絶望は黒い空から
その日はいつものように始まった。
「そもそもどうやって手紙出しますかね」
夜通し認めた手紙に蝋で封をしながら考える。街まで行けば郵便は出せるが、大陸が異なると面倒そうだ。
ウンディーナに行ってから手紙を出せば良い気がするが、そもそも副王に手紙を出して良いかすら分からない。
「……まあ、なるようになれですかね」
宛名は愛の魔女にしてあるし、差出人名もルルドにしてある。
万一検閲など受けても私が夜の魔女とバレるようなことはないはずだ。昼ごろになったら出しに行こう。
「それから……畑もやり直しですかね…」
私が家を空けていた間に畑は文字通りひっくり返されてしまい、見るも無惨なことになっていた。
「はぁ…億劫…」
面倒ごとが多過ぎて辟易としてしまう。
「おはようございます、ルルドさん」
「おはようキアリス……早いですね」
窓の外を見るがまだ夜だ。感覚的には夜明けが近いが、朝日はまだ見えそうになかった。
「夜明けの空が見たくて」
「良い趣味ですね。ああ、そういえば、睡眠が短いんでしたね」
「いえ、もうぐっすり寝れるようになりました」
「…? そうですか」
キアリスはあの一件以来少し変わった。
今の一件もそうだが、他の子供達と話すときに崩した言葉を使うようになったり、料理で協力を求めるようになっていた。
まるで……そう、限界まで張り詰めていたものが弛んだような……上手く表現できないが、そんな感じ。
「それなら、一緒に空でも見に行きますか」
私も丁度頭が疲れていたところだ、リフレッシュ休息にしよう。
◆
「いーそらですねー」
「いやー、ちょっとこわいです!」
人間の声量は空間の広さに応じて大きくなると聞いたことがある。
それならば、何もない広大な空間で大声を出すのは何も可笑しなことではないはずだ。
何もない広大な空間、つまり空に浮いているのは可笑しなことかもしれないが。
何もない自由な空で、透明な空気の板に座って地平線を眺める。
「わ、わざわざこんな位置で見なくても!」
「せっかくなら高くから見たいじゃないですか」
「空は見上げるくらいが身の丈に合ってると思うんです」
なかなかに面白いことを言う。
確かに空は見上げるくらいが丁度良いのかもしれない。
高々夜明けを見るためだけに空を飛ぶのは贅沢が過ぎるというものか。
しかし、私は魔女なのでそれくらいの贅沢は当然の権利だと思おう。
「初日の出ならまだしも、もう初春ですからねぇ…」
「初日の出ってなんですか?」
「何でもありません」
この世界には暦という概念が存在しない。
四季を基準に、春から始まり冬に終わる概念を一年と呼ぶが、明確な日付というものは存在しない。
当然ニューイヤーなど存在せず、せいぜい春の訪れを祝う祭りがある程度だ。
そんなことを考えていると東の空が僅かに白みだした。
「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…」
「それは何ですか?」
「有名な……なんですかね? 詩? いや、文学作品?」
清少納言の枕草子ということは分かるが、それ以外は分からない。
そもそもこのフレーズしか知らない。
夏は……夜だったか。秋と冬は完全に分からない。
「まあ、季節ごとの魅力を紹介しているようなものです」
「それで春は曙だと…」
「ええ。山がなんとか、雲がなんとか」
そうそう、紫だちたる雲の………なんだったか。
……良かったキアリスが日本人じゃなくて。
古文が致命的なことがバレるところだった。
「私は曙の空より今のこの空が好きです」
「…この状況をあけぼのと呼ぶのではないのですか?」
「曙とはもう少し赤い空のことです。今は東雲。夜明けの僅かな時間だけ見られる白い空です」
「東雲…聞いたことある言葉ですね」
むしろ聞いたことしかない言葉だ。
「良くそんな言葉知っていますね」
「空は小さい頃から憧れのものだったので」
「なるほど…」
そういえば、キアリスが生まれ育ったインベルは常雨の国だった。
インベルでは灰色以外の空は存在しない。
だからこそ、憧れるのだ。
確かに存在し、しかし見たことがないからこそ憧れる。
「私はこの白い空が好きなんです」
「そうですか」
そういえば、キアリスの好きなものを聞いたのは初めてかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
キアリスは変わった。
少しだけ大人になって、少しだけ子供になった。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、今のキアリスは前よりも話しやすくなったように思える。
「二人だけでこの空を見たことはロベルトやアイリには秘密ですよ」
「はい。アイリなんて地団駄踏みそうです」
「あり得ますね」
アイリにはもう少し大人になった方が良い。これは間違いないと思う。
この日、夜明けは白い空から始まることを知った。
そしてこの日、絶望は黒い空から始まることを知った。