表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

上書き隠し②


 瞬く間に時間は過ぎ、あっという間に金曜日。相談を受けてから五日が経った。

 予定では本日が相談最終日であり、鎌取にとって決戦の日となる。来週からは薔薇色の高校生編が幕を上げる予定であるが、それが妄想で終わらないことを心から願ってる次第であった。

 時刻は午前八時。図書室の窓からは、朝っぱらから声を張り上げる校庭の野球部を眺めることができ、自分との人間力の違いを確認することができた。時代もあって、野球部は今、坊主頭が強制されているわけではないそうだが、見ると皆坊主頭であり、話によると自主的にその髪型で統一しているそうだ。恐ろしや。

 だめだ。暇つぶしに、姫野おすすめ人間観察というものに興じてみたが、視界に入ってくる情報全てが自分にはちと眩し過ぎた。目標に向かって汗水垂らすサッカー部員に、水筒を手渡す女子マネージャー。このままでは失明してしまう。俺はカーテンを閉めた。

 諦めて、新たに入荷した本を見ながら、ゆっくり歩く。スポーツ雑誌、ビジネス書籍、ライトノベル。入荷した本のジャンルは様々だが、ここは本当に品揃えが良く、自称本好きの自分としては、満足のいく図書室だった。

 すると、部屋の扉がガタガタと音を鳴らした。

 「……おはぉうございまぁふ」

 見ると、眠たげな様子で口元を覆う、三つ編みおさげの赤縁メガネっ子が、トボトボと小さな歩幅でこちらに距離を縮めてきた。

 「おはよう」

 「すみません。少し早く学校に来てもらっちゃって」

 ぺこりと頭を下げる鎌取。俺は澄ました顔で、別に、とだけ返し、目の前の椅子に腰をかけた。彼女も倣って目の前に座り、隣の椅子に鞄を置いた。

 昨日帰った後、励ましのメッセージを鎌取に送った。相談部として何でも手伝うつもりではあるが、彼女の目標は彼女自身の勇気と行動でしか達成が不可能であるため、自分ができることは何もないのだけれど、相談部として背中を押すくらいのことはしないと気持ちが悪かったため、エールだけは送った。業務的な連絡以外で異性に連絡をすることが初めてであった自分は、文面を考えて送信を押すまでに約五分を用してしまったのだが、送ってからほんの数分後、ホームルーム前に話したいとの要望を彼女から受けたのだった。

 しかし、今日は背後からの目隠しサプライズがなかった。気付く気付かないは兎も角、狙う素振りすらなかったということは、あの押し倒し事故の件を持って終了したということか。……確かに、今後他の男子生徒にはしてほしくなかっため望んではいたけれど、いざ終わってしまうと喪失感がきついな。

 「昨日は、クラスメイトをお昼ご飯に誘った後、具体的に何を話すか考えたじゃないですか」

 「そうだな」

 友人に対し、事前にストックしておいた話題を披露する行為を会話と呼ぶのは違和感があるけれど、初日分くらいは考えおかないと、何から話すかでテンパってしまうかもしれない。

 そのため俺たちは昨日、なるべく多くの会話ネタを捻り出した。流行りのネットミーム、美味しそうな文化祭の出店、好きな数学の単元などなど。思い付いたものを手に収まるサイズのメモ帳に書いていった。もしも頭が真っ白になったり、会話が途切れて気まずい時間が流れたりした際は、最悪カンペとして確認できれば心強い。

 「初手は、無難ではありますが、相手の趣味を聞いて様子見します」

 「心理戦じゃないんだから、そこまで固くなるなよ。鎌取にとっては簡単なことではないかもしれないけど、あくまで会話であって、雑談なんだから。しかも、予定してるクラスメイトも友人がいない感じなんだろ? それなら、そもそも話し掛けられただけで嬉しいと思うよ。その子だって」

 「そ、そうですよね。もっと、気軽に。……もっと、気軽に」

 自己暗示をするように小さく呟く鎌取。全くもって気軽な心境には思えなかった。

 まだ朝なのだけれど、昼まで大丈夫なのか。四時限目とか、緊張がキャパを超えて吐いたりしなければ良いけど。

 「シミュレーションするか。俺を誘う予定の子だと思って」

 「……良いですか、お願いしても」

 弱々しい返事。鎌取自身ももう少し自信がある予定で、朝っぱらからここまでしてもらうつもりはなかったのだろう。申し訳なさそうにしている。しかし、今の彼女は誰から見ても心配で、このまま送り出してはむしろ俺が罪悪感に潰されてしまう状況だ。

 「本日はお日柄も良く」

 「曇りなんだけど……」

 「昼飯が食べたくなる一日になりましたね」

 なんじゃそりゃ。基本、人は毎日昼飯が食べたくなるもんだろ。

 「ところで、トカゲとカナヘビでしたら、どちらが好みですか?」

 「いきなり爬虫類⁉︎ 多分、ところで、って転換の接続詞、君が思ってるほど万能じゃないよ⁉︎」

 さすがに、これではヤバイ奴だ。俺が相手の子であればドン引きだ。そもそも女の子は、トカゲとカナヘビの見分けとかついてないだろうし、食事時の話題ではないだろ、コレ。

 会話なんて適当で許されると考えてたけど甘かったかもしれん。これは許されないわ。

 「ダメですか? 校舎裏でお昼ご飯を食べていた時、よくカナヘビを見かけたから、エピソードトークにも繋げられるかなって思ったんですけど」

 「初対面でぼっち飯のエピソードトークはやめよう。相手も気を遣っちゃうから。友人ってのは対等じゃなきゃいけないんだよ。同情で仲良くなっても意味ないだろ。……ていうか、どこら辺が趣味の話なの?」

 「確かに、そうですね。では、リテイクをお願いします」

 「はい。承りました」

 鎌取は仕切り直すように、こほんと咳払いをする。そして、昨日書きに書きまくったカンペメモをパラパラと流し読みすると、再び一から話し始めた。

 「本日はお日柄も……」

 「そこは割愛で」

 さすがに導入部分は必要ない。お見合いじゃないんだから。

 「えっと…………では、ご趣味はありますか?」

 趣味か。この場合、どっちの方を言えば良いんだ? 俺自身のことか、それとも相手の女の子のことを想定してのことか。自然な会話という意味でのシミュレーションなら俺になるんだけど、俺の趣味だと、男の趣味になってしまうしな。

 ……まぁでも、よく考えたら、俺が女の子の何を知ってるんだって話だし、俺の趣味で良いか。知ってたらむしろキモがられるよな。

 「趣味はカードゲームかな。高校生だから、やる機会は減ってきたけどな」

 そう言えば、姫野も同じような初対面の状況で、趣味は人間観察とか言っていたのか。そう考えると、あいつもだいぶ変な人だよな。天才という要素を隠れ蓑にして、その部分が見えづらくなってるけど。

 「カードゲームですか。私もカルタとかはよくやりますけどね」

 「カルタと俺の指すカードゲームではちょっと毛色が違う気もするけど、カルタも楽しいよな。俺も久しぶりに小林と遊んでみようかな」

 「一人でも楽しいですよ」

 「えっ、カルタって一人でもできるの?」

 俺の知るルールではできそうにないんだけど……。それ本当に共通のカルタ?

 「私も趣味があります……ので、良かったら見てくれませんか?」

 「見る……?」

 鎌取は頷く。若干、自分の自己紹介をするには強引だった気もするけれど、これは可愛い範囲か。

 しかし、見てとは。目の前で披露できる趣味ってことか。なんだろう?

 「趣味はマジックです」

 マジックって、あの? ボールペンよりも線幅が太くて、薄い用紙を使う際は裏写りを気を付けなくてはならない方……ではなく、手品とかイリュージョンとかって呼ばれていて、動画サイトのコメ欄では「なんだ、ただの魔法か」と呆れコメントが散見される方のマジックのこと?

 ……めちゃ凄いじゃん。そんな自慢できる趣味があったのかよ、この子。

 「では、やってみます」

 鎌取は開始の合図をする。が、何か道具を用意する素振りは見せなかった。

 「あの、春元さんは好きな花とかありますか?」

 「好きな花?」

 「なければ大丈夫なんですけど」

 あると言えば嘘になる。女の子であれば好きなお花の一つや二つありそうなものだが、男でお花が好きな奴はあまり出会ったことがない。小学生の頃も、女の子の将来の夢は、お嫁さんに並ぶほどお花屋さんの人気は高かったけれど、男の場合は社長とか金持ちとかそんなのばかりだった気がする。そのくせ、良い歳になれば女の子の方が現実的になっていき、男の方が夢追い人間だったりするんだから面白い。

 しかし、ここは無理矢理にでも答えてあげるべきだろう。折角、鎌取が頑張って相手を楽しませようとしているのだから。

 そうだなぁ、今ハマってる曲の名前とかで良いか。

 「マリーゴールドかな。不自然すぎない色味なんだけど、実際自然の中で咲いていたら一際目立つだろう感じ……が、好きかな」

 「良いですね、マリーゴールド。私も好きですよ。見ているだけで元気が湧いてきますよね。……ちなみに知っていますか? 花言葉の方は」

 花言葉か。なんだろう、聞いたことないな。


 「マリーゴールドの花言葉はですね…………信頼です!」

 そう言った瞬間、鎌取は右手をパーにして開くと、何もなかったはずが、そこには一輪の橙色のお花が咲いていたのだった。


 「……」

 ただ、それがマリーゴールドかと言われると分からない。色は少し肌に近い橙色であったし、花の姿も桜のような形をしていた。どの花かは分からないけれど、どの花にも見えるような、デフォルトのような形。おそらく相手が指定するどの花にも対応できるように、このようなデザインになったのだろう。

 けれども、俺は今、そんな花のリアリティーなどどうでもよく感じる胸中であった。

 只々、目の前の彼女が輝いていて、惹きつけられる。それだけだった。

 俺は思ったままに、感じたままに、鎌取に言葉を返した。賛辞の言葉を。

 「…………じゃん」

 「……はい?」

 「めっちゃ良いじゃん!」

 鎌取の距離感が移ってしまったのか、気付けば前のめりになって彼女との距離を潰していた。鎌取は驚いたように目をパチパチと瞬きさせる。

 「あ、ありがとうございます」

 そこで俺は必要以上に顔を近づけていたことに気が付き、急いで顔を離した。

 「いや、なんか俺が思ってた以上に、鎌取頑張っていたんだなと思って」

 「実はこのマジック、前から友達に披露したいなって考えてて」

 「前から……」

 その言葉を聞いて、俺はやっと腑に落ちた気がした。

 友達がいない。聞いた話では中学三年間でも友達はできず、五年以上の年月をぼっちで過ごしてきたとのことだった。大切な学生時代の五年間を。

 しかし、鎌取と話しをしていても、ネガティブな面はあれど彼女のことをコミュ障だとか、引っ込み思案だとか感じることはなく、むしろ友達がいないことが不思議なくらいであった。

 そして俺は今、ようやく理解した。鎌取は前から準備していたのだと。

 鎌取は初対面の俺と話をしても緊張しておらす、自然に表情を作れていて。ぼっちにしては違和感があった。でも、本当は彼女が前からずっと努力をして、準備をしていた結果であって、俺はただ、本番前のリハーサルを見ていただけだったのだ。そこに気が付いたからこそ、俺はなぜか今のマジックを見て、必要以上に感動した。

 「絶対、相手も同じように喜んでくれるよ」

 俺がそう言うと、鎌取は照れくさそうに笑った。自分の昂った熱が声色から伝わってしまったのかもしれない。別に良いけど。

 「やっぱり朝に春元さんに会ってもらって正解でした。なんか、さっきまでの緊張が嘘のように抜けていきました」

 「そりゃ良かった」

 出会った時は不安そうで、図書室でおしゃべりしていた時は楽しそうで、今は嬉しそうで。表情が豊かに変化する子だ、この子は。

 こういう子はたとえ天然であろうと、ネガティブであろうと、人から愛されるものだ。気持ちが表情に現れる人は信用できるし、そういう人と一緒にいるのは心地が良い。

 無責任かもしれないが、きっと昼休み、鎌取は友達作りに成功して、来週からマリーゴールド色の青春がスタートする。たとえ最初緊張して上手く自分を表現できずとも、時間が経てば人柄が伝わる。そう、俺は思った。

 校舎各所に取り付けられているスピーカーからは、部活動の終わりを知らせるチャイムが流れる。俺は鞄の中から活動日報の用紙を取り出すと、相談最終日は良い天気でした、と一文だけ先に書いておいた。

 鎌取は唇に隠れる真っ白な歯を、初めて自分に見せた。



 趣味のマジックは、ある意味友達がいなかったことがきっかけだった。

 中学一年の頃の話。突然訪れるチャンスというものを一度も活かせず、一人も友達を作れないまま夏休みに突入したのだが、部活にも所属していなかった私は当然エブリデイ暇を持て余し、夏休みの宿題なんてものは初めの一週間で終わらせてしまった。

 そんなやることもなかった夏休み。日曜日のサラリーマンのように、ソファに寝転がったままテレビを観ていると、その時流れてきたのがマジックの番組だった。大勢のお客さんの前で緊張せず、助手もつけずに一人で芸を披露するマジシャン。ものの数分でどっと観客を沸かせる姿を画面越しに観た時、私に必要なのはこれだと思った。

 母方の実家を訪ねた時に貰った小遣いはマジック道具や参考書籍に使い、有り余る時間はほとんど練習に費やした。ある意味、部活動のような生活を送っていたのかもしれない。

 しかし、練習していく内に楽しくなり、仮に当初の目的が達成された後も続けたいと思えるようになったのは事実で、今では自信を持って趣味と言える。けれど、こう振り返ってみると、あの時興味のないマジック番組からチャンネルを変えなかったことは、友達がいなかったからだと思う。

 中学時代があっという間に過ぎていき、気が付けば高校生になった。嘘を吐くことが苦手なことを自覚していた私は、巧妙に人間関係についての話題を避けてはきたものの、さすがに察した母が、最近の学校生活を心配するようになった。

 これはまずい。小さい頃から大切に育ててくれている母親を心配させるのは胸が痛い。

 高校生になってようやく焦りが湧き上がってきた。早急に友達を作らなければ。そう思った。けれど、残念なことに、その焦りが一歩を踏み出す勇気へと変換されることはなく、あれよあれよという間に一年が過ぎた。

 どうしよう。中学と違って話しかけてくれる子もいない。私このまま大人になっちゃうのかな。勉強なんて意味あるの?

 日に日にネガティブなメンタルに支配される時間が増えていった。全てのことに、やる気が起きなくなってきていた。負の連鎖といった感じだった。

 そんな中、ある日の授業終わり、下駄箱から上履きが消えていた。こんなメンタルなこともあり、真っ先にいじめを疑った。なんなら、いじめ以外の選択を無意識に排除していたくらいで、他の可能性を考えてもいなかった。

 実を言うと、上履きを隠してくれたことを嬉しく思っている自分がいた。何も行動できず、只々時間が過ぎていく日々を送っていた私としては、相談部に手紙を送るきっかけとなってくれた出来事に感謝をしていた。

 そんなことを考えると、春元さんには申し訳なってくるけれど、実際のところはそれが本心だった。

 今は、皆が燃料を補給する昼飯時。いよいよ決戦の時が来た。

 中学時代は一人ぼっちで、親には心配をかけた。最後に友達がいた時から五年の月日が経った。失敗も青春の一ページとか言うけれど、私の場合、白紙のノートが出来上がるような時を過ごしてしまった。

 でも、ここで終わらせる。終わらせることができる。長かった一人ぼっちを。

 四時間目の国語の授業。机の下で何度もカンニングメモを読み返した。人という時も十回くらい飲み込んだ。抜かりはない。春元さんと準備だってしてきた。

 ターゲットは隣の席の女の子。威圧感のない、性格の良さそうな女の子。仕入れた情報によると部活には所属してないらしく、私と同じようだ。絶対仲良くなれる。

 私は勇気を振り絞って席を立った。

 「あ、あのっ!」

 喉の水分が失われていたようで、変な声が出てしまった。けれど、勇気を振り絞った甲斐あって、隣の席の女の子はすぐさま反応をしてくれた。

 「あ、鎌取さん」

 優しい眼差しでこちらを見る隣の席の女の子。どうしたの?と言うように首を傾げ、その棘のないほんわかとしたオーラが、私の中にある緊張を徐々に解していった。

 いける。絶対いける。後は、お昼ご飯に誘うだけ。

 私の中では、勝利のバックグラウンドミュージックが流れていた。スポーツアニメの逆転シーンで流れていそうな、熱くなれる系の音楽が流れていた。

 ようやく始まるんだ、私の学生生活が。そんなことを思った。


 ……が、しかし、その時だった。


 吸い込まれるような、真っ黒い毛色。どこにでもいて、いつの間にかいなくなっているような、自由気ままを象徴する存在である……ただの猫。瞳は宝石のように青く輝き、その佇まいは堂々としていた。

 そう、猫。昨日見た猫。

 そんな黒い猫が、昨日と同様突然目の前に現れ、気付いた時には飼い猫の如く、目の前の女の子の肩に乗っていた。じっとこちらを見ながら。

 「猫……?」

 目の前の光景に驚きを隠せず、目を大きく見開く私。一方、隣の席の女の子は私の突然のリアクションを不思議に思ったのか首を傾げていた。やっぱり私にしか見えていないようだった。

 しかしこの後、動揺を加速させるような奇妙な出来事が、目の前で起こった。

 肩に乗る黒い猫が、どこからともなく白いボードのようなものを出現させた。そして、それを隣の席の女の子の頭上より少しずらした場所に持っていくと、手を離し、シージのように静止させてみせた。完全に空中に浮いている。

 いや、ボードというよりは少し飛び出した箇所もあるし、……これは漫画の吹き出し?

 さらに次の瞬間、私が呆然としてそれを見つめていると、その吹き出しの空白部に文字が滲んできたのだった。

 「……え」

 滲んできた文字を読んでみると、信じられない内容が頭に入ってきた。


 『一人じゃ、何もできないもんね』


 そんな台詞が吹き出しの中に収まっていた。吹き出しは隣の女の子から飛び出したような向き、位置で停止しているため、混乱している私は、まるでその子の心の声のように飲み込んでしまう。

 「……な……んで……」

 「鎌取さん? 真っ青にして、どうしたの?」

 吐き気、眩暈が押し寄せる。隣の席の子は、私の様子を見て心配をするが、頭が真っ白になってしまい、何も言葉を返すことができなかった。

 私は泣き出しそうになり、廊下の方へと身体を回転させる。そして、弁解することもなく、隣の席の子を置き去りにすると、逃げるように教室の外へと走った。

 「おいっ、鎌取!」

 教室を出たところで数日の中で一番聞き馴染みのあった声が私を呼び止める。

 私は一度立ち止まりそちらを確認すると、そこにいたのは相談部員である同級生の春元さんであった。

 「どうしたんだよ、いきなり」

 どうやら私が上手くやれたのか、陰から見守ってくれていたらしい。言葉通り、物理的にも影から見守っていたらしい。なんて優しい人なのだろうか。その表情は心配一色といった感じであった。

 「あ……、ねこ……が……」

 声が出ない。余裕がない。

 目の前に突如として顕現した猫。その猫が生み出した吹き出しの台詞。その一文が脳裏を反芻して離れない。

 私は春元さんから逸らすように顔を背けると、何も言わずに再び走った。否、走り去ることしかできなかった。途中、横をすれ違った教師から注意をされたけれど、止まることはできなかった。



 「猫……」

 何かが間違っていたのか。何かが欠けていたのか。何かを見落としていたのか。

 それとも、初めから何も変わっていなかったのか。

 廊下を歩きながら、そんなことを考えた。

 自分は一度たりとも、鎌取が嫌な奴だとは思う事はなかった。多少ネガティブな部分もあるかもしれないけれど、そんなものは個性という名の箱の中に収まってしまう話で、友人なんて簡単に作れると思っていた。

 けれど、鎌取の予定していた第一歩は失敗に終わった。まぁ、拒否されたというよりかは、彼女が勝手に飛び出したように見えたわけで、失敗ではなかったのかもしれないけれど、少なくとも成功と言える結果には着地できなかった。

 責任はもちろん自分にある。結果が全てなんて言うつもりはないし、自分が責任というものを毛嫌いしている人間であることは周知の事実なのだが、金曜日に昼飯を誘う算段をつけたことも、友人作りにおいて彼女に何の落ち度もないと判断したことも、間違いなく自分の責任だ。相談部に相談をしにきた以上、相談員である自分以外の責任であるはずがない。

 そういう意味では、俺は失敗をしたのかもしれない。

 しかし、こうして考えていても、そこまで鎌取に対して罪悪感が込み上げてこないことや、こういう展開になってようやく誰かの相談に乗っている気がしている自分は、もうどうしようもないところまで辿り着いているのかもしれない。

 「終わっているな、俺」

 もう一度、何故自分が相談部に呼ばれたのかを考える。……まぁ、それは自分がやらかしたわけで、それ以上でも以下でもないのだけれど、何のために部に入ったのか考える。何となくの慈善活動に意味はあるのか、考える。

 「……」


 ……俺は、何をやらかしたんだっけ?


 眉根を寄せて、足元をじっと見つめる。

 俺は初め、自己防衛のために嫌な記憶は消去され、思い出せなくなったのだと認識していた。漫画とかでもよくある設定、一種の部分的記憶喪失みたいなそんな感じで、精神を健康に保つためにそうなったのだと把握していた。

 けれど、身近な人が死んでしまったとか、そんなレベルの話でさえ記憶が飛ぶことはないのに、その後平穏に日常を過ごせてしまっているレベルの事件で記憶が消えるってことはあるのだろうか? 仮に人を殴って病院送りにしてしまったとかであれば分かるが、それならば少年院とか自宅謹慎とかになっているだろうし、周りからも変な目で見られているはずで、変哲のない日常を送れているのはおかしい。

 ……俺は何かを間違えているのか?

 「春元君!」

 背後から名前を呼ばれた。俺はハッと顔を上げ、振り返った。

 「姫野……」

 「どうしたの? こんなところで立ち止まって」

 「いや、別に何もないよ」

 そうなの、と姫野。彼女は数枚のプリントとファイルを重ね、身体の前で抱えていた。見たところファイルは相談部の備品で、方向的にまた部室で仕事でもするつもりなのかと憶測が浮かぶ。

 「……」

 「春元君……?」

 不思議そうに顔を覗き込む姫野。その時、俺はあることを思い出していた。

 そういえば姫野。出会った時、俺にあることを聞いたよな。君は何を見てここに来たのかなって。

 気のせいじゃなければ先程、鎌取は『猫』と、そう呟いていた。俺にも、隣の席の女の子にも見えていなかったはずが、彼女は驚愕した顔でそう呟いていた。俺たち二年生の教室は2階のフロア。野良猫なんているはずがないのに。

 さすがの俺もそこまで察しの悪い人間ではない。本屋からの帰り道に現れ、ちょくちょく姿を現すようになった、人の言葉を話すドラゴンのこともあるし、そのドラゴンが図書室で言った、厨二病というワードのこともある。

 これだけ情報が揃っていれば、鎌取の見たものが自分が見たドラゴンと同じ存在であると考えるのが妥当であり、相談部が何かを知っている、または隠していると推察するのが自然である。

 俺は姫野に質問する。

 「……姫野は、どうして俺に相談を任せたんだ? やっぱり君が相談に乗って、誰でもできる雑用を俺が担当した方が効率的じゃなかったのか。まぁ、もしかしたら両方君がこなした方が効率的かもしれないけどさ」

 すると、姫野は苦笑いして見せると、こう答えた。

 「私じゃ無理なんだって」

 「無理……?」

 そんなわけないだろ。得意じゃないことならまだしも、できないって。姫野にそんなものがあるわけない。間違っても、俺の方が向いているものなんて、あるわけがない。

 「私は結果に辿り着くことしかできないんだよ。自慢に聞こえちゃうかもしれないけれど、確かに私なら鎌取さんの目標であり願いである、友達を作ること、それだけなら達成できると思うけど、人の相談に乗るということは仕事じゃないからね。……私には向いていないんだよ」

 姫野は続ける。

 「春元君の話では鎌取さん、コミュニケーションにおいての問題点が一つもないってことだよね。話せば必ず友達になれるって。それなら、きっと唯一の原因は、話しかけることに抵抗があるということだよ。もしかしたらトラウマでもあるのかもしれない」

 「トラウマ……」

 「春元君は、鎌取さんが自分から誰かに声を掛ける方法を変えなかった。いや、変えるどうこうの前に、それ以外の方法なんて考えてもいなかった。けれど、私なら多分、違う方法を模索したよ。たとえば、逆に誰かに声をかけてもらうように意図的に仕向けるとかね。そんな方法で友達作りに成功したって、何も解決していないのに」

 姫野はそう言った。だから、相談には向いていなかったのだと。

 しかし彼女の場合、自分のやり方が間違っていると分かっていて、正しいやり方でも成功を収めるポテンシャルを持っているため、結局相談には乗れるのではないかと思ったが、そこまで考えている時点で人の相談に乗るべき人間ではないと判断したのか。俺は勝手ながら、言葉を補完する。

 何も返答することはできなかった。

 「俺だって向いていない。今思うと、鎌取のこと何も知らないんだから。好きな漫画でも、使っているスマホの機種でも、行ってみたい観光名所でも何でも良かったのに、彼女についての質問をほとんどしていなかった。この一週間、ずっとおしゃべりしてきたのにな」

 知っている情報は、友人作りに活かせそうな情報だけ。楽しく話せていたと思っていたけれど、あくまでクライアントだと認識していたようで、鎌取のことなんて何も見えていなかった。

 結局、俺は入部した理由も分からないまま行動して、責任感のない相談をしていたということだった。初めから。

 すると、励ましのつもりか、姫野はグーにした右手の甲を俺の胸に当てた。

 「大丈夫、春元君は良い人だから」

 「またそれか。鎌取と違って、俺の良い人には何の根拠もないんだろ?」

 「知ってるでしょ、私の勘は当たるんだから」

 いや、目の前で証明されたわけでもないし、知らないけど。

 「私、一部の界隈の人から大予言者って言われてるんだから」

 「え、界隈? 陰謀論界隈とか?」

 災害の発生でも的中させたのか? いや、現実的に考えるなら、株価の変動を予想したとかそんなんか? 姫野の頭脳ならありえなくもないだろうし。

 「一週間以内に不倫報道がされる芸能人を当てました!」

 「……もう、情報網が生徒会長レベルから逸脱してるな。怖いよ、君のことが」

 俺は姫野の言葉を聞いて、今後絶対敵にしないように立ち回ろうと心に決めた。姫野を敵にしたら、次の日には社会的に殺されていそうだ。

 姫野はドアをノックするように、俺の胸を数回叩いた。その幸せそうな彼女のニヤケ顔を見ていると、何か気持ちが前向きに変わっていく気がした。

 「それに……」

 姫野は歩き出しながら、俺に言った。

 「君は自主的に相談部に入部してくれたんだから、良い人に決まってるよ」

 「まぁ、そうだな。誰かに強制された訳でもなく、高校二年生という中途半端な時期にも関わらず入部したことは確かに…………って、は⁉︎」

 姫野は流れるように、そう事実を告げた。

 「どうしたの?」

 俺は目をまん丸にして動揺する。不自然に思った姫野は首を傾げる。

 「俺が自主的に入部した?」

 「え、違うの?」

 何を言っているんだ、一体。相談部への入部は俺の意思? ……いや、何を言っているんだ⁉︎

 「ごめん、何かおかしなこと言ったかな?」

 姫野は自分の発言が間違っていたのかと、距離を詰める。しかし、俺はたじろぐこともせず、頭の上でハテナマークを量産するだけだった。

 「……どういうことだ」

 小さな声でぼそっと呟いた。

 意味が分からない。俺の記憶では一年の冬に事件を起こし、相談部に入部することで水に流すと学校側から通達を受け、入部をする羽目になった。

 それなのに、俺が自分の意思で入部したと言う姫野は目の前で困惑し、嘘を吐いているようには見えない。何が、どうなって、どういうことだ?

 すると、姫野は追い討ちをかけるように、新たな真実を述べる。

 「一応、訊いたじゃん。月曜日の顔合わせの日に。……何を見てここに来たのかって」

 「……え」

 「ポスターとか貼っている訳でもないし、私の活動とかを見て入部してくれたんじゃないの?」

 姫野は訝しげにそう言った。



 姫野と別れた後、俺は誰もいない教室に忍び込み、身体を隠すように座り込んだ。そこは何かの物置部屋のようで、学校でしか見ることのないでっかいコンパスや黒板半分ほどのサイズの世界地図なんかが置いてあった。部屋の中は薄暗く、物が部屋の面積を圧迫しており、俺にとって妙に心地の良い環境であった。

 スマホで時間を確認する。昼休みはまだたっぷりと残っていた。

 「こんな薄暗くて、狭い密室に連れ込んで。僕のことをどうするつもりなんだい?」

 お化けにしたって近すぎる。緊張感のない声が隣から。右の耳から入っていき、左から抜ける。

 俺はため息を吐いた後、顔を向けずに言葉を返した。

 「君が勝手に入ってきたんだろ。愛菜」

 「あれ? もう驚かないんだ。つまんないな」

 今回にて四度目。何事も三度までが常とされる世の中。さすがにもう驚くことはなかった。

 しかし、愛菜の顔を見ると、つまらないと嘆く割には愉快にほくそ笑んでいた。ほんと、変な奴だ。

 「そうだ、呼び名を決めたんだ。君のことはこれから、つっちー、って呼ぶね」

 「え、つっちー? 全然由来が見えないんだけど」

 苗字にも名前にも土なんて入っていないのだが、どこを連想ゲームさせてつっちーとなったのか。首を傾げるが、ニコニコしているだけで、愛菜は教えてはくれなかった。

 つっちー……ツッチー……ツチノコ……。ツチノコは、どちらかといえば愛菜の方だよな?

 「……それで、教えてくれるんですか。君の存在について。もう、焦らしプレイみたいな真似はやめてほしいんだけど。俺は面倒なことが嫌いなんだから」

 「当ててみてよ」

 面倒事は嫌いと言った側から、面倒な提案をする愛菜。こういう登場の仕方をする奴って大体、状況の説明をして助け舟を出してくれる案内キャラと決まっているものだが。どうやら、こいつは理から反しているっぽい。

 俺は再び、態とらしくため息を吐いた。

 「そうだな。こうも幻が鮮明に見えているという現状はまともではないもんな。……となると、病気に罹っているとか、そんな理由か? それこそ前に図書室で言っていた厨二病?とか」

 図書室で愛菜と会話をした時、去り際に放った鎌取が患っているという病気。

 ただ、一般的な認識では厨二病は「悪魔が封印されし俺の右腕が疼く」「俺は他の連中とは違う力を持っている」などといった己の世界を拗らせた人間を総称する単語であるため、愛菜の指す厨二病がどういうものかは分からない。

 「おぉ、流石はつっちー! でも、どうして自身も厨二病だと思ったのかな?」

 関心したように拍手をするが、質問で返す愛菜。すっと正解なのかだけを教えてくれれば良いものの、ギリギリまで会話を伸ばされる。まったく面倒なことだ。俺とは相性が悪いなこりゃ。

 「はぁ……。単純に俺と鎌取の共通点を考えればそうだろうよ」

 「共通点?」

 「厨二病って名前なんだろ。それなら、君のような得体の知れないものが見えていることが一つだ」

 既存の厨二病の概念から考えられる病状が、共通点の一つ。本人のみ見える幻覚の存在。そして、もう一つの病状は完全に俺の推測であり、妄想だったが、どうしてか妙な確信だけはあった。

 俺は、そして、と続けた。

 「二つ目は、間違った記憶を真実の記憶だと誤認していたこと」

 すると、愛菜はキョトンとした顔で俺を見た。

 「ん? どういうこと?」

 言葉のままの意味だったのだが、説明が足りなかったか?

 「いや、確かにつっちーは何かをやらかして相談部に入部することになった、って記憶を間違えていたわけだけど。鎌取ちゃんはそんなことないでしょ?」

 愛菜は本当に分かっていないといった様子でそう言った。その反応に、俺は眉根を寄せる。

 もしかして本当に彼女は想像以上に想像以下で、神様のように何でも知っているという訳ではないのか? いや、そもそも俺の見ている幻が愛菜という説が正しいのなら、俺が知る以上の情報はないわけだし、むしろこの反応が正しい?

 ますますこんがらがった思考が脳内を渦巻く。

 ……とりあえず、伝わってないのなら説明をするか。

 「俺が変わっているのか、鎌取が変わっているのかは分からないけど、俺と彼女は下駄箱での手順が逆だったんだよ」

 何の話?と、愛菜は問う。

 「違和感の話さ。鎌取に対する違和感。本当にいじめられているのなら危機感を感じていなさすぎるって言いたいんだよ俺は。普通だったら、考えられない程の不安とストレスを抱える案件だぜ、いじめられてるって事実は」

 「まぁ、そうかもね。友人が欲しいなんて願いは二の次だよね」

 そう。二の次というか、友人が欲しいなんて前向きな願いは考える余裕がないはず。にも関わらず、鎌取の願いは友人作りであった。

 「そして、話を戻して下駄箱で気が付いたことになるんだけどさ。俺は上履きを脱いでから下駄箱を開けて、上履きと外靴を入れ替えるんだけど、鎌取は初めに下駄箱を開けていたんだよ」

 外靴に履き替える手順が俺と違う。いや、違うというか、やっぱり鎌取の手順が少し変わっているんだと思う。珍しいタイプと言える。

 「下駄箱を開け、外靴を取り出し地面に置く。そして、その後に上履きを脱いで下駄箱に入れていたんだ。これを見た時、俺は違和感を覚えた」

 「む、む、む……?」

 「この手順だと俺の手順と違って、下駄箱に上履きと外靴のどちらも入ってない瞬間が生まれるんだよ。……まぁ、だからつまり、俺と違って鎌取の場合は上履きを入れ間違える可能性があるわけだ」

 そこでようやく、愛菜は気が付いたように「あぁ……!」と声を漏らした。

 「先着決めだったのか、俺のクラスと違って、鎌取のクラスは下駄箱の配置が出席番号順ではなかった。鎌取はカ行のはずなのに、配置は最後の方だったんだよな」

 最後の方。鎌取の下駄箱は最後から二番目の列で、隣の縦一列は上二つを除いて誰のものでもない余りの下駄箱になっていた。そして、鎌取の配置は上から四つ目のところだった。

 「上履きが見つかった場所は、鎌取の下駄箱のすぐ隣。そして、彼女は入れ間違う可能性のある履き替え方をしていた」

 クラス替えをしたということは、下駄箱が新しくなったということでもある。今は四月で、まだ馴染んでいない下駄箱で入れ間違いはきっとある。

 「これで、上履きを見つけられなかったのは無理がある。普通だったら両隣くらいは確認するからな。……だから今思ったのは、俺と一緒で間違った記憶を見ていたんじゃないかってこと。俺と同じで、いじめられているという謎の自信を持っていたんだと思ったんだ」

 自分で隠しておきながら、誰かに上履きを隠されたという間違った記憶の認識。今、こうして体育座りをしながら、一度頭を整理し、そんな可能性を思いついた。これまた我ながら、良い推測なのではないだろうか。

 病気が実在するのなら、おそらく鎌取自身は嘘を吐いていた自覚があった訳ではないと思う。俺と同じで根拠のない無意識な自信いうか、疑うことをさせない思考状態になっていたんだと思う。

 だから、俺がやらかした内容を追求しなかったように、鎌取もいじめられている事実に執着しなかった。まるでなかったかのように、彼女は次なる願いに移ることができた。

 説明を終えると、横にいた愛菜が目を輝かせた。

 「さすがだね、つっちー」

 俺の回答に満足したのか、愛菜は口角を上げてみせる。

 「ごめん!」

 「何が?」

 「本当のことを言うと、僕は大したことは知らないんだ。君が今述べた推測だって、合ってる気がするっていうのが率直な感想だし、自分の存在についてだって曖昧にしか分かってない」

 正解かと構えていたが、思ってもいなかった回答が愛菜から返ってくる。彼女は意味深な台詞を吐くミステリアキャラを演じたかったらしく、すまないねと軽すぎる弁解をした。

 「え? じゃあ俺は結局今の状況になんの対策も打てないってこと? 詰みじゃん」

 俺が降参するように言うと、愛菜はフルフルと顔を振った。

 「でも、はっきり分かることもある。それは、厨二病の原因が心の弱さにあるということ。だから、原因を除けば病気は治るんだよ」

 その瞬間、デジャブ.....というか、いつか誰かに同じようなことを言われた気がした。そもそも厨二病というワード自体すっと頭に入ってきたし、何故か前から知っていたような。奇妙な感覚に襲われた。

 「厨二病は幻の世界と現実の世界の境界を曖昧にしてしまうのさ。窓を開けて、網戸にするようにね」

 その台詞も、いつかどこかで聞いたことがあるような……。

 「つっちー?」

 愛菜が俺のあだ名を呼ぶ。カーテンの隙間から入り込んだ光の線が、自分の視線と重なる。

 俺はその時、愛菜の言葉を聞いて、忘れてしまっていた春休みの出来事について思い出した。


 俺の兄は運動、勉学、社交性にも優れ、俺とは正反対のような人間だった。けれども、姫野ほどの近寄り難さはなく、鎌取のように柔らかな雰囲気を持ち、周りから慕われる存在だった。高校は俺とは別のところであったが、よく家には友人が遊びに来ていたし、部活動のサッカーでもキャプテンとしてチームを引っ張っていたと聞いていた。

 完璧超人という言葉が似合わない、完璧超人。それが俺の兄だった。

 しかし、高校の卒業と同時。兄は信じられない選択をした。

 国立大学に行けるくらいの学力はあったし、プロにはなれずともスポーツ推薦だって貰っていた。あまり仲良しとは言えなかったため、具体的な話は聞いてこなかったが、俺よりも数多の選択肢を持っていて、ある程度の者にはなれたはずなのだ。

 それなのに、春休み。大学に進学することも、専門の道に進むことも、ましてや就職をすることもなく。突然、アルバイトをしながら一人暮らしをすると言い出した。

 ある日の休日。死んだように脱力した顔で兄と二人で作り置きの昼飯を食べていた際、それとなく訊いてみた問いに、兄はこう答えた。

 「誰からも必要とされている気がしなかった」

 俺はその言葉を聞いた時、ずっと持っていたのに気が付かなかった己の不安感が、一気に表面に飛び出してきたことを、愛菜の言葉を聞いて何故だか思い出した。


 そうか。そういうことだったのかもしれないな。


 目を疑う幻と、目では疑うことのできない幻。それらが俺の選択を惑わしていた。

 愛菜の言うことが本当ならば、弱い心が厨二病の原因とのことだが、それならば俺にも原因があるのだ。

 鎌取はおそらく、友人に対する過去のトラウマ。俺が兄についての記憶を忘れていたことから、彼女も当時の記憶を忘れているのかもしれない。

 そして、俺の厨二病の原因。幻に頼ってしまった理由。……間違いない。自分のことなんだから、さすがに分かっている。

 「愛菜。ちょっと今から鎌取に会いに行ってくるわ」

 「お? 何か急に顔つきが変わったね。どったの?」

 何の刺激もなく、何の充実感もなく、何のありがたみもない日々を送ってきた俺。兄とのスペックとは正反対。けれども、兄弟だからこそ、思考回路は似ていて、そんなことだから悩みの理由も同じだった。

 幻に背中を押してもらってまで相談部を訪ねたかった理由なんて決まっている。

 俺は立ち上がり、座ったままの愛菜に一瞥した後、勢いよくドアを開けた。

 「俺はこれから、人に手を差し伸べ続けなければならなくなったんだよ。まったく、面倒臭がりだっていうのに、勘弁してくれよな」



 馬鹿と煙と厨二病は高いところが好き。ソースは俺。

 公園に行くと、真っ先にジャングルジムの頂上に登り、落下の危険も顧みずに仁王立ち。東京スカイツリーに行った際は、展望デッキで十分なところ、大して景色も変わらない展望回路まで料金を払った。残念なことに、俺は高所恐怖症気味なのだが、何かと物理的に上を目指してしまう癖がある。

 今にして思えば、これはおそらく厨二病のせいであったのかもしれない。いや、きっとそうだ。

 登場シーンで、高いところから見下ろし、髪の毛を靡かせているのがカッコいい。窓際でミステリアスに小説を読んでいるのがカッコいい。エナジードリンクをストローで飲みながら夜の街を徘徊しているのがカッコいい。厨二病とは、そういうもんだろう。

 「……うん?」

 いや、違う気がするな。

 幻を見ている、現実との区別がついていない、その点については厨二病と同じかもしれない。鎌取は自分にしか見えない猫を見て、俺は存在するはずのない竜を見た。けど、俺のイメージする厨二病は、「右手が疼く! 鎮まれ、アルティメットドラゴン!」的な感じで、このイメージの厨二病とは少し違う気がする。俺はともかくとしても、鎌取はそんな雰囲気じゃないだろうし。今までの彼女が厨二病かと聞かれれば、俺はノーと答える。

 あれ? 俺今、屋上に向かって走っていることに何の迷いもなかったけれど、もしかして場所間違ってる可能性出てきた? 厨二病という単語から連想させて、勝手に上へ上へと向かっていたけど、鎌取の向かった先は他の場所の説ある、これ?

 「急に自信がなくなってきたな……」

 しかしその時、もはや狙っていたのかと疑いたくなるタイミングで人影が現れた。

 「あれ? ハルじゃんか。何やってんの、こんなところで」

 癇に障ることも多いが、怒る気にもなれなくなる表情の、この男。パックのレモンティーをストローで吸いながら、窓の縁に肘を掛けて立っていた。その一枚は絶妙に腹が立つ光景であったが、こんな奴の人望が厚いという事実は、それ以上に腹の立つ材料であった。

 中学からの幼馴染にして、暫定一番仲の良い友人。小林が俺を呼び止めた。

 「お前こそ何してんだよ。そんなところでカッコつけて待っていたって、女の子からのナンパは来ないから諦めろ」

 「ハルが網に引っかかったんだから、意味はあったさ」

 うぜぇ……。でも、こいつなら悩むことがなさそうな悩みが俺の厨二病の原因ということが、もっとうざいなぁ。一発殴っとくか、何となく。

 「あっ、そう言えば小林って鎌取とクラス同じだったよな。彼女見なかった?」

 「いや見てないけど……。え、なんで他クラスの女の子探してるの? ハル、部活もやってないし、塾にも通ってないし、接点とかないよね? ま、まさかストーカー……⁉︎」

 本当にこいつ殴っておくか。景気付けに。殴っても許されそうだし。

 「ちゃうわ。ストーカーだったら、堂々とお前に訊かないだろ。普通に最近知り合って、ちょっと用があるだけだよ」

 「うわぁ、何か詳細部分は誤魔化すなぁ。何かあるんじゃないの? 本当は」

 よし。もういいや。無視して先を急ぐか。昼休みの時間もあまり残ってないしな。

 俺は小林から顔を背け、横を通り過ぎる。すると、小林はニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべ、すれ違いざまに言った。

 「何か生き生きとしてるな、珍しく」

 見透かしているような台詞にむかつき、俺は小林に対し悪態をついて反撃した。

 「お前相手じゃ満たされなかったもんを手に入れるんだからな」

 しかし、言われた小林は嬉しそうに笑ったままで、俺のイライラは解消されるどころか悪化した。



 図書室の鍵事情と同じく、予想通り屋上の施錠はなされていなかった。扉の内側に立ち入り禁止の張り紙が貼ってあるために、ダメなことには変わりはないだろうけど。

 「……聞いてないぞ、これは」

 扉を開けて外に出てみれば、信じられない光景に目を疑った。

 上を見ると、校舎の窓から見えていたものとは異なる、若干紫がかった曇り空が広がっていて、空気中には霧が発生している。さらに、屋上であることは確かなものの、足元には土が敷かれており、落下防止の柵の側には沿うようにして十字架と海外式の墓地が交互に並べられていた。

 そして、目の前には自分の三倍程の丈がある真っ黒い猫が、こちらを見下ろすように座っていた。あまり敵意というものは感じ取れなかったけれど、もしも俺が餌であれば、一口でペロリといかれそうな体格差だ。

 愛菜の言葉を借りるのなら、幻の世界……だと思う。ただ、ここは明らかに鎌取の描いた幻であり、自分がここにいる説明が思い浮かばなかった。

 考えうる可能性を挙げるなら、俺自身も厨二病であるため、それが何か関係しているのかもしれない。

 「あ、いた」

 予測の通り、鎌取は視線の先で見つけることができた。

 しかし、大きな声で「おーい」と呼んでみたものの、ノイズキャンセリングをしているかのように無反応で、彼女は手すりに肘をかけたまま、高層ビルが立ち並ぶ隣町をぼーっと眺めていた。霧のかかる俺の視界からは隣町なんて何も見えないけれど。

 どういうことだろうか。これではまるで、俺が彼女の幻に囚われているようだ。

 「……まぁ、こういう時って大体、ラスボスみたいな奴を倒せば元の世界に帰れるみたいな設定あるよな。流れ的に考えて、目の前の黒猫をどうにかすれば良いのか? ……猫っていっても、あんな大きな猫見たことねぇけどな」

 扉を開けたら、チュートリアルを飛ばしていきなりボス戦。そんな状況。愛菜の説明も適当であったし、初回でこれは攻略できそうにない。

 ……ただ、実を言うと、そこまで絶望を感じているわけでもなかった。

 一歩二歩。少し歩いてみるが、やはり地面の感触はコンクリートのままで、肌を撫でる周囲の空気も見えている程どんよりしていなかった。そもそも、視界はともかく、感覚まで幻の影響を受けてしまった場合、俺という存在自体曖昧な存在になってしまうわけだし、直感としてVRくらいの話だと捉えていた。

 「倒すって物騒だよな。猫に触れれば、消えるのかもな」

 俺は、きっとそうだ、と自分に言い聞かせた。

 倒すと言ったってステゴロで巨大猫に勝てるわけもない。猫の反応速度は蛇より速いって聞くし、アドバンテージの体格差だってないどころか逆転されているのだから、戦うとなれば絶望的だ。

 それなので、タッチしたら俺の勝ち。言えば、鬼ごっこ。己の楽観的な認識を覆さないために、俺はそう思うことにした。

 「早速だがいくぞ、猫ちゃん! いくら幻だからって、屋上から飛び降りるのはナシだからな! フィールドは柵の内側だけな!」

 掛け声と共に地を蹴った。俺は勢いよく右手を伸ばし、黒猫の大きな身体に迫る。

 ……が、しかし。

 「え?」

 あと少しで手が届くところで、俺の視界は横に振れた。一瞬で目の前から猫が消える。その後、身体自体が振られたことに脳が理解をし、体勢を崩すとゴロゴロと転がっていき、柵に激突した。

 身体を起こし、状況を確認する。俺は最初のポーズと異なり前足を上げていた黒猫を見て、鬼ごっこなどという甘い考えは通用しなかったことに気が付く。

 ……どうやら最初のルール通り、倒さなければ鎌取に届かないようだ。

 「いやでも、柵にぶつかった痛みはあるけど、猫パンチを食らった時の痛みは大したことないな。それに向こうから攻撃してくる雰囲気もない。となれば、あの黒猫は進路を妨害しているだけなのか?」

 そう考えるのが妥当か。しかし、今の黒猫の前足がほとんど見えなかったことも事実だし、鎌取のところまで辿り着けるのか俺。

 俺はそこでようやく、全身を緊張が駆け抜けた。

 「どうしたものか。結局倒さないといけないのなら、せめて武器だけでも……」

 その時だった。

 言葉で発したのと同時。頭でもそう願った瞬間、遠くからクルクルと音を立て、何か細長いものの影が真上から落ちてきた。それは、身体一個分自分より前を通過し、コンクリートのはずの地面に突き刺さる。

 俺は驚きで身体を硬直させたまま、視界に現れたそれを見た。

 「タイミング良すぎだ」

 何もないはずの空からそこに降ってきたものは、誰が見ても同じ答えを出すくらいにはありきたりで王道とも取れるデザインの、片手で持てるサイズの『剣』だった。

 「これも愛菜の力なのか?」

 俺の疑問は虚空に消える。



 気にしたらダメ。気にしたらダメ。

 五年も経つんだ、言われなくても分かっている。

 会話の練習だって、本当は前々から続けていた。もちろん、春元さんとのトレーニングが無駄だったわけではないし、実際に人と話すことは一人ではできないことで、良い時間は過ごせたけれど。ただ、友達を作るための準備は十分過ぎるほど取ってきたし、本当は他人がそんな恐ろしい存在じゃないことなんて理解している。

 けれど、まだ。私は友達を作るのが怖い。業務連絡だったり、授業で会話したり、それこそ相談部に相談という名目ならできるようになったのに、友達になるために会話をしようとすると、頭が痛くなる。冷や汗が流れてくる。

 「自分から話しかけといて、勝手に逃げて、私何やってるのかな……。隣の席の子も、私のこと絶対変な人だと思ったよ。……やっぱり私なんか、校舎裏のニホントカゲの子供とおしゃべりしてる方が性に合ってるのかな」

 川を挟んだ隣町はここらよりも発展している。日本最大級のショッピングモールや大型のイベントホール、大手企業の本社なんかも入っているとかなんとか。千葉県は基本的には低層建物が多いため、屋上から隣町を眺めると、千葉から東京の町を見ているようで変な感じがする。反対側の方角を見れば、千葉県らしい町並みが広がっているのに凄いギャップだ。

 私は隣町のビル群を鑑賞する。近くにあって遠くにあるような景色を見渡していると、現実から上手く目を離すことができて、気持ちが楽になっていく。

 「今日はもう早退しちゃおうかな……」

 空に向かって弱音を吐いた。誰も聞いていない屋上で、一人ぽつりと。

 ……その時だった。雑技団のごとく、手をかけていた柵を器用に渡る、黒い影。見ると、先ほど隣の席の子の肩に乗っていた、あの黒猫だと分かった。

 「な、何ですか……? 私に何か恨みでもあるんですか……?」

 三度目の正直。三度目にして、ようやく正直に現実を受け入れられた。やはり気のせいじゃない。

 しかし、今回は慌てずに黒猫をじっと見つめて話し掛けてみる。猫相手に敬語にはなってしまったのは、心の余裕がない現れかもしれないけれど。

 すると、

 『春元さんも思っていますよ。早く関係を終わらせたいなって』

 黒猫は再び吹き出しを使って言葉を発する。落ち着いていた私は、すぐさま反論した。

 「そんなわけないです! 適当なこと言わないでください! 春元さんはそんな人じゃないです!」

 春元さんも、隣の席の子も、身体に触れているのにも関わらず反応を見せなかった。虫や爬虫類ならまだしも、小柄とはいえ猫が乗っていて気付かないはずがない。となれば、当然私一人が見えている、そう考えるのが普通だろう。

 私の記憶では、ヤバい薬に手を出した覚えはないので、おそらく精神的疲労から来る幻覚だと考えている。正直、原因は現時点では分からない。

 ただ、この吹き出しの内容を鵜呑みにする必要なんてない。それは確かだと思った。

 『そもそも、二年生になってから相談部に入部って、どうしてなんですかね?』

 しかし、幻覚だと判断しつつ、私は真面目に言葉を返してしまう。

 「それは人の助けになる行いがしたかったからですよ。駅前とかでボランティアを活動している学生いますよね。それとおんなじです」

 『春元さん良い人そうですけど、そういうタイプの人間ですか? ましてや、相談部って積極的に部員を募集している感じでもないでしょうし、おかしいですよ。きっと、訳があって嫌々活動しているのではないですか?』

 言う通り、春元さんは面倒臭がりを公言していて、ボランティアに精を出すような人ではない。前に聞いた入部理由も誤魔化している感じがあった。それに、相談部が積極的に部員を集めているわけでもなく、集会サボり常習犯の私は、二年になるまで存在を知らなかった。

 「それでも、春元さんは良い人です。嫌々付き合ってるなんて、絶対ない」

 否定をするように、力強く言い切った。

 『何故そう思うんですか? 春元さんはそんな人ではないって』

 「一週間、彼と会話をしてきたから。何も知らないあなたよりは、分かります」

 明らかな敵意を向けて言い放つ。

 すると、猫の表情も分からなければ、声の抑揚もない吹き出しのみではあるけれど、嘲笑っているかのように黒猫は言った。

 『へぇ、春元さんのこと理解したつもりでいるんですね』

 「理解って、そんな大袈裟な話ではなくて。ただ、人柄くらいは……』

 黒猫は私の返事を遮るように、

 『一週間どころか、何年も一緒にいたあの子からは、あんなことを言われたのに?』

 そう言った。

 「……え」

 言われて、…………私は、薄れていた苦い記憶を、鮮明に思い出す。


 醜いアヒルの子のように、いつも後ろを追いかけて。その分、小さな幸せを見つけたら、誰よりも先に教えてあげていた。小学一年生の時、出席番号の近かった、あの子。どこに行くにも一緒で、誰よりも長い時間を過ごした、あの子。

 周りからは、兄弟みたいだね、なんて冷やかされて。あの子も、誰が兄弟じゃ!って、笑いながらツッコんで。友達を追い回すあの子を、私は笑いながら見ていた。

 小学三年生になってクラス替えが行われたけれど、また一緒になって、家に帰って泣いて喜んだ。

 校外学習も同じ班。運動会でも同じ種目。選択授業も同じ科目。

 あまり好きではなかったけれど、いつも楽しそうに給食の牛乳をジャンケンをするもんだから、私も混じってジャンケンをするようになった。もちろん、勝ったらあの子にプレゼントをした。

 それほど、あの子は私の中心だった。けれど……。

 小学五年の二度目のクラス替え。またしても同じクラスになった私とあの子。ただ、新クラスになって数日が経ったある日、あの子は疲れたように告げた。私に終わりを告げた。

 「そろそろ、しつこいかな」


 「……あ……違……」

 …………そうだ、そうだ。そうだった。

 私は人から嫌がられる人間なんだった。煙たがられる人間なんだった。どうして忘れていたのだろうか。忘れて良いはずがないのに。

 一人の人間に固執して、依存して、付き纏って。迷惑をかけた。

 そんな人間が、また誰かと友達になる? 隣の席の優しそうな子を狙っている? 何を言っているんだ。

 私は望んだ。一人になることを。今後友達なんて作らないことを。人の目が、友達の目が怖くなったあの日から。

 あぁ、この黒猫の言う通りだ。春元さんだってきっと思っている、面倒だなって。隣の席の子だって、私なんかと友達になりたくないはずだ。それなのに……。

 何を今更。友達作りなんて、おかしなことをして……。

 『あなたには友達なんて必要なかったんですよ、最初から。そもそも、他人がいないと生きていけないなんて色々と不便ですし、一人の方が楽ならそれで良いんです。誰かを求めることも、誰かに求められることも必要ない。あなたは今までも、これからも、ずっと一人で良いんですよ』

 「私は、ずっと一人……」

 やめようと思っていたネガティブな思考が言葉として漏れる。視界が歪む。どうしようもない気持ち悪さが心を侵食した。……どうしたら良いの?

 しかし、その時だった。


 「テラスで昼飯とは、なかなか風情のあることしてるんだな。俺も混ぜてくれよ」


 背後から声が聞こえた。安心する声。ここ数日で、一番聞いた声。

 そして同時に、目の前にいた黒猫が、剣で斬られたかのように綺麗に二つに割かれ、光の粒子となって空に散っていった。

 「は、るもと……さん」

 掠れる声で、彼の名を呼んだ。

 「屋上で黄昏るって、よく言うけどさ。黄昏るに物思いに耽るって意味はないらしいよな。でも、時代と共に言葉だって変化するんだし、いつかはその意味も追加されるよな、きっと」

 目に涙が滲んできたのか、視界が霞む。私は隠すように目を擦り遠くの隣町を眺めると、春元さんも同じように柵に肘を掛けた。

 「まぁ、別に良いんじゃない。今日ダメでも、明日があるしな」

 「そんな夏休みの宿題じゃないんですから」

 「そうだな。夏休みの宿題って量が多すぎて、結局休みの最後の日まで引きずるもんだよな。俺も毎年そうだった。そんで、終わらないから親に風景画の宿題を代わりに描いてもらったら賞なんか取っちゃったりしてな。罪悪感に襲われたのを思い出すよ」

 あまり宿題に手を焼いた記憶がないため共感がしづらかったが、春元さんは懐かしむようにコクコクと頷いていた。もしかしたら、他の人は私と違って毎日忙しく、宿題をこなす時間があまりないのかもしれない。

 「でも……、鎌取の一人ぼっちは終わらせられるよ。希望的観測なんかじゃない。一週間も会話をしてきたからこそ分かる」

 春元さんは目を合わせると、慰めでも励ましでもなく、ただ事実を述べているといった表情で、そう言った。一週間は長いぞぉ、と彼は言った。

 不安だった春元さんにとっての私の印象。どうやら黒猫の言っていたものとは異なっていたようで、私は安堵した。この感じで、本当は面倒臭がっているなんて、ありえない。ぼっちの私にだってそれくらいは分かる。

 「小学生の頃、唯一の友達から拒絶されたんです」

 しかし、気が緩んだせいか、自分語りを始めてしまう。

 「その子は誰にでも優しくて、誰とでも仲良くなれて、誰からも慕われていて。暗かった私とも仲良くしてくれたんです。他と馴染めなかった私のために、二人だけで遊びに誘ってくれたり、風邪引いた日にはプリントを届けにきてくれたり」

 「プリント届けてくれるって本当にあるんだ。男は面倒くさがって届けに行かないから、そんなシチュエーション経験したことないや」

 「…………それを勘違いしたんですよね、私。自分だけに優しかったわけじゃないのに、勘違いして。あの子に付き纏って、嫌われちゃって」

 思い出せば出すほど、ほんと馬鹿だって思う。小学生だったし、精神的に幼かったと言えばそれまでなんだけど、それにしたって執着しすぎていた。角度を変えればストーカーだと言われそうだ。

 すると、春元さんは淡々とした口調で言った。

 「けど、君は五年間、その経験を活かして努力をしてきたんだ。初対面の俺と自然に会話ができるくらい、成長してきたんだ。自覚がないなら俺が言うよ、君は変わったんだ」

 淡々としながらも優しさを感じる春元さんの言葉に、再び目頭が熱くなる。

 「あれ、結構カッコ良いこと言っちゃってんじゃない俺?」

 「今ので、台無しです」

 カラスが上空を飛んでいく。雲がゆっくりと流れていく。体育教師が校庭で午後の授業の準備をしている。

 何も特別じゃない昼休み。毎日繰り返される、ただの昼休み。

 私はゆっくりと息を吸って、吐いた。

 「そうだ、言い忘れてた」

 春元さんはカラスを目で追うと、業務連絡でも言うように、さらっと。

 ……私に提案をしてくれた。

 「友達になろうよ、俺たち」

 カッコつけたように、そう言った。

 いとも簡単に、駆け引きもなしに、春元さんは言ってしまった。私では何年も言えなかった台詞を。

 しかし、その刹那。友達に対するトラウマがぶち壊れるような音が……した気がした。

 「あ」

 けれど、そうだ。それはそうだ。五年も引きずり続けた悩みではあるけれど、消えてしまうに決まっている。呆気ない気もするけれど。

 だってそうだよ。…………なぜなら、もう友達ができたのだから。今、この瞬間。もう、友達という存在に怯える必要はないんだ。

 「あ、あれ? だんまり? もしかして俺この流れで振られるパターン?」

 半分放心状態のまま口をポカンと開けていると、急に冷や汗を流す春元さん。その様子に、自分が原因でここまで来てもらったにも関わらず、思わず笑ってしまう。

 「あの、よろこんで受理させていただきますね」

 さすが春元さん、やっぱり良い人だ。黒猫の言葉に揺らいでしまった自分が間抜けに思えるくらい良い人だ。

 私は面白くて、おかしくって、再び涙を流した。すると、春元さんは、「君の目標を、二人目の友人作りにしてしまって悪いね」と悪戯っぽく言った。



 土曜日になった。

 平日、仕事の代わりに朝から夕方まで勉強をしている俺ら学生にとっては、束の間の休息というやつだ。噂ではこんな休日にまで学校に赴いて部活動と呼ばれるものに拘束される学生もいるそうだが、俺は違い、朝から晩まで全力でダラダラし、怠惰を我が物とすると心に決めていた。

 さて、何しようか。溜め込んでいるアニメを消化しながら、スマホでゲームをするか。それとも、古本屋に行って金も落とさずに漫画を読みに行くか。サウナに行くのもありだな。暇だろう小林に連絡をするか。

 俺の頭の中では、様々な計画が生まれていく。

 そう。楽しい土日になる。……はずだったのだが。

 「……おーい、春元くーん。大丈夫ですかー」

 「っは!」

 しかし俺は、心地の良い声を耳に、正気を取り戻す。どうやら俺は、つい数分前の記憶とついでに意識を失っていたようだった。

 俺は数回瞬きをし、目の前の女神にピントを戻した。

 「びっくりさせないでよ。春元君が急に手を止めたから、死んじゃったのかと思ったよ」

 「い、いえ。大丈夫……」

 俺はそう言って、自分の手元に視線を下げた。

 コンビニで貰える大きなビニール袋に、ゴム製の薄手の手袋。そして、その手には片腕ほどの長さのゴミ取り用トングが収まっており、目の前には数人の同級生が立っていた。

 学校近くの小さな公園。照りつける日差し。絶好の休日日和。

 それなのに何故……俺は現在、聖人の如くゴミ拾いなんかしているのだろうか。

 「そりゃ、相談部の活動だからね。学校の募集で十人も集まらなかったから、助けてくれってお願いされちゃったの。こういう時のために相談部があるからね」

 一切の悪気のない笑顔で、姫野はそう告げた。忘れかけていた相談部の雑用という側面を思い出す。

 「これが相談部の洗礼というやつか」

 「……いや、そんな大袈裟に言わないでよ。私が意地悪部長みたいになってしまうじゃない」

 隣にいる姫野は髪を耳に掛け直しながらそう言った。あまりの美しいワンモーションに俺は息を呑む。

 集まった生徒たちは公園の隅を歩きながら落ちているゴミを探していた。地元ならまだしも、さして思い入れもないような学校周辺の街の清掃活動なんて、あまりこういうことを言うべきではないが、どういうモチベーションで参加しているのか気になるところだ。……まぁ彼らから見たら、俺も同じように見えているのかもしれないけれど。

 「結局さ、春元君はうちの部に入ってくれるってことで良いの?」

 「ん? あぁ……」

 姫野は気を遣うように質問した。昨日の昼、俺が自主的に入部したと聞いて同様してしまったため、入部の動機を疑っているのかもしれない。何か勘違いがあって、今こうして一般的にやりたがらない活動を強制されているのであれば、彼女だって辞めさせてあげたいと思っているのだろう。

 ピロリン

 スマホが鳴る。誰かからメッセージが届いた。我が校では学校でのスマホの使用が禁止されていないため、おれは堂々とポケットから取り出し、画面を確認した。

 「喫茶店に行ってきました」という短いメッセージと、一枚の写真。差出人は鎌取だった。俺は四桁の数字を入力し画面ロックを解除すると、アプリを開き送られてきた写真を開いてみた。

 そこには、真ん中に苺の乗っかったショートケーキとコーヒー、別添えのミルクが映っていた。ケーキは白く、コーヒーは黒く、そのコントラストが素人ながら芸術性を感じさせる。壁紙にしたいくらい綺麗な一枚だった。

 「…………美味しそうだな」

 隣の姫野に聞こえない声でぼそりと呟いた。今振り向かれては、気持ちの悪い表情を見られてしまう。

 俺は頬に手を当て、ニヤついた表情筋をほぐす。そして、姫野に言った。

 「相談部に入ったのは、ちゃんと俺の意思だよ。それは嘘じゃない」

 「そう? なら良かったよ」

 俺は時間を置かず、すぐさま鎌取にメッセージを返した。「二人で同じものを頼んだんだな」と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ