【プロローグ(今)】君の“しるし”があったから、僕は今でも、物語を旅している。
定年の翌日は、静かな日曜日だった。
定年の翌日は、静かな日曜日だった。
いつものように目を覚まし、コーヒーを淹れ、顔を洗う。ただ、それだけで十分に「昨日と違う今日」を感じ取れた。スーツの代わりに軽いシャツを羽織り、駅までの道を歩く。ほんの3分。会社員時代は毎日のように通った、この道。
でも、今日の電車は──通勤ではない。
目指すは、潮騒の町。
西戸崎行きの電車に乗り換え、車窓に流れる緑と青を眺めているうちに、どこか遠くへ旅に出るような心地になる。
海浜公園駅で下車した。だが、目的はリゾートではない。
人の少ない通りを選び、潮の香りをたどるように歩く。ひっそりと並ぶ古びた店、色褪せたアーケードの看板。
──その中に、ふと目についた。
《古本 風ノ杜書房》
漁師街には似つかわしくない木製のガラス戸。
戸を開けると、潮の香りに混ざって、紙とインクの懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
店内は、思ったよりも狭く、書棚が3列──それぞれが縦に2つずつ並び、まるで迷路のような通路をつくっていた。
背の低い棚には、児童書が多く並び、カラフルな背表紙が目を引く。
僕は、自然とその一角へ引き寄せられた。
中学生の頃──図書室で何度も読んだ、あの文庫シリーズ。
表紙絵は色褪せ、ページの角は擦れている。でも、なぜだろう。ひとつひとつに見覚えがある気がした。
記憶の引き出しを、ゆっくり開けるように、棚を順に見ていく。
──最下段に、それはあった。
薄い水色の背表紙。
少し日焼けしたページ。角が丸く削れている。
あの頃の僕の、指の感触まで甦ってくる。
手に取り、表紙を開く。
──誰かが借りたページの端が、三角に折れていた。
僕は、そっとその角を撫でた。
ゆっくりと、折れを戻す。
「君が、触れた場所かもしれない」
思わず、そんなふうに思った。
君が当時好んだ“あの世界”に、自分も忍び込むようにして。
60歳になった今も、あの“しるし”は、確かにここに残っていた。
僕はそっと本を閉じ、胸に抱えた。
この物語は、君に贈る物語だ。
To the girl who once borrowed the book before me.
ありがとう。
君の“しるし”があったから、僕は今でも、物語を旅している。