表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

人魚三部作

人魚の花嫁

作者: あんぐ

※この作品には、残酷な表現、具体的にはカニバリズム(人肉を食す習慣のこと)に該当するような表現が含まれています。また作中、津波を示唆する表現が出てきます。苦手な方、御不快に感じる可能性のある方は、読むことを避けていただくか、予めご了承の上読み進めていただきますよう、お願いいたします。

 今は昔、お殿様がまだそこら中にいたような時代、貧しい漁村にちっぽけな女の子がおりました。おっかさんはとうの昔に亡くなって、おっとさんはと言えば飲兵衛のどうしようもない奴で、ちっとでも魚が獲れたなら、あっという間にお酒に替えてしまうのでした。おかげで女の子はいっつもお腹を空かせておりました。そればかりかおっとさんはお酒を呑むと毎度毎度女の子を殴りましたので、それはもう可哀そうなくらい女の子は身体中痣だらけでした。ですがそんな不幸な子、その時代にはたっくさんおりましたから、村人も誰も女の子を哀れんだりしませんでした。

 そんなある日のこと、そこいらを流行り病が襲いました。貧しい漁村でもたくさんの人が死に、とうとうあのどうしようもないおっとさんまでもがポックリ逝ってしまいました。確かにそれはそれは非道いおっとさんでしたが、女の子にとってはたった一人きりの家族です。本来ならば哀しみの涙も出たでしょう。しかし女の子はとっても腹ペコで、それどころではありませんでした。

 おっとさんが静かに目を閉じたあくる朝、女の子は村から追ん出されました。村人たちには自分の子でもない女の子を養う余裕はありません。それどころか自分の子どもでさえ食わせることができずにどこか遠くへ売っ払ってしまった者もいました。それに、村人たちは恐ろしかったのです。ずっと病人の側に付き添っていた女の子から病がうつるのではないかと恐れていたのです。

 女の子の方でもおっとさんがいなくなってしまったなら村にいる必要はありません。むしろどうしようもなかったろくでなしのおっとさんのせいで、普段から女の子は村人に睨まれ、女の子は村人を恐れていました。

 とは言え、村をおん出され一人ぼっちで海岸伝いを歩いていく間、女の子はひもじくてひもじくて、どうにもなりません。亀よりものろいその歩みで、足を引き摺り引き摺り、行く当てもなく前に進むだけでした。

 とうとうその足が止まった時、女の子は冷たい砂浜にそのちっさな頭を横たえました。お腹はぐうぐう鳴り、足は火照って痛みと疲れがずきずき脈打ちます。波の音は規則正しく、ザザァン、ザザァンと打ち寄せて……。女の子の目蓋は重く、その手は砂浜を掴んでいました。ただの砂でもお腹の足しにはなるかもしれません。

 その時、女の子は何か美しいものを海に見たような気がしました。女の子はなんとかして、全身の力を目蓋にまわして、重たいそれを持ち上げました。そこにいたのは、世にも美しい男の人でした。

「空腹なのか?」

その声もまたこの上なく美しい響きでしたが、女の子は全くそんなことに気付かず、ただ力なく頷きました。

「おっとさん……ぶたないで……。」

女の子は目の前の美しい男の人が死んでしまったおっとさんでないことくらい、わかっていました。しかしそう言わなければ、ご飯はもらえないと思っていたのです。

「おお、おお、可哀相に。だが私にできることは……。」

男は目を伏せ、しばらく考え込み、それからその澄んだ黒い瞳で女の子を見つめると、ふいに胸に手を当てました。女の子にその動作は見えていません。再び目蓋は鉛のように重くなり、今にも閉じようとしていました。

「大きくなってから、私の嫁となるか?」

女の子の頭が微かに上下しました。お腹が膨れるのならば何でも構いません。

 男は女の子の返事を見て取ると、胸に当てていた爪をずぶりと突き刺しました。世にも奇妙なことに、そのまま爪は男の皮膚を破り肉を通り、そして心臓を掴みました。男の美しい顔は苦痛で歪みましたが、当然流れるはずの赤い血は全く流れません。男が心臓を掴んだ手を引き抜くと、男の胸は何事もなかったのかのように、以前と変わらぬ美しく平らな様相を呈していました。

「さあこれをお食べ。食べれば全身の傷は癒され、二度と飢えることはないだろう。」

女の子は血の滴る心臓を口元に差し出されました。その血の臭いは凄まじく、女の子の目蓋を無理矢理こじ開けさせるほどです。女の子はとってもお腹が空いているには違いないのですが、その凄まじい臭いを放つ心臓を口にするのばかりは躊躇われました。それでもやはりお腹はぐうぐう鳴っていましたので、女の子は一口それを齧りました。

 苦い味が口中に広がります。女の子はそれを何とか胃のほうに押しやると、もう一口、食べました。そしてもう一口――。

 一口食べるごとに、女の子はお腹が満たされていくのを感じました。心臓の臭いと苦さは強烈でしたが、一口、また一口食べるごとに、女の子のお腹は満たされ、そればかりか生まれてこの方絶えることのなかった痣も消えていきました。

 最後の一口を飲み込むと、女の子は生まれて初めてお腹いっぱいになりました。砂浜に倒れていたのがいつの間にか立ち上がれるほどです。女の子が心臓を食べている間に、いつの間にか海の中へ佇んでいた男が口を開きました。

「お前は美しく育つだろう。その美しさは老いることがない。心臓が傷つかぬ限り怪我も病気もすることはないだろう。だが代わりに、死ぬことさえも許されぬ。心臓を貫かれてもそれだけは変わらない。

十六の誕生日、その日に私は迎えにゆこう。それまでは陸で暮らしていなさい。きっと迎えにゆくから、じっと待っているんだよ。さようなら、私の愛しい花嫁。」

そう男は言葉を残すと、ざぶんと海へ潜ってゆきました。男が消えたその瞬間、女の子は気がつきました。男は人魚でした。きらきら輝く鈍色の鱗と鰭が、最後の瞬間海上に翻ったのです。女の子は人魚に命を助けられたのでした。


 女の子は歩き続けました。海伝いを何日も何日も、歩き続けました。以前のようにお腹が空くこともなければ足が疲れることもありません。夢を欲して眠る時以外はずっとずっと歩き続けました。そうして歩き続ける内に大きな港町に辿り着いたのです。お殿様のいる都から程近く、様々な船が集まり異国の品が行き交う大きな大きな町で、飢えなどとは無関係の場所でした。

 女の子の身なりはボロボロでした。人魚の心臓を喰らって体は健康そのもの、肌も肌理細やかで美しいのですが、湯浴みも水浴びもせずずっとおんなじ衣服のままでしたので、乞食よりも酷い姿でした。

 その姿が却ってよかったのでしょう。女の子は役人や商人に見咎められるよりも先に、老いた夫婦の目に止まりました。旦那はかつて父親から受け継いだ商売で父親以上にとってもお金持ちになったのですが、今は引退して妻と悠々自適な暮らしを営んでおりました。

お金で手に入れられる物は大概手に入れられる二人にとって何よりも欲しいのは、子供でした。妻は石女ではありませんでしたが、かつて産んだ唯一の女の子は七つになろうという歳に流行病にかかって死んでしまいました。以来子宝に恵まれることなく、夫婦は歳を重ねてきたのです。

 そんな夫婦が女の子を見つけた時、そのまま見過ごしてはおけませんでした。女の子の背丈は丁度死んでしまった娘と同じくらいで、老婆は思わず涙を浮かべました。

「おっとさんやおっかさんはいないのかえ?」

思わず屈んで、女の子に尋ねていました。女の子は首を振って「おっとさんこの前死んだ。おっかさんは知らない。」と答えました。老婆の目に再び涙が浮かびます。「よければわしらの娘にならんかえ?」「――うん。」

 こうして女の子は老夫婦の娘となったのでした。


 女の子を家に連れ帰り湯に浸し、体の垢を落として綺麗な衣服(べべ)を与えてやると、見違える程に可愛らしい娘ができあがりました。老夫婦は女の子を目に入れても痛くない程可愛がり、大切に大切に育てました。

 女の子はやがて美しい少女へと成長し、その美しさは瞬く間に評判となりました。その評判は港町から程近い、お殿様のいる都にも届きました。そして都からお城へと噂は上り、やがてお殿様の耳へも伝えられたのでした。

 「それは如何程の美しさなのか?」

「飛ぶ鳥が彼の姫を目にすると、驚いて羽ばたくことも忘れ、遂には落ちてしまうそうにございます。」

「ほう、それは一度目にしてみたいものよのう。」

「は。」

そんな会話がお城でなされていたとは露知らず、少女はかつて交わした人魚との約束を心待ちに、港町で静かに暮らしておりました。

 少女は老夫婦のお屋敷で庭を眺めておりました。老夫婦は娘を可愛がるあまり外に出すことは殆どありません。少女はそれでも満足でした。自分に与えられた見事な庭の向こうに、海が見えればそれでよかったのです。十六の誕生日に現われるであろう彼の人魚の住まう、大きな大きな海原が見えさえすれば、それで満足でした。

 娘の美しさを聞いて求婚者は山と押し寄せましたが、老夫婦の眼鏡に適う者は未だ現れておりませんでした。おかげで少女は求婚者に煩わされることなく、穏やかな日々を過ごしていたのです。

 そんなある日、老夫婦に客人が訪れました。その人は旦那の昔からの友人で、少女も何度か言葉を交わしたことがありました。

 客人は連れを一人伴っていました。連れの男は簡素でありながらも値の張る生地の着物に身を包み、客人曰く都からやってきた友人だとのことでした。

 庭を眺めていた娘は金糸・銀糸で刺繍の施された朱色の地の豪奢な着物を纏い、姫と呼ぶに相応しい身形でした。男は娘を一目見るなり言いました。

「或る人が貴女の美しさを飛ぶ鳥が驚いて落ちるばかりと言っておりましたが、いやはや、なんともお美しい方だ。私は貴女以上に美しい方を見たことがない。」

真実心の底から出た男の言葉に、姫は曖昧に微笑みました。

「ありがとうございます。しかし私は本当にこの世で一番美しいものを存じております。」

「ほう、それは?」

男は興味津々といった様子で、しかし内心この姫以上に美しいものなどありはしないと思いながら耳を傾けました。少女は今度は確かに微笑みながら答えました。

「人魚です。」

男は軽く笑いました。それは少女の言葉を信じたからではなく、子供のようなことを言う姫を可愛らしく思ったからでした。

「人魚をご覧になったことがあるのですか?」

「ええ、この町に着く前に私を救ってくださいました。私は貧しい漁村の生まれで、実の父が死にますと村を追い出されたのです。それはそれは酷い飢えが私を襲いました。そんな時海に、仏様のように輝く男の人を見たのです。今でもあの光は忘れられません。彼は飢えて今にも死にそうな私に、自らの心臓を与えてくれました。そして私が十六になったならば、きっと迎えに来ようと約束したのです。」

「しかしここは陸の上、人魚に足でも生えなければ、迎えには来れますまい。」

すると少女はにっこり微笑みました。

「ですから十六の誕生日、私はあの海へ参るつもりです。そうしなければならないのです。」

その日が待ち遠しい、と言わんばかりの少女に、男は笑いました。

「なればなれば、あなたが陸で一生を共に過ごしたいと願う人ができたらいかがするのです?あなたはきっと海には行きますまい。さすれば人魚も迎えには来れませんでしょう。」

少女は大層驚いて、目を丸くしました。

「そんなことはありません。確かに私を育てて下さったお父様やお母様と別れるのは辛いですが、今ここに私があるのはあの美しい人魚のおかげなのです。私は何があろうともあの人の下に必ず参ります。」

「おお姫よ、お父様やお母様だけではありません。この私も、あなたがいなくなれば大層悲しく思いますぞ。どうかどうか、私のために陸に残ってくださいませんか。何を隠そう、私はそこな都の城主なのですよ。私の妻になってくださるならば、あなたのお父様もお母様も大切にいたします。何よりあなたに何一つ不自由はさせません。」

少女の目が、ますます丸くなりました。御殿様の話は知っていましたが、まさか目の前にいる男の人がそうだとは露ほども知らなかったのです。

 しかし驚きが収まると、少女はすぐに返事をしました。

「申し訳ありません。お話しましたように、私は海へ行かねばならないのです。」

しかし御殿様は笑いました。

「……わかりました。しつこい男は嫌われると言いますし、今日のところは引きましょう。しかしよくよく考えてみてください。私はあなたを愛しております。これほど深い愛をあなたに捧げられる者は、他に人魚と言えどもおりませんでしょう。」

それだけ言うと男は立ち上がり、友人と共に家を出てゆきました。

 後日お城から、正式に求婚の使いが参りますと、老夫婦は大層喜びました。二人の財産は豊かと言えども、所詮は商人の身分、娘が、しかも養い子が御殿様の正室に選ばれるなんて、よっぽどの幸運でもなければないはずのことなのです。

 しかし、その肝心の娘は嫌がりました。

「お父様、お母様、私は海へ行かねばならないのです。御殿様とは結婚できません。」

「おおお前、なんと馬鹿なことを。人魚なんているわけないだろう。」

「でも今ここに私が生きていることが何よりの証。かつて私は、村を追い出されて今にも死にそうな時に、人魚の殿方に心臓を頂き、こうして生き永らえることができたのです。」

「おお、例えその話がもし本当だったとしても、お前は御殿様に嫁がなければならない。きっとお前を助けてくれた人魚もそれを望んでいるはずだ。」

「いいえ、そんなことはありません。私の身体には、彼から与えられた彼の心臓があるのです。私は如何様にしても、あの方との約束を守らねばならないのです。」

老夫婦がいくら説得しようとも、娘は首を縦にはふりませんでした。

 そうしている間に、催促だけでは飽き足らず、御殿様自ら、もう一度姫の前に姿を現しました。

「おお姫よ、何が不満だというのです?我が城に参れば、何一つ不自由はいたしませんのに。」

「御殿様、私は前にも仰ったように、海にゆかねばならないのです。約束を守らねばならないのです。」

娘は、前にそう言って引きさがってくれたように、今回も御殿様が引きさがってくれることを期待しました。しかし散々待たされた殿様は、もうそれ以上待つことなどできようはずもありませんでした。

「えぇい、とんだ頑固者め!しばらく城で暮らせば考えも変わろう。連れて参るぞ!」

「嫌ですっ!おやめくださいませっ!」

しかし娘の抵抗空しく、娘は城へと連れて行かれました。

 城に連れて行かれた娘は、嫌だ嫌だと訴え続け、ことあるごとに城からの脱走を試みました。初めのうちは、馬鹿な娘よ、殿に習い嘲るばかりの家臣たちでしたが、あまりに度重なる娘の行動に、果ては叛逆罪にあたると言いだしたり、娘を気ちがいだと言いだす者まで出てくる始末。皆口々に、はばかりながら申し上げます、あのような娘との結婚はおやめなさいませ、と進言いたしました。

 殿は殿で、一向に自分に心を開いてくれない娘に、既に業腹を煮やしていました。そして或る日、娘がやはりまた脱走を試みて捕らえられると、殿は取り押さえられた娘を見下ろしながら言いました。

「それほど余と婚姻を結ぶのが嫌か?」

「私の伴侶となるは唯一人、海に住まう人魚のみでございます。」

殿は娘の美しい顔を蹴りあげました。娘の顔から、血が流れました。……しかしそれは、すぐに止まり、何事もなかったかのように傷口が塞がったのです。

 見ていた人々は恐れ慄きました。

「――化け物めっ!!」

殿が、さらに二発、三発、四発と、蹴りあげます。しかし一瞬できた傷跡は、すぐに妖術か何かを使っているかのように、綺麗に消えてゆきます。

 とうとう殿は、刀を抜きました。そして取り押さえられ何一つ抵抗などしていない娘の四肢を切断し、何度も何度も切り刻みました。切り刻まれる度に、娘は悲鳴をあげましたが、やがてそれも途絶えました。それでもなお、殿はその手を止めませんでした。

 娘の身体が変わり果て、もはや誰だったのかもわからぬほどになってやっと、殿はその手を止めました。

「養い親ともども曝しものにせよ。」

「はっ!」

直ちに老夫婦もひっ捕らえられ、哀れな娘の残骸と共に、広場に曝されました。もはや化け物と呼ばれることになった娘の残骸に、もはやぴくりとも動かないというのに、礫が投げつけられます。

 と、その時、空が真っ黒になりました。礫を投げていた人々は驚き見上げました。

 それは、有り得ない光景でした。海は遥か遠く離れているというのに、城よりも大きな波が、すぐそこまで迫っていました。

 人々が逃げる間もなく、波は都を襲い、城を襲いました。

 あっという間のことでした。

 その時、もし息のある者がいたら、この世のものと思えない、美しい声音を聞いたことでしょう。

「おお、可哀想に、可哀想に……。お前は声もあげられぬだろうが、痛くて仕方があるまい。今、救ってあげよう。」

人魚はそう言うと、波にさらわせた娘の身体を、一つ残らず喰らいました。

 そう、その日は娘の十六の誕生日でした。人魚は約束通り、娘を迎えにきたのです。

 人魚は波にのまれた陸地を見向きもせず、娘をすべて喰らうと、涙を一筋流して、銀の尾を翻しました。後には、波に攫われた都の残骸のみが、無残に残されていました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ