弁当
先日まで病院でずっと飯を食っていた。で、出てくる飯と言うのは仕出しの弁当なのだ。
その仕出しの弁当、というのは朝、昼、晩三食、若干の内容の差はあるものの、いわゆる幕の内弁当よりも、若干品のいい弁当が出てくる。
煮しめがつく、卵焼きがつく、酢の物がつく、何やらグラタン風の物もつく、たまにはちょこちょこから揚げ風の物もつく。そして、それらのおかずを冷や飯と共にかっ食らう。
多分、誰もがそれなりに美味しいと思う味付けなのかもしれない。しかし、私はこの弁当と言う奴が子供の時から嫌いだ。子供の時は本当に喉に通らなかった。吐いてしまったほどだ。
確かに今でこそ私も弁当は食う。弁当しか目の前になければ勿論食べる。別に嫌いだからと言って駄々をこねて投げ捨てたりはしない。だが喉にすんなりと通らないのもまた事実だ。
何故嫌いか、と言えば、実家暮らしで温かい飯を日々食らっている身として、慣れていないというのも勿論あるが、それ以上に弁当とは孤独の象徴なのだ。
孤独の象徴、というのは何も幼少時、遠足にでも行った時に集団に入りきれずに一人で弁当を食らった、という背景を意味しているのではない。とか言いつつ、そういう記憶があるようなないような……。
話を折った。そうではなく、弁当というものそれ自体が孤独の象徴だと思うのだ。あれほど放って置かれている、という気がするものも中々ない。
そりゃ勿論、誰かが愛情を持って作ったのかもしれない。しかし、飯は冷たいのだ。温かみが時間と共に風化してどこかへ去って行ってしまったのだと、幼少時、何故喉に通らなかったのは、この年になれば、そう思える。
言うなれば、弁当は間接的な愛情表現なんだろう。作っている瞬間の愛情を想像しなければ、ただの冷たい飯だ。子供の時にそんな表現では伝わりづらい。
ごく稀に見かける子供が冷たい白米をぼそぼそ食う様は、寂しい。
822字。
もうちょっと上手く前半まとめられないものかとも思った。
繋ぎも大分弱い。
オチはこういう形になったが、本来はこう書くつもりだった。
「温かい飯の旨さ、本当の飯の旨さを知っている」
今見るとこれもどうなんだと思わなくもないが。