【第4章 しるしの再来】
潮風が、夏の終わりを告げていた。
定年を迎えた主人公は、再び、あの浜辺へと足を運んだ。
記憶の中にだけ残っていたはずの場所。けれど、足元の砂の感触も、波音も、かつてと同じだった。
「……変わってないな」
そう呟いた声は、風にさらわれて消えた。
少し歩くと、薄い霧が海岸を包み始めた。
波の音は遠のき、世界がゆっくりと沈黙に包まれていくような感覚。
視界の端で、何かがきらめいた。
ふらっと、足を滑らせる──
「うわっ──」
乾いた砂の斜面が崩れ、主人公はバランスを崩して倒れそうになった。
とっさに岩に手をついたが、胸の奥に微かな恐怖がよぎる。
──そのときだった。
「……クゥ」
遠く、どこからか聞こえた声。
まるで、水の奥底から湧き上がるような──懐かしい音。
はっとして顔を上げる。
霧の向こう、水面に、淡い青い光が揺れていた。
まるで、海そのものが呼吸しているかのように。
目を凝らすと、微かに見えた。
それは、あの頃と同じ──青い背びれ、滑らかな光沢、そして、あの優しい眼差し。
「……クゥ……なのか?」
主人公が呟いた瞬間、霧が風に吹かれて動いた。
海が一瞬だけ、鏡のように静まり返る。
その刹那──青い影が、こちらに向かって、ひとまわり、弧を描いた。
まるで、“もう一度、忘れないで”と伝えるように。
主人公は、胸の奥でなにかがほどけるのを感じた。
だが、次の瞬間、霧が再び濃くなり、影はその中へと溶けていった。
……波音だけが、残された。
* * *
しばらく、主人公は砂の上に座り込んだまま、何も言わずに空を見上げていた。
「……幻、なのかもな」
けれど、左手のひらが濡れていた。
見れば、小さな青い鱗のようなものが、そっと貼りついていた。
風が吹く。
潮の香りとともに、どこかで──微かに、また声が聞こえた。
「……クゥ」
記憶でも、幻でもいい。
あの“しるし”が、たしかに今、ここに再び現れたことだけは、何よりも確かな現実だった。