婚約破棄されたので、朽ちた翼をお返しします ~聖女は一晩で枯れる竜の羽根を、実は毎晩繕っていました~
「アリシア、お前との婚約を破棄する」
きらびやかなシャンデリアの下、竜人将軍ゼクス・ヴァルドライトの声が夜会の広間に響き渡った。
銀灰の髪に、鋭い金の瞳。背には竜の翼を持つ『空の英雄』。その隣には、まばゆい金髪をなびかせた光の聖女ミレーユが、勝ち誇った微笑みを浮かべて寄り添っている。
私は、静かに立っていた。
漆黒の髪をひっつめ、質素なドレスに指ぬきと魔糸の道具を忍ばせた、地味な繕い女。社交界の誰もが私をそう呼ぶ。
(……ふうん。婚約破棄、ね)
私は内心で、前世の記憶とともに冷静に状況を分析していた。
(え、これって退職代行いらずで自主退職できるってこと? しかも向こうから切り出してくれた。むしろラッキーでは?)
「翼の再生など、真の聖女ミレーユがいれば不要だ」
ゼクスは高らかに言い放った。
周囲の貴族たちがざわめき、くすくすと嘲笑が漏れる。
「まあ、あの繕い女がねえ」
「地味なだけで何もできないと思っていたわ」
「光の聖女様がいらっしゃれば十分ですものね」
ミレーユが扇で口元を隠し、勝ち誇ったように私を見下ろす。
「ごめんなさいね、アリシア様。でも、翼を『照らして』飛ばせるのは、わたくしだけなんですもの。あなたの……なんでしたっけ? 針仕事? もう必要ないでしょう?」
(針仕事、ねえ)
私は目を伏せた。
この人たちは、何も知らない。
竜人の飛翔翼が、一晩で朽ちることを。日没とともに枯れ、灰となって剥落することを。そして——それを繕い、再生させられるのが、この世界で私ただ一人であることを。
光魔法で『照らす』ことと、朽ちた翼を『繕う』ことは、まったく別物なのに。
でも、いい。
言わない。説明する義理もない。
私は、スカートの裾をつまみ、静かに一礼した。
「かしこまりました」
淡々と、声を荒げることなく。
「では——今夜限りで、翼のお繕いも終わりにいたします」
ゼクスが一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。
「……なに?」
だが、その意味を問い返す間もなく、私は踵を返す。
(十年間、お疲れさまでした。私。……無償労働の卒業式にしては、案外あっさりだったわね)
背後で、ミレーユの高笑いが響いていた。
その笑い声が、あと数時間で悲鳴に変わることを——彼女はまだ、知らない。
*
馬車に揺られて屋敷へ戻る道すがら、侍女のリタが憤慨した様子で口を開いた。
「お嬢様! あんな、あんな仕打ち……! わたくし、悔しくて悔しくて!」
「落ち着いて、リタ」
「落ち着けませんわ! あの将軍も、あの偽聖女も——お嬢様がどれだけ夜な夜な尽くしてこられたか、何も知らないくせに!」
リタは、私が毎晩眠そうにしている理由を、薄々察している数少ない存在だった。
私は窓の外の夜空を見上げた。
日が、沈もうとしている。
(さて。今夜から、私は繕わない)
前世で私は、日本のアパレル縫製工場で働いていた。深夜まで続くサービス残業。評価されない技術。使い潰される日々。
そこで学んだことが、たった一つある。
——無償労働は、サービス残業と同じ。評価されない仕事は、続ける価値がない。
この世界に転生して、私は『魔糸』を編むスキルを得た。手先の器用さと合わせて、朽ちた竜人の翼を繕える唯一の聖女になった。
そして十年間、ゼクスの翼を——竜人騎士団の翼を——ひそかに、毎晩、無償で繕い続けてきた。
感謝されることもなく。名を知られることもなく。
「リタ。今夜はよく眠れそう」
私は、ふっと微笑んだ。
「もう、夜中に起きて針を持たなくていいんだもの」
リタが息を呑む。
「お嬢様……本当に、おやめになるのですか」
「ええ」
迷いはなかった。
「あの人たちが選んだ道でしょう。『真の聖女がいれば繕いは不要』って、堂々と衆人環視で宣言してくれたじゃない。望み通りにしてあげるだけよ」
馬車が屋敷に着く頃、太陽は完全に地平線の向こうへ沈んだ。
その瞬間——遠く王都の空で、竜人騎士団の翼が、静かに枯れ始めていた。
一枚、また一枚。羽根が色を失い、灰色にくすみ、端からほろほろと崩れていく。
だが、それに気づく者は、まだ誰もいなかった。
リタは私の顔を見て、こらえきれずに小さく笑った。
「お嬢様、その方々……灰になった翼を見てからでは遅いのですけれど」
「あら」
私も笑った。
「気づくといいわね。——手遅れになる前に」
*
その夜、王都は地獄に変わった。
竜人騎士団の駐屯地。若手騎士カイル・アーレンスは、自分の背に走った異変に凍りついた。
「な……翼が……! 翼が墜ちる!」
背中の翼から、羽根が剥がれ落ちていく。灰となって、はらはらと。まるで燃え尽きた紙のように。
彼だけではなかった。広間中の竜人たちが、次々と膝をつく。飛べない。翼が朽ちて、宙に浮くことすらできない。
「なんだこれは!」
「俺の翼が墜ちる!」
悲鳴と怒号が飛び交う。
そのとき、伝令が血相を変えて駆け込んできた。
「た、大変です! 国境に——魔物の大群が! その数、数千!」
静寂。そして、絶望。
迫りくる魔物を迎え撃てるのは、空を駆ける竜人騎士団だけ。だが今、飛べる者はゼロ。
□
将軍の間。
ゼクス・ヴァルドライトは、自らの翼を見つめて呆然としていた。
他の騎士より遅く、だが確実に——彼の翼もまた、枯れ始めていた。
「馬鹿な……なぜだ。俺の翼は、十年間、一度も——」
言いかけて、彼は言葉を失った。
十年間。一度も、翼の衰えを感じたことがなかった。他の騎士が定期的に翼を休ませる中、彼だけはいつも完璧な翼で空を舞い、『空の英雄』と讃えられてきた。
それが、当たり前だと思っていた。
「まさか……」
そこへ、光の聖女ミレーユが青ざめた顔で駆け込んできた。
「ゼクス様! 大変ですわ、騎士たちの翼が——」
「ミレーユ! お前の光魔法で翼を再生させろ! 今すぐだ!」
「は……はい!」
ミレーユは中庭に走り出て、両手を掲げた。
「光よ——!」
まばゆい光が広間を満たす。竜人たちの朽ちた翼を、黄金の輝きが包み込む。
華やかで、荘厳で、聖女らしい光景だった。
——だが。
光が消えたあと、翼は、一枚たりとも再生していなかった。
灰は灰のまま。枯れた羽根は枯れたまま。
「そんな……どうして……どうして再生しませんの……!」
ミレーユは何度も光を放った。汗だくで、髪を振り乱して。
しかし、朽ちた翼は繕えない。
照らすことは、繕うことではない。
膝をついたカイルが、掠れた声で呟いた。
「……そういうことか。将軍の翼だけ、いつも色艶が違った……あれは、誰かが手を入れていたんだ。毎晩、誰かが、繕っていたんだ……」
ゼクスの金の瞳が、大きく見開かれた。
「まさか……アリシア……」
夜明け前、彼の翼は完全に朽ち果て、灰となって床に崩れ落ちた。
『空の英雄』が、飛べなくなった瞬間だった。
*
翌朝、私の屋敷の門を、けたたましく叩く音がした。
リタが慌てて戻ってくる。
「お嬢様! こ、国王陛下が! 陛下自らが、いらっしゃっています!」
(へえ)
私は紅茶を一口飲んでから、ゆっくりと立ち上がった。
(ずいぶん早い手のひら返しね。灰になった翼を見た瞬間に来たわけか)
応接間に通されたオルグレン国王は、王冠も外し、憔悴しきった顔で私の前に立っていた。
そして——王が、頭を下げた。
「アリシア・レイヴンウッド。頼む。竜人騎士団の翼を、繕ってくれ」
壮年の王が、一介の令嬢に。権威をかなぐり捨てて。
「国境に魔物の大群が迫っている。飛べる竜人がいなければ、王国は滅ぶ。民が死ぬ。頼む、この通りだ!」
私は、静かに王を見つめた。
(昨日まで「地味な繕い女」って侮ってた人が、今日は土下座ですか。人生って、ままならないものね)
口を開く。
「陛下。私はもう、翼の繕いを終えました。昨夜、将軍ゼクス様ご自身が、衆人環視の中でおっしゃったのです。『翼の再生など不要だ』と」
「あれは——あれは、将軍の過ちだ! 私が代わって詫びる!」
「だが、断ります」
王の顔が絶望に染まる。
……と、言いたいところだけれど。
(民を見殺しにするのは、寝覚めが悪いのよね。前世からの貧乏性かしら)
「——と申し上げたいところですが」
私は、静かに続けた。
「民に罪はありません。ですから、繕いましょう」
王が顔を上げる。
「ただし、条件があります」
私は、あらかじめ用意していた羊皮紙を、テーブルに広げた。
「『契約魔法』です。以後、私が行う翼繕いは、すべて正当な報酬と地位を対価といたします。すなわち——宮廷筆頭聖女、そして『翼織公爵』の位を」
「こ、公爵位だと……!?」
「不服でしたら、どうぞ他の聖女をお探しください。この世界に、朽ちた翼を繕える者が、私以外にいればの話ですが」
沈黙。
王は、震える手で、契約書にサインをした。
魔法陣が淡く光り、契約が成立する。
(よし。これで無償労働は終わり。正当な報酬と、明文化された地位。前世で欲しかったもの、全部手に入れたわ)
「では、参りましょう。今夜、一度だけ——特別に、繕って差し上げます」
私は指ぬきをはめ、魔糸の道具を手に取った。
十年間、隠し続けてきた本当の姿で。
*
その夜。
私は騎士団の広間に立ち、両手に魔糸を紡いだ。
指先から、青く輝く糸が生まれる。マナ・スレッド。この世界で私だけが編める、命の糸。
「——始めます」
朽ちた翼の一枚一枚に、糸を通していく。前世で叩き込まれた縫製技術と、この世界の魔法が融合した、圧倒的な速度と精度で。
灰が、羽根に戻る。枯れた翼が、艶やかな輝きを取り戻す。
次々と、竜人たちが翼を広げていく。
「飛べる……飛べるぞ! 翼が! 完全に再生してる!」
若い騎士カイルが、私の前に膝をついた。
「聖女アリシア様。……いえ、翼織公爵様。俺たちは、あなたの功績を何も知らずにいました。将軍の翼だけがいつも美しかった理由も、あなたがいつも眠そうにしていた理由も。すべて、あなたが毎晩、影で支えてくださっていたからだった」
彼は深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした。そして——ありがとうございました」
騎士たちが次々と、私に頭を垂れる。
その輪の外れに、ミレーユが立ち尽くしていた。
「そ、そんな……嘘よ……わたくしは光の聖女なのに……」
「照らすことと、繕うこと」
私は淡々と告げた。
「あなたは、その違いにすら気づかなかった。それが答えです」
ミレーユは崩れ落ち、やがて騎士たちに引きずられるように広間を去っていった。『照らすだけの偽聖女』として、その名を歴史に刻んで。
そして——最後に。
私は、彼の前に立った。
ゼクス・ヴァルドライト。
翼を失い、床に膝をついたまま、呆然と私を見上げている。
「アリシア……お前が、俺の翼を……十年間……」
「ええ」
私は、彼の朽ちた翼に糸を通し始めた。
「あなたが『空の英雄』でいられたのは、私の魔糸のおかげです。あなたの翼は、十年前から一度も自然再生していません。すべて——私が、毎晩繕っていた偽装の翼でした」
ゼクスの顔が、崩れていく。
強さも、誇りも、すべてを支えていた土台が、実は自分の捨てた女だったと知った男の顔。
「俺は……俺は、なんてことを……」
彼の翼が、私の糸で再生していく。青い糸が、灰の中に命を織り込んでいく。
(……知ってるわよ。あなたが眠っている背中に、私がどんな気持ちで針を刺していたか。何も知らないくせに、寝顔だけは無防備で、憎らしいくらい綺麗な寝顔で)
私は、心の奥にしまった想いには、蓋をした。
「これで、繕いは完了です。契約通り、報酬と地位はいただきます。では——今度こそ、失礼いたします、将軍閣下」
私は立ち上がり、踵を返した。
*
「待ってくれ!」
背後で、掠れた声がした。
振り返ると、ゼクスが——再生したばかりの翼を広げることもせず——床に膝をついたまま、私の裾を掴んでいた。
『空の英雄』が。国宝級の竜人将軍が。地に伏して、私を見上げている。
「アリシア。俺は……お前に、詫びなければならないことが、山ほどある」
「詫びは結構です。報酬はいただきましたので」
「そうじゃない!」
彼は、苦しげに顔を歪めた。不器用に。言葉足らずに。
「俺は……十年間、お前が支えてくれたことに気づかなかった。それどころか、お前を侮り、捨てた。あんな……あんな仕打ちをして」
「ええ、しましたね」
「……お前は、なぜ、繕い続けてくれたんだ。感謝もされず、名も知られず、なぜ、毎晩」
私は、少しだけ沈黙した。
言うつもりはなかった。でも。
「……あなたの背中が」
ぽつりと、こぼれた。
「眠っているあなたの背中が、放っておけなかったからです。それだけ」
ゼクスの金の瞳が、大きく揺れた。
「アリシア……」
彼は、拳を握りしめた。
そして——己の再生した翼を、ばさりと広げた。
美しい、竜の翼。私が繕った、青い糸の輝きを宿した翼。
「この翼は、お前がくれたものだ。俺の命綱は、ずっとお前だった」
彼は、深く、頭を垂れた。
「だから——今度は、俺がお前を支えたい。翼ではなく、この心を差し出す」
そして、告げた。
「アリシア・レイヴンウッド。今度は俺が、お前の朽ちない翼になる。……結婚してくれ」
広間が、静まり返る。カイルも、他の騎士たちも、息を呑んで見守っている。
(うわ。重役出勤にもほどがあるでしょ。十年ほったらかしにして、婚約破棄までしといて、今さら?)
私は、じっと彼を見下ろした。
この不器用で、言葉足らずで、ポンコツな竜人将軍を。
そして——ふっと、笑った。前世テンションで。
「重役出勤の謝罪は、ボーナスで受け取ります」
ゼクスが、ぽかんとした。
「……ぼーなす、とは」
「一生かけて、私を溺愛してくださるということです。契約魔法で、明文化しても構いませんよ?」
彼の顔が、みるみる赤く染まっていく。
そして、初めて——本当に初めて、彼は笑った。
「ああ。……喜んで、契約する」
傍らでリタが、涙ぐみながら鼻をすすった。
「お嬢様……! これで、サービス残業も終わりですね……!」
「そうね、リタ」
私は、彼女に微笑み返した。
「正当な報酬と、朽ちない翼付きの、ホワイト職場よ」
*
こうして、私——アリシア・レイヴンウッドは、翼織公爵となった。
宮廷筆頭聖女として、正当な報酬と地位を得て。
ミレーユは『照らすだけの偽聖女』として社交界を追われ、二度とその華やかな姿を見せることはなかった。
ゼクスは、あの日の告白通り、恥ずかしいほどに私を溺愛する日々を送っている。
「アリシア。今夜も、翼を……いや、その、隣にいてくれるか」
「素直に『そばにいてほしい』と言えるようになりましたね、将軍。成長です」
「う……」
ツンデレ将軍の顔が赤くなるのを見るのが、最近のささやかな楽しみだ。
□
そんな、平和な——いや、正当に報われた——ある日のこと。
公爵邸に、一人の来客があった。
異国風の装いをまとった、憔悴した表情の竜人。
「翼織公爵アリシア殿。私は、隣国からの使節、ヴェインと申します」
彼は、深々と頭を下げた。
「不躾を承知で申し上げます。我が国の竜人たちの翼も——朽ちかけているのです。どうか、力を貸してはいただけないでしょうか」
(……え)
私は、内心で天を仰いだ。
(え、待って。案件が海外展開したんですけど。国内案件、片付いたばかりなんですけど。有給は? 有給休暇はどこ?)
ゼクスが、私の肩にそっと手を置いた。
「アリシア。無理はするな。断ってもいい」
「いいえ」
私は、指ぬきをそっと撫でた。
前世の縫製工場で培った技術。この世界でだけ編める、命の糸。
それは今や、一国を超えて求められる価値になった。
「参りましょう。ただし——」
私は、にっこりと微笑んだ。
「国際案件には、それ相応の報酬を。契約魔法で、きっちり明文化させていただきます」
ヴェイン使節が、ほっとした顔で頭を下げる。
傍らのリタが、くすくすと笑った。
「お嬢様、これはもう、翼繕いの多国籍企業ですわね」
「そうね。CEOは私、専属護衛はそこのポンコツ将軍。悪くない布陣だわ」
「誰がポンコツだ」
ゼクスが不服そうに眉を寄せる。だが、その顔は、隠しきれない幸福で満ちていた。
窓の外では、竜人たちが青い糸の輝きを宿した翼で、夕暮れの空を舞っている。
朽ちない翼を得た、英雄たち。
そして、朽ちない絆を得た、私。
(前世の私に、教えてあげたいわ。——評価されない仕事は、続ける価値がない。でも、正しく評価される仕事は……ちょっとだけ、悪くないものよって)
翼織公爵アリシアの物語は、まだ始まったばかり。
次は——国際案件です。




