春の嵐
エチリコホにも漸く春が訪れようとしている。厚い雪も和らぎ、樹の根元は幹の発する熱によって穴が空いたようになり、フキノトウが芽を出してきた。辛夷の花が膨らみ、梅の香りも漂うこのごろ。あの日以来老人の小屋を訪ねる人もなく、専ら読書三昧の日を送っている。
「絵里ちゃん、どうしたかなあ。一弥と逢ってもう身体を捧げてしまったのかなあ」
独り言を呟く老人は既に涙ぐんでいる。老人が読んでいるいるのは東京の本屋から取り寄せたファッション雑誌。
「きっと、こういうの着せたら似合うだろうな。このグレイのキャミに同色のミニ、サンダル風のシューズ。バックは今はやりの横長の小型。そう、ピアスはシャラポアがしていたような長い鎖の先端に小さなダイアのついたものかな。ペンダントやブレスもダイアがいいな。髪型は少し先端を緩くカールさせ、髪留めもつけよう。メイクもファンデーションに少しチークを入れる。アイシャドウはシャネルの新色でブルーの入ったヤツ。ルージュは断然ピンクでゲランのキスキスグロスをもう少し重ね塗りさせよう。それからマニュキュア類はローズシルバーなんかどうかな。香水はゲランのフローラルなんか良いと思う・・そう、東京につれてきて本格エステや完全脱毛もしてあげたい。美容院にも連れて行く」
呟きはいつまでも続いている。小屋の周りのぶなの大木に小鳥が飛んできて、チチチと鳴いている。陽が差してきた。
「春だなあ。ワシとしたことが、年甲斐もなく、どうやら絵里に恋してしまった。アノ若鹿のようなのびのびした肢体。可愛らしい胸の膨らみ。美しくて可愛くて、気立てが優しい。もう一度逢いたい」
老人は深く溜息をつき再び書物をめくり、窓から外をボンヤリ眺めたり、小鳥の鳴き声に耳を澄ませたりしてやるせない思いにかられている。静かな春の一日。時折屋根から融けた雪の滑り落ちる音が聞こえる。向うの小道を早足で此方に向かってくる人影が見える。老人は胸の高まりを覚え、うろうろ狭い小屋の中を歩き回る。
「こんにちはぁ!おじいさんいらっしゃいますか?絵里です。ほら、この前がとお作りでお世話になった」
「絵里ちゃん!ま、待っていたんだよ。逢いたかった」
「えっ。そうだったんですか?わたし遠慮しちゃったぁ」
「中にお入り。そうだ。私の得意なピッザマルガリータを拵えてあげる。美味いワインやチーズもある。食べていきなさい」
「まあ、美味しそう。一弥はいつも鍋物や田舎煮込みばかりだから、少し飽きていたのよ。嬉しい」
絵里は小屋に入ると老人に抱きつき、口付けする。
「おい、おい。キミには一弥クンがいるだろう。こんなことしちゃいかん」
そういいながらも老人は嬉しさを隠し切れない。
「今日は又一段と可愛いネ。黄色のミニワンピかぁ。それシャネルじゃないか?」
「あら、お爺様ファッションにもお詳しいの?」
「詳しいでか。ファッションのことなら誰にも負けぬ。今度絵里ちゃんに色々プレゼントしようと、今も考えていたんだよ」
「本当?絵里こんな田舎に住んでいるでしょう。欲しいものも中々手に入らないし、ファッションショーやブランドショップも随分行っていないの」
「そうか。じゃこんどじいが連れて行ってあげる。こう見えてもブランドショップは皆顔だ」
「絵里、本当に行っちゃうよ。おじいさま、資金は大丈夫なの?」
「このところこの前書いた江釣子物語が好評でね、印税もたっぷり入った」
「あら、私も一弥から見せてもらったわ。表紙も可愛いし、中身凄く面白かった」
「そうか、そうか。今続編を書いているんだ。絵里ちゃんをモデルにした子も出てくるんだ」
「そうなの。期待しまーす」
老人は書棚の片隅に置かれたダイニングテーブルに絵里を案内する。
「わあ、素敵ね」
「テーブルはエンゾ・マリ、チェアはアストーリのデザインだ。イタリアンモダンだ」
真っ白な麻のテーブルクロスに白いコペンの皿、お洒落なナイフとフォークがセッティングされている。
「ちょっと待っていなさい。今料理に取り掛かる」
「ン〜。絵里にも手伝わせてェ。お料理好きです〜」
「甘えたネ。じゃあ、この麻のエプロンつけなさい。それにこのスカーフも被って。うむ。非常に可愛らしい。娘が出来たみたいだ」
「私もおとうさまが出来ました」
「ピザは生地が大事。強力粉に中力粉にライ麦を混ぜる。香ばしさが出るんだよ。これにイースト、水を加え、そうだな、赤ちゃんのお尻イヤ絵里ちゃんのおっぱい位の柔らかさに捏ねる」
「まあ、イヤね。お爺様ったら。おっぱいの柔らかさ?触ってもいないクセに」
「なんなら、今触ろうか?」
「バカ」
「そうそう、上手い。上手い。その生地を十五分ほど寝かせてやる」
「その間にトッピングの野菜を刻んでおこう。たまねぎ、ピーマン、バジル。イタリアントマト。なるべく薄くスライスしなさい。あとはピザソースをかけオーブンで焼くだけ」
「簡単ネ。今度私だけで作ってみる」
「イタリアンワイン、サシカイアマグナムがギンギンに冷やしてある。そのバカラのワイングラスに注いでネ。さあエプロンやスカーフを取って、お洒落して座りなさい。ワシもディナージャケットに着替える」
老人と絵里は外の見える窓に向かって並んで座る。
「冷めないうちに食べよう」
「美味しい!凄く美味しい」
「絵里の優しい気持ちが篭っているからだ。肩を抱くよ。絵里。可愛い」
「お爺様も格好いいわ。絵里、前からこんな素敵なお爺様と一緒にお洒落な食事してみたかったのよ」
時間がゆっくりと流れる。日差しが差して暖かだ。雲がちぎれて流れて行く。一面の雪原も所々雪が解け、黒い土が見える。直ぐに蒼い草が生えるだろう。
「春だなあ。絵里。さっき言った東京行きのことなんだが、どう?今度の連休時間取れるかな?」
「大丈夫よ。会社お休みだし、一弥と逢う約束もしていないから」
「そうか。パークハイヤットのスウィートを取っておこう。新幹線のグリーンも手配しておく。二泊でいいね。二人で部屋に泊まるが、安心しなさい。決して絵里には手はださないよ」
「イヤン。絵里淋しいから一緒に寝て。しなくてもいい。優しく抱いて」
「待ち遠しいな」
上江釣子の自宅で一弥はいらいらし始めた。
「変だよ。絵里のヤツ。携帯も繋がらないし。電話しても家にはいない。がとおしょこら持って来てくれたときもキスは許したが、その先は拒絶された。俺に抱かれた女は三回目には必ずやらしてくれた・・オカシイ。なんかオカシイ。・・ま、待てよ。あんときヘンなジジイに負ぶさって来やがった。まさかな・・あんな老いぼれに、絵里が・・ブルっ。イヤな想像しちまった。あのしょこらは確かに俺のため精魂傾けて作ったと言っていた。絵里は俺に恋している。そう、そうに決まっている。俺の女だ。じじいがヘンなことでもしてみろ。只じゃおかねえ。アバラの二、三本へし折って、半殺しの目にあわせる。二度とこの江釣子の土地は踏ませねえ」
一弥はフツフツと滾る怒りで真っ赤になり、ブルブルと震え、傍らの焼酎を立て続けに三本、ラッパ飲み。そのままベッドに倒れこむ。
「絵里イ。おらオメのことが好きだ」
その週の週末、絵里と老人はハイヤーで北上駅に向かい、新幹線の乗客になった。
「東京に出るの絵里、久しぶりよ」
「そうだな。かなり銀座や表参道は変わったよ。新しいお洒落なショップが次々開店している。ホテルも建設ラッシュだ。美味しいお洒落なレストランは私の得意分野。一杯連れて行ってあげる」
「お爺様。新幹線も長く時間がかかるから、この前の続きの江釣子物語も沢山して」
「いいとも。いいとも。話は得意だ」
老人は優しく絵里の手をとり自分の膝の上にのせ、耳元に口を寄せ囁くように言う。
「お爺様。ソコは駄目よ。感じてしまう」
「絵里ちゃんはお耳が弱いの?」
「うん。今晩絵里の耳にキスして」
「お昼は、ごめん。駅弁だ。前沢牛弁当を買ってきた」
話を沢山し、弁当を食べ、二人は手を繋ぎながら、一眠り。東京駅に無事到着。
「まず、ホテルにチェックインしよう。それから買い物と食事だ。明日はエステと美容院に予約を入れている。午後は又ショッピング・・・」
「絵里、マックスマーラーのコートとアルマーニのキャミ、ジョセフのパンツ、フェラガモのサンダルが欲しい」
「よしよし。私が絵里に一番似合うもの探して、買ってあげよう」
「お爺様。ダイスキ」
タクシーでホテルに向かいチェックイン。スウィートは流石に広い。
「素敵なお部屋。お買い物の前にシャワー浴びたい」
「私が洗ってあげる。大丈夫。ヘンなことは絶対しない」
「いいわ。ワタシの身体すごいンだから。卒倒しないでね」
「絵里ちゃん。痩せているのに胸大きいね。ヘアも薄くて可愛い」
「イヤっ。じろじろ見ないで」
「絵里。まず一番は下着買おう。絵里の素敵な身体がより一層綺麗に見えるイタリアのラ・ペルラを買ってあげる。凄いセクシーに見える」
「そうなの。岩手にいるから国産の廉いもので我慢していたの」
「今はね、買い物する時、男性も下着着けているところが見れるような構成になっている」
「そうなの?今日身体見られちゃったから、いくら見られても平気よ」
「肌、白いね。絹のようにツヤツヤだ。俺、絵里ちゃんみたいに肌の綺麗な子、好きだ」
「一弥もそういう。あら、ごめんなさい。一弥のことは忘れます」
絵里の身体を芳しいボディソープで洗い、髪をシャンプーする。肌が上気して薔薇色に染まって美しい。
「メイクしてあげよう。このメイクセットも新しいもの揃えてあげる」
「お爺様。これ私?メイクが上手だから見違えちゃうわ」
「元がいいから、やりがいがある。さ、出かけよう」
二人はホテル前のタクシー乗り場で車に乗る
「六本木けやき通りのラ ペルラまで」
「旦那。お嬢さんに下着買ってあげるんですか?」
「うむ。娘が田舎から上京したんだ。東京にある世界中の高級ブランドを駆け巡る。運転手さん。どうだ一日付き合わんか五万でどうだ」
「へい。じゃ、喜んでお付き合いさせていただきます」
タクシーを一日雇い、二人は青山、表参道、銀座などのブランドショップを巡り、大量の買い物を済ませる。
「絵里ちゃん。今日は荷物が多いから、ホテルに戻り、あそこのニューヨークグリルで食事しよう。眺めもサービスもいいし、料理も美味い」
「嬉しいナ。ワタシ舞い上がってるよ。こんなに一遍にお買い物したの生まれて初めて。感激!」
絵里とA山の唇を重ね、身体を合わす。
「好きになっちゃった。今晩抱いて。お願い」
「いいのかな。一弥君に怒られないかな?」
「一弥のことは忘れました。今はA山さんが一番好き」
一弥は焦燥感が募り、絵里の自宅まで出向く。
「ごめんください。十一地割に住む伊藤と申します。絵里さんご在宅ですか」
「あれま、絵里がいつもお世話になっております。生憎絵里は、ほら、村はずれにこの前越してきた、ご老人と一緒に東京サ行った。なんでも、東京で色んなもん買ってもらうとか言っておりやした」
「なんですと!絵里があのじじいと東京へ行った?そんなコツ許される訳あんめえ。絵里はオラの女じゃ。くそっ!追いかけて連れ戻す」
「伊藤の若旦那様。何卒手荒なことだけは許してつかわしちょくれ。絵里はねんねで何も知らん子じゃ。きっとじいさんに上手い事言われて付いていったんじゃ。わりいのはじじいだ。じじいを懲らしめてくれ」
「絵里には手はださん。じじいが目的だ。半殺しの目に合わせてくれる。一体何時帰ると言った?」
「へえ、何でも二十一日の夜にはけえると思うが」
「そうですか。良く伝えてくれました。憎っくきじじい、おらが二度と絵里に色目使わぬよう、成敗致す」
一弥は自宅に戻ると、家人の誰とも口もきかず、自室にこもり復讐の作戦を練り始める。
ホテルに戻ったA山と絵里。
「今日買ってあげたものに着替えなさい。上から下まで全部揃っているはずだ」
「あら、ワタシまるでプリティウーマンのジュリアロバーツみたいだわ。お爺様は差し詰め、リチャードギア。嬉しくておかしくなっちゃうわ」
「絵里ちゃんは、ジュリアよりずっと、ずっと可愛い。さ、この白いレースのブラとパンティをつけなさい。私がお手伝いしよう」
「わァ、そんなことされるの、初めて。恥ずかしいナ」
「こうすると、絵里の綺麗な胸が一層素敵に、盛り上がってみえる。パンティは透けて小さいから、気をつけて着けよう」
「はぁ〜い」「今日はこの桜色のキャミがいいな。うん。凄いセクシーだ。似合う。似合う」
「ミニはお揃いのフレアね。わぁ、軽いわ。穿いているのがわかんない位」
「靴はこの紐で縛る白のハイヒール。バッグは矢張り、白い山羊革のコレ。コートはMAXの黒がいいだろう。うむ。非常に美しい。超カワユイ。アクセはほら、このネックレスにリング、ピアスはティファニーで買ったコレが素敵」
「あらぁ、まるで別人。女優サン?モデル?お爺様ダイスキ!ちゅっ」
「キスは食事のあとゆっくりしよう。行こうか」
老人は絵里と腕を組み、腰に手を添え、五十二階のニューヨークグリルに向かう。
「あら、夜景が・・凄いわ。光の絨毯」
「予約したA山です。窓際の静かな席をお願いしてあるが」
「お待ち申しあげておりました。A山様。本日はとても可愛らしいお嬢様とご一緒でございますね。シェフに特別メニュをお作りするよう申し伝えます」
「うむ。絵里。そこに座りなさい。私はここだ」
A山は絵里の隣に腰を下ろし、絵里の手を撫でながらメニュに目を通し、調理方法やワインの種類の注文をアレコレ出す。
「お爺様は詳しいのね。こういうレストラン、良くいらっしゃるの?」
「まあ最近はそれでも回数が減って、月に二度ほど。綺麗なお嬢様をお招きしての食事会。これが何よりの楽しみでノ。その都度こういう風にプレゼントも買ってあげる」
「イヤ。お爺様は絵里だけの人になって」
「そうするよ。毎週逢いたい。絵里とってもとっても素敵だ。凄くセクシーだ」
「欲しいもの一杯ある。毎週プレゼントが貰えるなんて、最高よ」
「でもHはしないよ。それでもいいの?」
「うん。一弥は逢うとそのことばっかり。お爺様みたいな紳士じゃない」
「ここの料理はエスニックの要素を取り入れたフュージョンキュイジーヌとも言うべきもので、イタリアンやフレンチとも違う独特なもの。文字通りニューヨーク風。この舌平目、美味い。フォアグラも中々のものだ」
「美味しい。みんな始めてのものばかり。こんな素敵な夜景の中で、素敵なオジサマと。絵里少し酔っちゃった」
「バーで少し休もう」
「私マンハッタンがいい」
「俺はマティーニにしよう」
二人はソファでリラックスし、他に人がいないことを確認してゆっくり口付けを交わし、お互いの身体を愛撫し、抱き合う。
「素敵よ。融けてしまいそう」
「部屋に行こう。思いっきり愛してあげる」
「あら、しないって言っていたくせに」
「あれは、言葉の綾。気分が高まれば男になる」
「嬉しいわ。好きにして」
その夜のことを詳しく記載するのは憚られる。二人が次の日の朝目覚めたのは十一時だという、事実のみを記す。
江釣子の一弥は、懸命に手作りの木刀を削り、フツフツと滾る怒りを静めるため、厳寒の雪の中、下帯一丁で氷水を頭から何度も被り、祖先の慰霊に祈りを捧げる。
「ご先祖様。流れ者の風来坊の老人に、こともあろうか、我が恋人の絵里を寝取られました。この上はわたくしの、イヤ伊藤家の名誉にかけ、にっくき老人を懲らしめ、成敗したいと存じます。何卒、お力をお授けください。南無八幡大菩薩」
「キエィっ!アチョ、アチョ、アチョー」
ぶんぶん図太い木刀を振り回し、空手の型で瓦をブチ割る。
「A山。今に見ておれ。両手両足をヘシ折るだけじゃなく、歯を全部、手足の爪もひっぱがし、苦しみぬいてのたうちやがれ。ワシを怒らせたらどういうことになるか、思い知らせてやる」
一弥は再び木刀を振るう。廻りの樹木がボロボロになっても辞めようとしない。
「弥次郎。弥三郎。近づくな。殺されても知らぬ」
「かず。いい加減にせいよ。相手はじじい。そんなにむきになっちゃ、死んじまう」
「おっかあは、だまっとれ。これ以上ねえ恥辱を受けた。死んじまっても文句はあんめえ。江釣ヶ原じゃ。あそこにじじいを呼び寄せ、襲う。逃げられはせん。絵里を人質に取る。おらヤルと決めたら、必ずヤリ抜く男だ」
「恐ろしかぁ。おっかぁ、今の話、聞かんこつしとく」一弥は半裸になって一心不乱に木刀を振りつづける。眼は吊りあがり、腕の筋肉が盛り上がり鬼のようだ。
次の日A山はホテルオークラのエステ、青山のカリスマ美容室、ネイルサロン、ビューティサロンを回り、そのあとは昨日に引き続き買い物三昧。
「絵里、お願いがあるの。食事は近くで済ませてネ、あと一晩中愛し合いたい。昨日とっても良かったから」
「そうか。嬉しいこと言うね。じゃ、セクシーな装いでホテルの梢で和食を食べよう」
胸も露わなシースルーファッションの絵里は全員から注目を集め、A山は誇らしげな気分を味わう。その後の二人が昨日以上の喜びを感じたのは言うまでもない。午後も遅くなって目覚めた二人。新幹線で北上に戻る。
「東京もいいけど、田舎の景色も素晴らしい。絵里。楽しかったよ」
「あら、私の方こそ。こんなに沢山プレゼント貰って。殆ど宅急便で送ったからいいけど、今着てるの田舎の人に見られたくないな」
「目立ちそうだね。よし、誰にも見つからないように、ここからハイヤーを手配する。駅員出入り口から出よう」
「そんなこと出来るの?」
「駅長は知り合いだ」
北上に着いた二人は人目を忍び、サングラスとマフラーで顔を覆い、駅員出入り口から外へ。なんとそこに待ち構えていたのは、真っ赤になり、怒りのあまりわなわな震えている一弥。
「ど、ど、どうしてお前がこんなところにいるんだ」
「じじい!おめは今から江釣ヶ原に来い。そうしなきゃ絵里の命を貰う。理由はわかっているな。胸に手当てて考えろ」
「さ、さっぱり見当もつきません。もう夕方。この寒いのに江釣ヶ原なんか行ったら凍え死んでしまう。一体わたくしが何をしたと言うんで?貴方のお怒りの訳がわかりません」
「この期に及んで、トボケルのもいい加減にせい。ええか、絵里はおらが女じゃ。それをおめがかどわかし、処女を奪った。絶対許せることじゃねえ。おめをぶちのめす。おらに権利がある」
「わたくしは神かけて絵里様とは情交に及んではおりませぬ」
「ほざくな。一緒に寝ただろう。禽獣にも劣るフシダラ極まる所業。江釣子の名誉の為、貴様を二度と斯様な振る舞いが出来ぬよう、不具にしてくれる」
「なによ、一弥。黙って聞いていればいい気になって。あたしはあんたの女でもなんでもないんだよ。A山さんはネ、紳士で親切な人だ。この人を悪く言うなら二度と口きいてやんないよ」
「ふ、ふざけるな。そんな都会のチャラチャラした服着やがって。その化粧は何だ!おらあ、口紅やアイシャドーなどゆるさねえ。おめは江釣子の女。この事実はかわらねえ」
「そんなこと言ってるから、いつまでも垢抜けない田舎モンなんだよ。一弥は」
一弥はその言葉が終わらぬうちに絵里を後ろから羽交い締め。持って来た麻縄で素早く縛り上げる。
「絵里はおらが押えた。今晩九時、おめえ一人で江釣ヶ原に来い。助っ人は無用だ。飛び道具の所持や刀剣類は持ってきちゃなんねえ。素手だ。素手の勝負だ」
「わ、わかった。仕方あるまい。老いたりと言えどもこのA山。貴様の餌食にはムザムザならんからな」
「せいぜい身体障害者にならんよう気をつけることだな」
夜になり雪が降り始め、八時過ぎには猛吹雪。今は三月半ばにも関わらず寒気厳しく大荒れの天候。一弥は着慣れた野良着に赤いたすきを十字に結び、鉄心入りの鉢巻、足袋はだし。手には鍛えぬいた木刀。ほほをパンパンと激しく叩いて気合を入れる。
「出陣じゃぁ。弥次郎、弥三郎。ついて参れ。おらの戦い振りを目に焼き付けろ」
「わん、わん」
江釣ヶ原はすざまじい様相。太い松が吹雪でギイギイ鳴って、雪煙が舞い上がりひと時も眼は開けておられぬ。松の大木には絵里が縛り付けられ、泣き叫んでいる。
「遅いぞ!A山。怯んだかぁ」
ゴオっ、ゴオっと風が鳴る。
「俺は先ほどよりここにおる」
「ぬっ。何時の間にか」
A山は何故か背広にネクタイのママ。
「てめえ、そんな格好で。喰らえっ!」
いきなり一弥は木刀をA山の脳天めがけて渾身の力を込め振り下ろす。
「キエーっ!」
「なんの」
サっとA山がかわすと、力余った木刀が深深と雪にめり込む。
「トアっ!」
今度はA山の拳が一弥の脳天を強かに打つ。
「オリャぁ!」
素手になった一弥は手刀をA山の喉元深く打ち込む。A山首筋に力を込め耐えながら、強烈な膝蹴りで一弥の金的を捉え、潰す。
「ぎゃぁ!」
もんどりうって堪らず倒れる一弥。A山は木刀を引き抜き、脳天をブチ割るように激しく打つ。ぶくぶく泡を吹いて崩れ落ちる一弥。
「きゃん、きゃん、きゃいーん」
犬達は逃げ帰る。
「絵里ちゃん。今戒めを解いてあげる。辛かっただろう。もう大丈夫。私の家で休もう」
「うえ〜ん。ぐすん、ぐすん。私A山さんが殺されちゃうと思っていた。強いのね」
乗ってきたランドクルーザーに絵里を乗せ、老人が家にもどったのは十二時過ぎ。
「寒かったろう。お風呂が沸いているよ。温まりなさい。今日は抱いて寝てあげる」
「優しいっ。好き」
零下二十度にも達する寒さで、一弥は気絶から覚める。
「く、く、くそ。ワシとしたことが。あんなじじいにヤられるなんて。恥ずかしくて家には帰れん。ふ、復讐だ。今夜ヤツの寝込みを襲う。卑怯でもなんでもいい。短銃だ。おやじのあれ持って行こう。今度こそコロしてくれる」
短銃が見つからずモタモタしていた一弥が、漸うピストルを手にし、家を出たのは明け方。忍び足でA山の住む小屋の背面に回る。既に短銃の撃鉄は下ろしてある。
「い、一発で仕留めてくれる」
朝日が差し、小屋の中にも日が差し込み始める。カーテンが開かれた。
「ズドン」
銃声一発。硝煙の治まらぬうちに一弥は飛び出し、小屋の窓をブチ割って中に入る。
「な、なんだ。一弥か。何事だ」
「く、くそっ。外したか。おめえの命頂きに参上した」
「バカもん。アサハカだよお前は。弾入っとるのか?」
「い、いけねえ。弾忘れてしもうた」
「一弥のバーカ。絵里はネ、昨日もお爺様に抱かれて寝たんだよオ」
「わぁ〜〜〜〜ん。オイ、オイ、オイ」
「泣いてやがる。こうなると哀れなもんだ」
「ぐすん、ぐすん、え〜ん」
「一弥。泣き止んだらこっちに来い。話して聞かせることがある」
「ぐすん、なんだべ?」
「コーヒー淹れた。まず飲みなさい」
A山は小屋奥の小さな座敷に一弥を呼んで座らせる。
「一弥。イヤ一弥様。折り入って申しあげたき儀があります。先日来大層非礼なことばかり続けてまいりました。これは貴方様の胆力を試させていただく為、行ったことでございます。貴方様は私の見込んだ通りの立派な、勇敢なおのこでございました」
「な、なしておらが勇敢で立派?」
「恋人の絵里様をかどわかされたと、お知りになり、復讐を誓い、武道全般の達人である不肖私に単身立ち向かわれたことでございます」
「す、すかす、簡単に負けてしもうた」
「そうではございませぬ。貴公は手加減なされたに違いありません」
「これから申しあげることは、非常に重大且つ秘匿を要することでございます。ここにいる三人以外口外は絶対なさらぬようお誓いなされよ」
「ち、誓うよ」
「私も何だか解らないけれど、誓います」
A山は咳払いし、暫し沈黙する。座はしーんと静まり返る。
「イチャリパ、イヨイタク、ウェントランネカムィ・・」
「なんだぁ?」
「アイヌの呪いの言葉にして神の降臨を願う言葉・・」
「モシマノアン、ラパプセ、レペケンヌペ・・」
「こ、怖ぁ〜い」
「し、静かに。じいさんトランス状態に入った」
厳かな重低音のA山の声。
「・・・・ここにおわす方は、なんと心得る。恐れ多くも、先の蝦夷の偉大なる酋長、坂上田村麻呂に滅ぼされたと伝えられる彼のアテルイが子孫、カズルイ様でおわします。一同頭が高い。控えおろう」
「たった二人しかおらん。しかも関係者だけ」
「し、しーっ」
「な、なして、おらがカズルイなんだべ?」
「アテルイ様は西暦八百二年、河内国で斬首に処せられたと正史に記されておりますが、実はこの江釣子の山間の地に落ち延び、ここで雌伏、子孫を今に伝えておるのでございます。この刺青をご覧ください」
A山が一弥の着物の裾を捲り上げると、腿の奥に群青色のアイヌ文様。
「これが何よりの証拠。一弥様イヤカズルイ様は実に百二十六代、蝦夷国首長なのでございます。以前羆を一撃で倒しオランダ農法に果敢に挑戦、大成果を上げましたのは、正に王の王たる所以でございます。さあ、絵里様。これからは首長の后に相応しくエリカと名乗られよ。私は首長にお仕えする大臣、アキルでございます。カズルイ様。雌伏二十六年は長き歳月でございましたが、愈々これから、王として振舞われよ。私は何処までもついてまいります」
「そ、そったらこと、急に言われても、実感が全くワカねえ。でえいち、絵里イヤエリカはお前サンと結ばれたのと違うか?」
「先日も申しあげた通り、同衾こそ確かに致しましたが、交接には及んでおりませぬ。エリカ様のホトをご覧あそばされよ。乙女であるミシルシはちゃんと残っておるはず」
「え、エリカ。本当か?」
「本当よ。お爺様とはやっておりません」
「絵里。お前、なんという優しき女子だ。おらの選んだ女子だけのことはある」
「絵里様を東京までお連れ申しあげたのは、一弥様のお后に相応しいお方かどうか、確かめる為でございました。絵里様は誠に洗練された淑女にて、気品、美貌とも姫君となる必要充分なご資格をお持ちでございました。ご同衾の際も決して自らは肌を合わせようとしないだけでなく、口合わせも舌など絡ませたりは致しませぬ」
「お、おらとちゅうする時は必ず絡まってくる」
「真に愛しているのはこのじいでは無論あるわけも無く、一弥様その人でございます」
「エリカぁ」
「カズルイ様。この小さき小屋のある神聖なカムイヘチリコホをば第一の拠点とし、立ち上がろうではありませんか」
「おう!何か勇気が湧いて参った」
「恐れながら、拙者の金的蹴りをかわせなかったことや、木刀をまともに頭蓋骨で受けるなど、武術においてはまだまだ未熟でございます。不肖、このじいが王者に相応しい術儀をお授けましょう」
「うむ。頼んだぞ」
「わたしがお后様?信じられなぁい」
「これこれ、そのようなお言葉遣いは下賎の者のなさること。今後は雅な言の葉をお使いあそばされよ」
「え〜っ。カズルイ様。エリカは貴方様のお后になるべく、一層の努力をしてまいる所存でございます・・こ、こんな感じ?」
「そう、その調子でございます。カズルイ様には武道、エリカ様には美道をご教授させて頂きます」
「貴公は稀に見る忠臣。良く仕えてくれよ」
「は、はあっ」