしまった。話は逸れてしまって、元々何の話をしていたかも思い出せない。
「人々が〈素粒子〉について語っていたのと似ているかな。〈素粒子〉と、それらが編み上げている〈物質〉とでは、存在様式が全くことなるから、〈素粒子が在る〉ということと、〈物質が在る〉ということの意味は全く違う。科学者だって計算はできても理解できているわけじゃないから、粒子であると同時に波である、みたいな、甚だ歯切れの悪い表現に逃げ込まざるを得ない、ってわけ」
「へえ」
「〈素粒子〉が実は点ではなくて、ひも――輪ゴム状の震える何か――だって考えるのだって、計算上のモデルとしてうまくいくからっていうだけの話なわけよ。時空内のあらゆる点に遍在するカラビ・ヤウ図形に絡みついた“ウロボロス”だと考えるのと、空間内を満たす実体を持った連続体と考えるのも、双方、仮説上のこと。間違ってるっていいたいわけじゃないよ? モデルとして粗密はあれど、そこそこ正確な認識から形成される以上、どんな“リアリティ”にも、それなりの基礎がある、っていうことで――」
「えっと、ごめん、さっきから何言ってるのか、全然分からない。よく喋るね」
とうとう想は音を上げ、苦情を伝えた。まるで、姉さんみたいだ、と心の中で思う。
「まあね。だって、私は〈悪夢〉だもの」
ヒズミは拗ねたように、明後日の方角を向いて肩をすくめた。
と、そのとき突然、ヒズミが黙り込んだ。ウサギの耳が垂直に立つ。
「気を付けて、……何かの気配を感じる」
「え……?」
立ち止まり、耳を澄ます。不気味な静寂に包まれていた。
「危ない!」
突然、足下の砂が弾けるように散った。土煙が立つ。真下から巨大な何かが現れ、右足の付け根に鉄の杭のような爪が打ち込まれるのが見えた。焼かれるような熱さが激痛に変わる。
必死にもがこうとする。しかし、四方から、何本もの黒く節くれた腕がまとわりついてくる。どれほど暴れても自由が利かなかった。脚に食いつかれたまま、逆に激しく振り回される。
「想!」
ヒズミが叫ぶのが聞こえる。ヒズミも想を助けようと組みついて行っているようだが、いかんせん相手が大きすぎ、強すぎるようで、はじき飛ばされ、何もできないでいるようだった。
「じっとしてろ!」
ヒズミとは違う、低い男の声が聞こえた。言語も日本語ではなく、英語だった。ほぼ同時に連続する破裂音が響く。銃声だ。ばきばきと分厚い甲殻が砕ける嫌な音が聞こえ、なま暖かい生き物の体液が頬についた。
脚に感じていた圧迫感が弱くなり、やがて地面に投げ出された。
「想、大丈夫?」
傍らにヒズミがしゃがみ込んでいるようだが、三半規管がおぼつかず、方向感覚が定まらない。世界がぐるぐるとまわっているようだ。
そのまま重力に身体を預け、地面に伏した。
「これで治療をしてやってくれ。解毒剤も入っている」
また男の声が聞こえる。続いてヒズミのものらしい、か細い手が傷口に触れるのを感じる。
うっすら目を開き、見上げると、厳つい体躯をした巨漢が自動小銃を構えていた。顔が影になってみえないが、どうやら男の頭部は人間ではなく、獅子のものであるようだった。
男は想を襲った巨大なものに、ナイフを突きたて、脚を一本もぎとりながら説明した。
「土蜘蛛だよ。どこかの研究施設から逃げ出して、この辺をうろついてたんだ」
「あなたは〈悪夢〉? ……違うわね、人狼か」
ヒズミが吐き捨てるように言う。日本語と同じように流暢な発音だった。
「〈獣人〉と言って欲しいもんだ」
男が吠えるような声で言った。〈獣人〉とは生体改造によって、動物のような姿に自分たちの身体を作りかえてしまった人々のことだ。そんな処置が許されているのは〈玲瓏城〉だけだったから、生体改造の禁止法令が出される度に、多くの〈獣人〉たちが渡ってきていた。〈悪夢〉たちはどういうわけか、〈獣人〉を激しく忌み嫌っていることが多かった。
「終わったよ――。これで大丈夫かしら」
処置を終えたヒズミが不安げな声で呟く。
想はどうにか身体を起こし、首や手足を動かしてみる。足に痛みは残っているが、他の部分には異常はなさそうだった。
「ありがとう。助かりました」
不慣れな英語で想は感謝を述べた。
「いや、なに。博士に頼まれてたんだ。こいつを持ってくるように、ってな。補食行動中以外は、急所を見せることがないから、どうしようかと思案していたところだった。こちらこそ偶然とはいえ、囮になってもらって感謝するよ」
〈獣人〉は快活な笑いを響かせ、想に手をさしのべた。その分厚く筋肉質な手を握り返した想は、恐ろしげな獅子の眼に見つめられ、少し戸惑ったが、そのまなざしには明晰な知性とどこか優しげな人の良さがにじんでいた。
少し迷ったが想は男に、ある程度、素性を明かすことにした。ヒズミはあまり愉快そうな顔はしていなかったが積極的に反対はしなかった。〈悪夢〉たちは、他人からどう見られるかは気にしない、と聞いていたが、それは本当のことだったようだ。人工生命の身としては、人間からの評判を気にしても仕方がないし、それによって行動を妨げられることもない。
男は長老会の依頼と聞いて、〈獣人〉なりの怪訝な表情を浮かべたが、それほど深く追求はしなかった。長老会は既に〈玲瓏城〉の統治からは遠ざかっており、男の利害目的とは特に関連がなくなっているようだった。ただ、二人に対して「物好きだな」と一言だけ感想を述べた。
男はジョシュアと名乗った。
「このあたりに住んでいるんですか? 他にも人が?」
興味を覚えて想は尋ねたが、ジョシュアは巨大蜘蛛の解体を続けながら、寂しげに首を振った。
「俺と、博士だけだ。前には大勢いたんだが、もうみんな去ってしまったよ」
近くには、ジョシュアが乗ってきたらしい古い型の輸送車輌があった。ジョシュアは荷台に、何本かのもぎとった巨大蜘蛛の脚を積み込みつつ、二人に訊いた。
「ところで、君らは車もなしに来たのか?」
「ええ」
「いったいどうやったんだ? このあたりまで来るのは並大抵のことじゃないぞ」
「エレベーターを使ったんです」
と、想は答えた。
「ああ、あのエレベーターがまだ生きてたのか……。俺の友人たちが出ていくときに使ったやつさ。もうとっくの昔に停止してしまったと思っていたが」
感慨深げな表情で、男は言った。
「最下層に向かう坑道ってのは、たぶん博士の研究施設があるあたりだろう。乗せていってやるよ」
ヒズミは少し嫌がったが、想の足のこともあり、最終的には頼むことに決まった。
車輌のエンジンをかけ、ジョシュアは、ため息をついて周囲を見まわした。
「〈玲瓏城〉はどうなっちまったんだろうな。いったい、どうしてこんなことに?」