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魔書

作者: 佐和ネクロ

 一冊の魔書があった。


 文学論壇や評論筋にそう呼称されているという訳ではない。ぼくが勝手に魔書と読んでいる。

 今まで訪れた事が無かった街のくたびれた古本屋で買ったとは記憶しているのだが、代価として幾ら支払ったかも、それがどの季節の事であったかも憶えてはいない。

 この魔書には、あるものに執心する異国のおろかな人間たちの狂騒と歴史が親子の目を通した物語仕立てで描かれており、それをとある政治結社の元幹部が翻訳している。

 読みにくい事この上なく、二段組で文字も小さいので目が非常に疲れる。また1000頁を軽々と超える分厚さは歴戦の書痴たちをしてすら読む気を挫くこともあるだろう。

 ――だが。

 ぼくは貪るようにそれを読んだ。

 書物と人間の相性というものは確実に存在するが、それ以上にぼくは狂いを生じ始めていたのだろう。

 寝食を忘れ、時間感覚を失い、人の倫の基軸も揺らぐほどに魔書を読み込んだ。

 結果、何を得て、何がどうなったか。

 別段、変わった事はない。

 外を歩けば犬に吠えられ、家に居れば寂寥と満足を半々で感じるだけの簡素な生活は変わらない。

 では何故ゆえに魔書なのか、その由縁はと特に説明する相手も居ない。

 言う必要も無いので、誰にも言っていない。

 元々が動きの少ない人生なのだ。

 書物は人生の補完も補償もしてくれはしない。魔書にはただ、淡々と異国の物語が記述されているだけだ。

 多感な年頃の少年少女がやるように、物語や文章の一節を自分に引き寄せて考えてみるという事はもう長い間していない。だから、魔書を読了後に感動や感激を覚えたりもしなかったし、達成感のごときものも特に得られはしなかった。

 ――ではこの書物は何なのか。


 魔書、としか言い様が無い。

 やはり、魔書なのだ。


 ぼくの話は要領を得なくなってきているのだろうか。

 初めて白状するが、魔書を読んで以降、記憶が多重になっている。

 ぼくが職場でつまらない仕事に従事している時、もう一つの記憶ではその時間には吐き気を催して公園のトイレに駆け込んでいた。

 ぼくが書店に行きたくなった時、もう一つの記憶では頭痛に悩んで鎮痛剤を飲み下していた。


 ただ、二重の記憶があるのだ。


 断っておくがぼくは多重人格者でも夢遊病者でも無い。もうひとつの記憶があるからとて、病院にはかかってはいない。

 だが、魔書を読んで以降、同じ時間帯の記憶が複数あるせいで、話が要領を得なくなってきたように思われる。

 こう考え込んでいる時間も、後々には出かけていた記憶や眠っていた記憶として頭に残るのだろう。

 だが、この程度の不安定さなら特に問題はない。

 決定的な綻びやそこから生じる破滅は人間である以上は避ける事ができない。そして、それは現実空間で、物理的にやってくるものだ。

 例えばぼくは昨夜自宅で役所に提出しなければならない書類を書いていたのだが、一夜明けた今、それは昨夜、ハンマーで人間を殴り殺した記憶として頭に残留している。

 問題無い。

 ぼくは昨夜自宅に居た。

 殺人の記憶は「もう一つ」の記憶に過ぎない。

 ――身に覚えの無い事だ。

 現実空間ではぼくはただ自宅に居た。

 現実そのものが「もう一つ」の記憶の世界にスライドしない限りは、まったく問題無い。

 そんな非現実的な事態はあり得ない。


 ――魔書。


 ふと、魔書が気になった。

 元はと言えば。

 魔書がトリガーとなってぼくは多重の記憶を獲得してしまったのだ。

 ――ならば。

 ふたたび魔書がトリガーとなって――例えばもう一度、魔書を開く事によって――何かが起こる可能性も否定はできない。

 脳内で自分をたしなめる声がする。

 それだけは止めろ。

 もう戻れないぞ。

 一人で裏返れ。


 一人で――裏返れ?


 裏返る、とは何なのだ。

 脳内のどの記憶がそんな意味不明な警句を発したのだろう。

 しかし、考えても、虚空に問うても答えが得られるものではない。

 だが――少し魔書から離れたほうが良い気がして。

 少し――魔書が恐ろしくなった気がして。

 ぼくは、軽く身支度をすると、家から逃げ出すようにして外を歩いていた。

 もう夜半だ。街中に人影は少なく、たまにすれ違う人は表情すら覚束ない。空気は乾燥しているし息を吐けば少し白い。

 ――逃げよう。

 ふと、そんな事を考えた。

 ――何から?

 もう一つの記憶がぼくのたましいにそう問いかけてきた。

 魔書はあくまで書物だ。追いかけては来ない。

 憑いてくるのはもう一つの記憶だ。魔書がトリガーになって獲得したもう一つの世界。

 ――殺人の記憶?


 夜道、人影の少ない通りでぼくは振り返った。


 振り返るという行為が良くなかったのかもしれない。


 この現実で振り返った時、もう一つの記憶ではぼくは魔書を読み返していた。

 魔書を開いたのだ。


 ぼくは今、たましいが抜けたような顔をしているのだろう。死にかけた表情で夜空を見上げる。上方でも見上げていないと、前方からこちらに歩いてくる現実に耐えられないからだ。

 こちらに向かって歩いてくる人影。

 以前にも見た事がある人だ。

 ぼくがハンマーで殴り殺した人だ。

 現実は完全にもう一つの世界にスライドして、裏返ってしまったようだ。

 魔書はまだぼくの家にある。

 その表紙の鮮烈な赤色が何度も何度もぼくの脳内でどろどろと明滅した。

 世界が切り替わった合図なのだろうか。

 ぼくがハンマーで殴り殺した人は、目の前まで来ると立ち止まり、ぼくの表情を死んだ目で覗き込む。頭骨は陥没しており、首は斜めに傾いでいる。

 逃げようとも動こうとも思わず、ぼくはその人が懐から包丁を取り出すのを眺める。

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