「無謀なドライブ」
写真好きな友人は、日本各地に出掛けるくせして、車を運転出来ない。そこで、何処か撮影に行きたくなると必ず僕に声をかけて誘ってくる。
いつもなら上手く交わす僕だがこの時は一時の気の迷いからか、つい誘いに載ってしまった。余りにも欲張りな訪問先に最初は閉口した僕も、何故か「やってやろう」という気持ちになってしまった。若気の至りの行動の顛末の物語であります。
或年の初夏の事であります。
平日に休みをとり、カメラマンの友人と伴に日帰りで山に向かう事になった。色々な場所を回って写真を撮りまくりたい友人は残念な事に車の免許が無いので、僕の事を巧みに誘って足代わりとして使いたいらしいが、僕にはそんな魂胆は見え見えである。僕としてはまあ、友人の欲張りな願望を一度は叶えてやろうかなといったボランティア的な気持ちでOKしたものの、その願いとは大分無謀な行程であった。明朝4時の出発を約束はしたが、恐らくは全ては回れないだろうと考えていた。とりあえず今夜は早寝をして体調の準備だけは整えておこうと、早々にベッドに潜り込んだ。
午前4時前、愛車の青いホンダに乗り込んで、神奈川の海沿いにある自宅を出発した。途中、友達をピックアップすると、車に乗り込むなり大きな欠伸をしてから、「眠い!」と抜かした。いったい全体、誰の我儘でこんな早朝に付き合っているのかと言い返したいが、余りにも飄々と居眠りを始めた友人に呆れ返って、僕はやれやれと諦め笑顔になるしかなかった。気持ちを切り替えてハンドルをしっかりと握り締め、まずは中央高速を目指し、八王子へと向かう。走りは順調、高速に入ると更に車を快適に飛ばした。途中で夜が開けてきて、見渡す限りではどうやら「天気は快晴」のようである。そして…
午前7時半。僕達は長野県の霧ヶ峰にいた。朝霧が辺りを覆い尽くし、ひんやりとした空気が漂う中に、ニッコーキスゲが咲き乱れ、幻想的な風景が目の前に拡がっている。友人は、夢中でシャッタを切っていた。僕は一人只、その場所に佇んで花に包まれる心地よさを感じていた。ぼくにはかなり長い時間に感じたが、友人は此処での撮影に満足したのか、少し興奮した声で次に行きたい場所をリクエストしてくる。僕達は再び車に乗り込み少しだけ走らせて「八島ヶ原湿原」へと移動した。次の目当ては此処の湖畔に咲くチングルマの様だ。彼は手際よくパッパと何枚かの写真を撮ると、未だ景色に見入っている僕を、「次に行く」と急かした。次はビーナスラインの終点にある「美ヶ原高原」に行きたいと言う。午前中にその眼前に拡がる北アルプスの山々を撮りたいらしい。僕は「ハイハイ」と空返事しながら早足で車へと戻り、再び車を走らせた。
美ヶ原への道は「ビーナス」とは名ばかりで、途中から道幅は狭くなりアップダウンやカーブの連続。舗装も儘ならない悪路の場所もあり、タイヤはキイキイと鳴いた。これでよく高い料金が取れるものだと思っていた。
(→注 この当時はビーナスラインは有料道路だったが、現在は無料)
スピードを余り落とさずに何とか速めに美ヶ原高原へと辿り着いた。駐車場の目前には立派な美術館もあるが、そんなものには全く目もくれず、車が停車するな否や車を飛び降り、王ヶ頭へと続く道を猛ダッシュで駆けて行ってしまった。僕は「やれやれ」と深いため息をついてから、ゆっくりとそのあとを歩いて追っていった。高原を流れる風は、草の香りがしていた。
「王ヶ頭」は本来ならそこは日本百名山の山頂であり、登山で来る場所である。山頂近くまでの道路が開通したことで、普通に来ることが可能になった。牧場の脇を進んでゆくと、のんびりとした牛の仕草が、時を忘れさせてくれそうだ。その道沿いからも対岸の遠い視線の先には、まだ雪の残る北アルプスの峰々が、綺麗に見える。青い空とのスカイラインが見事だ。そのなかに、憧れの槍ヶ岳もくっきりと見える。僕も持参したインスタントカメラを取り出してシャッタをきってみた。まもなく先行する彼に追い付き、僕は彼の撮影の間、道端の草の上へと腰を降ろして大きな欠伸をしながら静かに景色を見つめた。吸い込む空気が清々しく美味しい。持参してきた缶コーヒーのプルタブを開けると、普段はさほど気にかけないコーヒーの香りが風に載って辺りを包んだ。その匂いに気が付いたのか、彼はカメラの手を止め、その手を伸ばし、僕の手から缶を取り上げてゴクリと飲んだ。本当は、目前にあるリゾートホテルのカフェでゆっくりとしたい気分だが、今日は諦めだな。彼は、遠くに見えてる峰を指差して、「あの山の麓に行きたいんだ」と、強く言った。僕は只、黙ったまま頷き車へと戻り、高原を下り始めた。
愛車のホンダは松本を越え、新島々駅前を通り過ぎ、奈川渡ダムを渡った。次に目指すは上高地だ。中ノ湯前を右へと曲がると、狭くて長い釜トンネルの入り口である。此処で片側交互通行の為、10分程待たされる事となった。
(→注 この当時は、平日ならマイカーでも上高地へと入れた。また、道も交互通行であったが、近年になり道が拡張されそれは無くなったが、通年、低公害バスとタクシーしか通行出来なくなった。)
信号が青に変わりトンネルの中を進む。トンネル内は素堀のままの所もあり、道はかなり悪路だったが、そこを抜けるとまるで別天地に変わった。それからまもなく大正池が見えてきて、池の淵の駐車スペースに一旦車を停めて降りてみた。池の中の立ち枯れの木と、焼岳とのコントラストは、静寂そのもので、古の噴火の歴史を思わせるに充分な威圧感すらあった。
急ぎ車を再発進させる。途中の車窓から、赤い屋根の帝国ホテルが見えてきた。此処でコーヒーと、ケーキが…と頭を一瞬かすめるが、今は許されない。時間があれば、と見過ごす。
まもなく上高地のターミナルに到着した。車が停まると空かさず彼は性急に飛び出して行った。そんなにしなくても、上高地の景色は逃げないのにと僕は思うが、写真の世界は、一瞬を捕らえるのが勝負なのだからまあ仕方ないか。僕は車をきっちりと駐車したあと、どうせあいつは穂高を撮っているのだろうとゆっくりと歩いて河童橋へと向かった。白樺の樹林の道を抜けていく。木洩れ日がキラキラと輝いて美しい。やがて水のせせらぎの音が聴こえてきて梓川の淵へと出た。そこからは大混雑する河童橋と、その後方に鎮座する穂高連峰の山が見えた。これ程雄大な山容を間近で見たことが有ろうか?。僕はただ、景色に圧倒されて暫しその場に立ち竦んでいた。川沿はカメラを構える人やキャンパスを広げて作画に没頭している人達が大勢いたが、その中に三脚を立てて構える彼の姿も有り、僕はそっと近付いて彼に話し掛けた。彼はカメラから眼を離さないままでこう言った。
「今日は最高の1日だ!。今度はもっとゆっくり来たい」
その言葉が、せっかちな彼には余りにも似合わないので、僕は思わずクスッと笑ってしまった。
その帰り、僕のたっての希望で帝国ホテルに寄り、カフェラウンジのソファーにゆったりと座りコーヒーとケーキを注文していた。もちろん、彼の奢りである。上品で、芳醇な香りに包まれ、ほっとして心が和んでいた。彼の我儘も終わり、この後はどうしたものか考えていた。身体は疲れているけど、テンションは高い。帰宅はどうせ真夜中だ。こうなったらこの先は俺の我儘の番。とことん出来ることをやり尽くして、無謀な旅にしてやろうと心に決めていた。これから何処に立ち寄ろうか?季節が良かったら山菜天麩羅の美味しい蕎麦屋も有るんだが、旬じゃ無い。或いは山梨県の一宮辺りで、桃や葡萄をお土産に、もシーズンじゃない。勝沼の「ぶどうの丘」で、美味しいワインを仕入れて行くのもひとつの手だが、それは新酒の出る11月にとって置こう。
そうだ!!。途中で高速を降りて、以前立ち寄った事がある清里の「ROCK」に寄ろう。あそこの辛いカレーと、エスプレッソなら、帰りの眠気を醒ましてくれるだろう。と、思いを馳せながらこんな無謀な日帰りのドライブなんて、二度とこの先することは無いし、また、したくも無い筈なのに、何故か恍惚の快感に浸る自分に僕は気付かずにいた。
如何でしたか?
実際には本当のシチュエーションは、少しだけ違うのですが、3つの実体験のエピソードが基になっています。その後、2度と行かないつもりだった無謀なドライブには、度々出掛けることになりました。紅葉の季節等に。
今はマイカーを持たないのでドライブ等行ってはいませんが、また、チャンスが有れば自分の視力の確かなうちに出掛けたいと思っています。