狐のお面と参拝者
とある晴れた日のお昼前、新緑に包まれた神社を詣でる一人の男がいた。勝手知ったると言うように、雑草だらけの参道を抜け、水の枯れた手水舎を通り過ぎ、人の居ない小さな社務所の前を通っていく。
「ここも随分寂れているな…子供の時分はもう少し鳥居も鮮やかだったと思うんだが。屋根に雑草が………あぁ、神楽の面も落ちてしまっているじゃないか……」
少し寂しそうに男は呟くと、舞殿の隅に落ちている狐の面を手に取った。
「珍しいな。坊、帰ってきたのか」
「は…?」
驚いて見回すも、辺りはしんとしており人っ子、いや、野生動物一匹姿を見せそうにはない。
「誰かいるんですか?」
誰にも告げずに帰ってきたはずだったのに……なぜ、滅多に人の来ないはずのここに人が居るのだろう。警戒感顕に声を出すと、目の前、もっと言うと、舞殿の床の方から再び声がかけられた。
「ここだ。坊、狐面だ」
まさに男が手に持つ狐の面から、声がするように感じる。
「…………後ろにマイクでも仕込んで…ない。いや、まだ細工のしようは……」
クルクルとひっくり返してみても、昔に使ったままの、古びた神楽の狐面にしか見えない。
「なんとでも思えばよいが、そろそろ回すのを止めてはくれまいか?いくらなんでも目が回ってしまう」
しばらく回したり、擦ったりしていると、そんな声をかけられた。……まぁ田舎の片隅の忘れ去られたような神社だ。不思議なことの一つや二つ、起きるのかもしれない。男はひとまず喋るお面を受け入れることにした。
「ありがとう。ところで坊は時間はあるか?久しぶりの参拝者なんだ。少し、話をしていかないか?………無論、怖いと思うならば狐面なぞ放り出して帰っても良いのだぞ」
時間と怖さの話を出し、わざと断る理由を作る様な物言いに、男は微塵も怖さを覚えなかった。寧ろ、懐かしいような温かい気持ちになる。
「はぁ…怖いはずがないだろう?いいさ、少しなら話に付き合うよ。と言っても、他にも行きたい場所もあるし、あまり長居はできないけれど」
応えると、狐の面はけほけほと、のどかな笑い声を出した。
「重畳重畳。狐面のわがままだ。少しだろうと付き合ってくれるだけで有難い。坊はいつまでも素直でいい子だなぁ」
「…やめてくれ」
急に、男の纏う空気がピリリと凍えつく。
「…すまない。”いい子”という言葉はあまり良い思い出がないんだ」
男はハッとしたように空気を緩めると、言いずらそうに口に出した。
「それはすまなかった。そうさなぁ、従順な者という意のいい子はという言葉は、人を縛り、縮こまらせ、異を唱えぬ人形に変えるものかもしれん。」
「あぁ、そうだった。意に沿わなくなった子供を、その言葉で大人は縛ろうとした。」
「……そうか。例え自らの経験からの善意であろうとも、意見を聞き届けぬ言葉は、唯々辛いな…。」
「親に、周りに、人に従うだけの何もできない奴になれと言われているようで怖かった。そういわれているうちに、本当にそうなってしまいそうで……だからここから逃げ出したんだ」
誰かに聞いてもらいたかったのか、見ず知らずのお面相手だからか、男は訥々と語った。その顔は後悔と苦渋に塗り固められている。
「いい子でありたくなくて逃げ出した、か...ふむ。では、なぜ戻ってきた?……逃げたのなら、戻ってはこまい。」
不思議と、穴の空いた瞳にじっと見つめられている気分に男はなった。さざ波だっていた心が、静かに凪いでいく。
「それは……、今、向こうで小さな劇団に所属していて、そこで今度貰えた役が、ここでの出来事に重なったから…。」
その言葉を聞くと、狐面はまたけほけほと笑った。
「坊、向かった先で夢をかなえたのだな。まずはおめでとう。それからな、坊は逃げてなどいまい。立ち向かうに相応しい場所を選んだのだ。その証拠に今も、辛い思い出の場所でも糧となるものを求めて訪れているではないか」
思わぬことを言われて、男は目を見開いた。このお面は自分を知っている?いやその前に、自分が辛さに立ち向かえていると言うのだろうか?
「坊は、何事にもひたむきに、一途に取り組める者だ。それは共に悪戯野狐の練習をし、初舞台に立った狐面が知っている坊の美点だ。何事もなせぬ人形などでは決してない」
今まで思い出さない様にしていた故郷での記憶、その一番そこにあった、神楽を舞い踊った記憶が一気に蘇った。
村の子ども全員が踊りか楽器をしなければならなかった神楽神事。その年、男は村を困らせる野狐の役に当たってしまった。狐の面は怖いし、踊りも言葉も半分も理解できない。なにより大勢の注目を集めた中、何かをするのは苦手なのに…。せめて失敗しないように、練習しよう。踊りを教えてくれる方のいる公民館で、人気のない神社の片隅で、時々、登ってはいけないと言われていた本番の舞殿に登って、来る日も来る日も練習した。
そうして、神事の日、無事彼は野狐の役をやり遂げた。怖かった人の目が、自分を見て、褒めたたえてくれていることが嬉しかった。
最初に、もっと演じてみたいと思った記憶だった。
「………そう、だろうか。」
未だに信じきれない男に、狐面はいっそう微笑ましそうに声をかける。
「そうだとも。そしてな、やはり狐面は坊を、優しい、人を慮れる、いい子だと思うぞ。今も、全て納得はしずとも理解しようと努めている。坊は優しい、いい子だよ」
「………ありがとう。少なくとも、狐面が言うその言葉は、不思議と嫌な感じがしない」
男は、照れくさそうに笑った。
「そうか。きっと他の者の言葉でも、温かい言葉だと思える日が来るさ。」
「嗚呼、そうだといいな。」
動かぬはずの狐面が、眉を下げて男と似た顔で笑ったような気がした。
「…すまんな、話し込んでしまった。行くところがあると言っていたか。すまないが帰る前に狐面をもとの場所に掛けてはくれないか?こればかりは狐面自身ではどうにもできぬ」
「ああ。こっちこそ話を聞いてくれてありがとう。少し、胸のつかえがとれた気がするよ」
男は狐面を社の壁に掛けた。そうして本殿を参り、帰りに再び狐面を手に取ってみたが、もう狐面が語り掛けてくることはなかった。
南の空高くからさす光が、社に優しい木漏れ日を届けていた。