【第3章 別れの海】
クゥは、すくすくと育った。
朝には洗面器が狭すぎて跳ね回り、夜にはチャーリのベッド下から溢れそうなほど、体が伸びていた。
「クゥ、もう魚肉ソーセージじゃ足りないよ……」
最近は食べたがらず、代わりにチャーリが釣ってきた小魚を丸飲みするようになった。
「お風呂場も、……泳ぎにくそうだね」
ベッキーが小声で呟いた。
ある夜、ふたりは決心した。
──クゥを、海に連れていこう。
* * *
夜中の漁師街は、ひっそりとしていた。
月明かりを頼りに、浜辺へ向かうふたり。クゥは毛布にくるまれ、チャーリの胸の中に静かに抱かれていた。
「……喜んでるのかな」
「ううん、たぶん……わかってるんだよ。やっと、広い場所に行けるって」
浜辺に着くと、クゥは静かに身体を伸ばし、ヒレを月光にかざした。
「すごい……」
ベッキーが息をのむ。
クゥの体は、いつの間にか半透明に近い青に変わり、背びれが波を受けるようにゆっくり揺れていた。
チャーリはゆっくりと砂の上に膝をつき、毛布をほどいた。
「行こう、クゥ」
クゥは、彼の手からするりと抜け、波打ち際へと進む。
その瞬間だった──
「誰かいるぞ!」
背後から、怒声が響いた。
チャーリとベッキーが振り返ると、懐中電灯の光がいくつも揺れていた。
「……街の消防団!?」「やばっ!」
実はその数日前──
深夜の川辺で巨大な“青い魚影”を見たという噂が広まり、それがついに市長の耳にまで届いていた。
「子どもが怪しい生き物を育ててる」「村の安全が脅かされてるかもしれない」
噂は尾ひれをつけて膨らみ、消防団、町内会、さらには市長の命令で捜索隊が組まれていたのだった。
「逃げよう!」
チャーリがベッキーの手を引く。
浜辺の隅に走り込んだそのとき──
ザパァンッ!
月光を切り裂いて、クゥが大きく跳ねた。
捜索隊の誰もが動きを止めそれを見つめた。
海面に浮かび上がった青い影。
それはまるで、夜空の星が海に落ちたように美しかった。
クゥは一度、振り返る。
チャーリとベッキーに向かって、静かに──
「……クゥ」
ふたりは息を呑み、涙をこらえた。
「ありがとう、クゥ……!」
その声に応えるように、クゥは波を蹴り、大きく旋回したあと──
やがて、深い夜の海へと消えていった。
しばらくして、町の人々は“幻だったのかもしれない”と口を閉ざすようになった。
だけど、チャーリとベッキーは──知っていた。
あれは幻なんかじゃない。
あの夜、たしかに竜が、海へ帰ったのだと。
【第4章 しるしの再来】
潮風が、夏の終わりを告げていた。
定年を迎えた主人公は、再び、あの浜辺へと足を運んだ。
記憶の中にだけ残っていたはずの場所。けれど、足元の砂の感触も、波音も、かつてと同じだった。
「……変わってないな」
そう呟いた声は、風にさらわれて消えた。
少し歩くと、薄い霧が海岸を包み始めた。
波の音は遠のき、世界がゆっくりと沈黙に包まれていくような感覚。
視界の端で、何かがきらめいた。
ふらっと、足を滑らせる──
「うわっ──」
乾いた砂の斜面が崩れ、主人公はバランスを崩して倒れそうになった。
とっさに岩に手をついたが、胸の奥に微かな恐怖がよぎる。
──そのときだった。
「……クゥ」
遠く、どこからか聞こえた声。
まるで、水の奥底から湧き上がるような──懐かしい音。
はっとして顔を上げる。
霧の向こう、水面に、淡い青い光が揺れていた。
まるで、海そのものが呼吸しているかのように。
目を凝らすと、微かに見えた。
それは、あの頃と同じ──青い背びれ、滑らかな光沢、そして、あの優しい眼差し。
「……クゥ……なのか?」
主人公が呟いた瞬間、霧が風に吹かれて動いた。
海が一瞬だけ、鏡のように静まり返る。
その刹那──青い影が、こちらに向かって、ひとまわり、弧を描いた。
まるで、“もう一度、忘れないで”と伝えるように。
主人公は、胸の奥でなにかがほどけるのを感じた。
だが、次の瞬間、霧が再び濃くなり、影はその中へと溶けていった。
……波音だけが、残された。
* * *
しばらく、主人公は砂の上に座り込んだまま、何も言わずに空を見上げていた。
「……幻、なのかもな」
けれど、左手のひらが濡れていた。
見れば、小さな青い鱗のようなものが、そっと貼りついていた。
風が吹く。
潮の香りとともに、どこかで──微かに、また声が聞こえた。
「……クゥ」
記憶でも、幻でもいい。
あの“しるし”が、たしかに今、ここに再び現れたことだけは、何よりも確かな現実だった。