第一章「夢への扉」
ほとんど音もなく扉が開いた。
エレベーター内をのぞいて、想は、先客がいたことに驚いた。
一人の少女が、鼻歌を歌いながらスケッチブックに何かを描いていた。白いブラウスの上に、ヴェルヴェットのように艶のある黒いジャンパースカートを重ね着し、両足を投げ出すように、直接床に座っていた。奇妙なのは、頭頂部から突き出た二本の“ウサギの耳”。アクセサリーなのか、“はじめから生えているもの”なのかはよく分からない。
この場所で他人と会うことを想定していなかったので、警戒するべきだと思ったが、どうにも緊張感がない相手の姿に拍子抜けしてしまっていた。
扉が閉じる。どこからか歯車が廻り軋むような音が聞こえた。エレベーターが降下しはじめ、一瞬からだが軽くなる。
エレベーター内は、壁も天井も床も磨き上げられた黒曜石のように光っている。扉の上の表示板には橙色の文字で、現在の階数――地下第二フロア――が示されていた。
想の気配を感じたのか、はじめて彼女は顔を上げた。彫りの顔、切れ長の二重まぶたに長い睫毛、色白の膚、栗色のロングヘアに、すみれ色の瞳――。人形のように美しい顔立ちだ。相手は、お、と軽く驚いたような表情で想を見た。
せわしく立ち上がり、腰のほこりをはたくような仕草をして、微笑を浮かべた。
「こんにちは、あなたも長老会から派遣されてきたの?」
相手の言葉が流暢な日本語だったことに少し驚く。想と同年代で、十四、五歳といったところだろうか。可憐な声をしていた。
想が黙っているのを見て、少し首をかしげる。
「ごめんなさいね、驚かせるつもりは無かったんだけど」
「いや」
想は軽く首を振る。
長老会の名前が出るとは思わなかった。やはり警戒すべきかも知れない、と思う。やけになれなれしい態度も少しだけ癪にさわった。
「ちなみに私の名前は“ヒズミ”」
と彼女は言う。
妙な名前だな、と想は思う。
「日本人なの?」
「いえ、そういうわけじゃないけど。〈悪夢〉って知ってる?」
「ああ」
心当たりがある。〈玲瓏城〉で開発されていた仮想生命体の一種で、コンピュータ内でシミュレートされた意識を、ホログラフィや万能霧によって“投影”し、実在しているかのように見せかけるタイプのものを、そう呼んでいたはずだ。
だとしたら、彼女の場違いな格好や奇妙な美しさも、分からないではない。自在に姿を変えられる〈悪夢〉たちにとって、外見は特に意味を持たないのだから。単純に“好みの格好をしている”ということかも知れない。何らかの偽装の可能性もあるが、それならもう少し自然な姿を選びそうなものではある(ちなみに想自身は灰色の身体にぴったりした保護スーツを身につけている)。
「僕のことを知っているのか?」
「いえ。だから訊いてみたんだけど。まあ、不都合なら別に答えてくれなくてもいいわ」
肩をすくめてみせる。
特に秘密にしておく必要があるわけではない。とりあえず名乗ることにした。
「知ってるかもしれない。僕は、新城想」
ぱっと、彼女の顔が明るくなった。
「ああ! 新城智之博士の息子さん? それなら知ってる。プロフィールだけ、だけど。なぜこんな所にいるの?」
「さっき君が言ってたように、長老会に頼まれたんだ」
「やっぱり。実は私もなの」
親愛の印という意味でか、両手で想の手を握った。
想が長老会――かつて〈玲瓏城〉の運営にあたっており、“崩壊”がはじまってからは上海へと移された組織だ――から呼び出されたのは数日前だった。伝えられたのは、“崩壊”しつつある玲瓏城へゆき、その“最下層”へと向かって欲しいという要望だった。
「――なぜ、僕が? 今になって?」という想の問いに、長老会から明確な解答はなかった。それでも行ってみようと思ったのは、死んだと言われていた彼の姉――新城恋が“まだ生きている兆候”を発見した、と長老会が匂わせたからだった。
「ヒズミって言ったっけ。君はいったい何を頼まれたんだ?」
「とくに何も。ただ、最下層に行ってみて欲しい、ってことだけ。理由を何度も聞いてみたけど、とくに教えてくれなくて。まあ、こっちには断る理由もないし、なんとなくこの街が気になってたから、行ってみようと思ったんだけどね。他の人も依頼されたなんて話は聞かなかった」
「僕も同じだ」
長老会から同様の依頼を受けたことを説明する。ただ、姉については、なんとなく他人には言いづらいと感じていたので、そこについては伏せていたが。
「地上層の荒廃ぐあいったら、ひどいでしょ? 〈玲瓏城〉の住人で、とくにキミみたいに縁が深かった人なら、哀しい思いをしただろうけど……」
「そうだね。予想はしていたけど、さすがに寂しかったよ。尖塔群も庭園も荒れ果ててしまって――。だから〈悪夢〉のプログラムがまだ稼動してるとも思ってなかった」
「顕現できるかは、場所に寄るけどね。いちおうシステムそのものは生きてるの。バックアップはインタースフェア上にもあるし」
二人は並んで腰を下ろし、〈玲瓏城〉について話を続けた。二人をのせたエレベーターは途中で止まる気配もなく、下り続けている。
「で、目的地もやろうとしていることも一緒なんだから、とりあえず一緒に行動することにしない? 構わないでしょ?」
「まあ、そうだね。こっちとしては問題ないよ」
「よし、話は決まりね。ところで」
と、ヒズミは身を乗り出した。ひょこんとウサギ耳が揺れる。
「ねえ、さっきから気になってたんだけど、それ何? ちょっと、見せて」
想が小脇にかかえているものを指し示す。
「構わないけど」
カバーをはずし、それを手渡した。
表紙にイルカのシルエットが描かれたそれは一冊の絵本のように見えた。飾り文字でタイトルが書かれている。
「『夢みるイルカ』、ね」
と、ヒズミは呟きぱらぱらとめくる。そして、がっかりしたような声で、えーっ! と叫んだ。
「何も描いてないじゃない!」
「うん」
ヒズミが言うように、ほとんどのページがただの白紙だった。だからそれを絵本と呼んで良いのか分からない。
ただ、そのタイトルに関して、わずかに思い当たる節があるのだった。
『イルカは死ぬまで眠らないんだよ。だから夢を見ることもないのかも知れない』
そう教えてくれたのは、確かに姉だった気がする。
白紙のページを見つめるヒズミの姿に、ふと、いつの日か見た姉の姿が重なって見える。
『眠ると、魚みたいなえら呼吸の生き物とちがって、溺れて死んでしまうから。だから左右の脳を交互に休ませて、ずっと目覚めたままでいるの。――もしかしたら、いつも夢と現実が入り混じった不思議な世界を見ているのかもね』
そういって微笑む姉の姿は一瞬の後にはかき消えている。
一年前、父と姉を含む十二名が殺害された日以前の記憶が、ほとんど想には残っていないのだった。
ページをめくるスピードを速めていたヒズミの手が、最後のページに来て止まる。描かれているのは、小さな鍵の絵だった。とても写実的なタッチで描かれ、手で触れることさえできそうに見えた。白く細い指でひっかくようにしながら、ヒズミが呟く。
「変な本だね。大事そうにしてるから、おもしろいことが描いてあるのかと思った」
「僕のものじゃないんだよ。長老会からの預かりものだから、粗末にしちゃいけないと思って」
「なるほど、そういうことね。どういうつもりなのかしらね、あの人たち」
「さあ――。そっちも見せてもらえる?」
想がスケッチブックを指さすと、ヒズミは軽くうなずいた。
「いいよ」
スケッチブックには、ヒズミの手によるらしい、下手な落書きが書かれているだけだった。
「これは君の私物?」
「ええ、そういうこと。別に長老会から渡されたわけじゃないよ」
「絵を描くのが好きなの?」
「まあね、最近はじめた趣味なの」
長い時間を掛けて、エレベーターは降下し続けている。
やがて、ゆっくりと降下速度が落ちていくのが感じられる。
ヒズミが懐中時計を取り出してのぞく。
「そろそろ着つくよ。最下層までは、このエレベーターじゃ辿りつけないから、もう少し移動しなきゃね」