黒い手(4)
『手』を退治した日の夜。お店にクリスさんがやってきた。
「……………よぅ」
クリスさんはいつものように眠たそうな声を掛けてくれた。
細身の真っ黒なスーツ、気怠そうにスラックスのポケットに両手を深く入れて猫背で歩く。
目深に被った黒い帽子のせいでその表情は判然としない。
夢遊病のようなゆっくりとした覚束無い足取りでクリスさんは、いつものカウンター席ではなく、何故か一番奥のイミナさんのテーブルの対面に腰掛けた。
店内には私と、エレナさん。
奥のテーブルに無言で足を組んで座るクリスさんと、それを無視するように完成したプラモをうっとりしながら眺めるイミナさん。
それからイミナさん達のテーブルから一番近いカウンター席にバーサさんが座っていた。
今日も『リリー・ローズ』はガラガラだった。
「……………昼に、アリスが世話になったらしいな」
プラモに夢中なイミナさんにクリスさんがのっそりと話し掛けた。
「はぁ? なんだって?」
イミナさんがプラモ鑑賞を邪魔されて不機嫌そうに聞き返した。
その態度があんまりだったので、私が勇気を振り絞ってクリスさんに事の顛末を説明しようとすると。
「あぁ……別にいいさ。アリスから一応は聞いている。ありがとう」
先んじてクリスさんに制された。
しかも微笑みながら(私にはそう見えた)お礼まで言われた!
顔が赤くなっているのを自覚しながら私はカウンター裏で小さくなった。
「で……だ。アリスから猫がどうなるのかだけ聞いておけと言われたんだが」
「猫又んことならバーサに聞けよ。俺は知らん」
そう言うとイミナさんはカウンター席のバーサさんの方を顎で差した。
………元々はイミナさんが受けた仕事を私にやらせて、あまつさえその後始末を客にやらせるなんて。
イミナさんと何年も付き合ってきた私ですら思わず気が遠くなりそうだ。
「……あんたがバーサ、か?」
「えぇ、初めまして。あなたがクリスさんね? エレナさんから噂は聞いているわ」
バーサさんが名乗ると一瞬クリスさんから不穏な気配を感じたがすぐに気怠そうなクリスさんに戻り、よろしくと挨拶した。
「それで、あの黒猫ちゃんの話だったわよね? 大丈夫よ。あの黒猫ちゃんにはもう悪さはしないようにきつく言っておいたから」
バーサさんはにこにこと笑顔でクリスさんに答えた。
きつく言ったと言っても『めっ』としか言ってなかったような気がするが……。
「きつく……言った? まさか注意しただけで放置したのか? そいつがどの程度の化け物かは知らんが……口で言った程度で解決すると思っているのか」
クリスさんがそう言うと、それまで半身の姿勢で話していたバーサさんがくるりとクリスさんに対した。
カウンターに背を向ける形になり、私からはバーサさんの表情が見えなくなる。
「私の可愛い子供を、化け物と呼びましたか?」
それまで足を組んで腰掛けていたクリスさんは突然慌てた様子で立ち上がり両手を背後に回した―――。
「おい」
ところで、イミナさんが声を出した。
普段の他人を小馬鹿にしたような声でなく、それは殺気を押し殺したような低い声だった。
驚いた私は思わず磨いていたグラスを落として割ってしまった。
バーサさんとクリスさんはイミナさんの方を見ている。
イミナさんの視線は変わらずプラモに注がれているが、先程までと違って口元が笑っていない。
凍り付いたような店内に唯一、何食わぬ顔でエレナさんが割れたグラスを片付ける音だけが響いた。
「………すまん」
「いえ、私も失礼しました」
クリスさんとバーサさんが謝ってどうやらこの場は収まったらしい。
エレナさんは本当に肝の据わった人だ。
しかしこれでまた私のお小遣いは減らされてしまう。とほほ。
「さっきあんた……『私の子供』って言ったな? あれはどういう意味だ?」
「言葉通りの意味ですよ」
「………あんた猫なのか?」
「そう見えますか?」
「いや…………」
まだ完全に警戒を解いていない様子のクリスさんに対してバーサさんはくすくすと笑いながら答えていく。
傍で聞いている私からしてもまるで狐につままれたような問答に聞こえる。
「で、でも。もうあのでぶ猫が悪さはしないってバーサさんが保証してくれるんですよね? だったらもう心配いらないのではないのでしょうか」
つい私も口を挟んでしまう。
バーサさんは謎の多い人だけれど、少なくとも私は信用できる人だと思う。根拠は無いけれど。
「……………」
「あら。カンナちゃんは良い子ね。でもあまり簡単に他人を信じてはダメよ?」
「あ、はい」
クリスさんが黙ってしまった。
私は慌てて何か話題を探した。
「そ……! そういえばバーサさんはまだ暫く日本に? 今回はいつまで滞在されるんですか?」
場当たり的に言葉を紡ぐ私をバーサさんは微笑えみながら見ていた。
「そうねぇ。用事も終わったしそろそろ戻ろうかしら」
「あ、そうなんですか」
「ふふ。また来年か再来年には遊びに来るから心配しないでね。今度来るときにはカンナちゃんは素敵なレディになっているかしら?」
「うっ………が、頑張ります」
そうして暫く取り留めのない会話をして、バーサさんは帰っていった。
閉店の時間になった頃、クリスさんがのっそりと立ち上がった。
エレナさんは裏手に片付けに行ってしまったし、イミナさんは大分前にプラモを抱えて私室に戻ってしまった。
店内にはクリスさんとテーブルを拭いている私だけ。
私は内心どきまぎしながら「あ。お帰りですか?」と聞いた。
クリスさんは私の隣までゆっくりと歩いてくると小声で話しかけてきた。
「なぁ…………バーサの、本名ってわかるか」
物憂げで艶っぽい声に私は胸が高鳴った。
「バーサさんですか? えぇと、よく覚えていないのですが。どうやら『バーサさん』というあだ名は私が言い出したみたいなんです」
クリスさんは無言で話の続きを待った。
「エレナさんに教えて貰ったんですが。私がバーサさんと初めて会った時はまだまだ小さくて、自己紹介してもらっても名前を上手く呼べなかったらしいんです」
私はエレナさんから聞いた昔話を思い出しながら続きを語る。
「えぇと……その時私はバーサさんを『おばーさん』と呼んだそうなんですが、エレナさんがそれはあんまりだろうということで。皆で『バーサさん』と呼ぶようになった、という話を聞きました。だから本名は私も知らないです」
「…………なるほど」
舞い上がって早口で曖昧な話をする私の横を何かに納得したような態度でクリスさんは店の扉に向かって歩き出した。
私はテーブルを拭いていた布巾を放り出してクリスさんを見送った。
「『バーステト』…………か」
「え? なんですか?」
「いや、なんでもない。邪魔したな。またアリスが何かしでかしたら顔を出す」
そう言うとクリスさんは夜の街に歩き出した。
「…………あぁ、だからアリスの奴はエジプトの神話なんか調べてたのか。ふっ………あいつもどこまで本気で考えているのやら」
夜の闇に紛れていくクリスさんは口の端にニヒルな笑いを浮かべ、カウボーイのように帽子の先端を指先で弾いて口笛を吹いた。
『黒い手』 終。