黒い手(3)
結局アリスさんはついてきた。
論文を完成させたらついてきても良いですよと、私がうっかり口を滑らせたらほんの小一時間でアリスさんは論文を完成させた。
やる気を出せば有能な人なんだけれど、この人がやる気を出すと必ず禄でもないことになる。
今がまさにそれだ。
電柱に隠れて魚屋を張り込みしている私。
その後ろ、和服に御札と数珠を持った陰陽師スタイルのアリスさん。目立つことこの上無い。
「暑くないんですか、それ」
「何言ってるのカンナちゃん。オシャレは我慢だよ!」
小声で尋ねる私に大声と大袈裟な身振り手振りで返すアリスさん。帰ってくれないかな。
「はぁ。着替えるのは別に構わないのですがせめて自分の荷物くらい片付けていって下さい。それからなるべく静かにお願いします。……これだけ目立っていたら無意味かもしれませんが」
「あ! 喫茶店に置いていった荷物持ってきてくれたの? カンナちゃん信じてたよ!」
電柱に隠れる私達を商店街を行き交う主婦や仕事帰りのサラリーマン達がじろじろと見ている。
人目は気になるが、そもそも『手』に私程度の隠密行動が通用するかどうかはわからない。
それにどうせこれ(アリス)が居たらそれすら無理なのだ。
私は魚屋を監視しながら背中で数珠を持って騒ぐアリスさんを適当にあしらう。
「これ着るの結構大変だったんだよ~。なんか下着の代わりに肌襦袢っていうの着てるし。だから今の私はノーパンなんです!」
「変なこと大声で言わないで下さい」
「この御札はねぇ、ここに来る途中にあった神社に貼ってあったのを借りてきたんだ~。はい! カンナちゃんにも貼ってあげる!」
「ちょ、なんて罰当たりな………しかもそれを私の背中に貼らないで下さい!」
魚屋にこれといって変化は無い。
「この帽子似合う? 烏帽子っていうらしいんだけど陰陽師っぽくて気に……入って…………?」
「その長い帽子のせいで余計に目立つんですよ。というかスカート引っ張らないで下さい」
「………あの、カンナちゃん?」
「だから! スカート引っ張らないで下さいって言ってるじゃないですか」
魚屋に異常は無い。
私は後ろを振り返らずにスカートを引っ張るアリスさんの手を振り払おうとした。
もさっとした感触を手に感じた。
ゆっくり振り返った私の視界には、捲り上げられた私のスカートとその端を掴む真っ黒な毛深い『手』があった。
「ひっ―――きゃあぁぁぁぁぁ!!」
予想外の出来事に悲鳴を挙げてその場にへたり込むと、『手』に掴まれたままの私のスカートは更にめくれあがった。
遠巻きに見ていた男性の何人かが携帯やスマートフォンのカメラをこちらに向けた。
「……! いやぁああ~!?」
違う意味で驚いた私は即座に立ち上がり、咄嗟にアリスさんの荷物から一番重そうな辞書を取り出して『手』に叩きつけた。
「ふざっけんじゃにゃあ!」
「―――っ」
同時に電柱脇の路地とも言えぬ狭い隙間から何か小さな悲鳴のような声が聞こえた。
黒い『手』はその隙間から伸びてきている。
『手』は怯むようにしてスカートを離し、隙間に逃げていった。
「アリスさん!」
「まっかせて!」
私は追跡を手伝ってと言ったつもりだったのだが、アリスさんは喫茶店で忘れていった荷物から素早く鞭を取り出すと。
某考古学者よろしく私のスカートの中身を盗撮した男性の手から鞭で端末を絡め取ると一つずつ踏みつぶしていた。確かにそれも重要だが……私はその姿を脇目で捉えながら狭い隙間に身を滑り込ませた。
横向きに狭い隙間を少し進むと裏路地に出た。
商店街の裏路地はお世辞にも綺麗とは言い難く、店で出たゴミの袋や資材が散乱していた。
すえた臭いに顔をしかめているとどこからかポリバケツが飛んできた。
慌てて身を伏せて回避すると背後で盛大な音と共にゴミが散らばった。
ポリバケツが飛んできた方向を見やると更にゴミ袋や壊れた鍋などが飛んできた。
それらを難なくかわしながら奥を見れば『手』が文字通り手当たり次第に投げつけていた。
「大概にしぃやぁ! 逃がさんでぇ!」
先程から怒りにまかせて叫んでいる。
お陰で普段は敬語で隠している訛りが出てしまっているがそんなことを構っている状況ではない。
私の下着を衆目に晒した罪は直ちに倍にして物理的に贖ってもらう――!
ゴミ袋やバケツは兎も角、飛来物の中には包丁や瓦礫など当たったら只では済まない物も含まれている。
しかしこの程度の児戯めいた投擲ならば、ここが狭い路地裏であるということを考慮に入れても当たりはしない。
師匠の投げる変化球みたいなナイフに比べれば雪合戦にも等しい――。
「捕まえ―――嘘っ!?」
そんな事を考え、『手』を追い詰めたと油断した私は『手』に自分の手を伸ばし。逆に『手』に捕まった。
より正確に言うならば『手』の五本の指の内一本が伸びてきて私の右手に絡みついた。
それを左手で解こうとすると更に他の指が伸びて左手も捕まった。
瞬きの内に黒い『手』は5本の黒い触手のようなものに分かれ、更に2本で右足と左足も捕まった。
どうやらこの『手』はもとからこういった触手が組み合わさって『手』となっいたようだ。
黒く毛深い触手は私の手足を離さず強い力で手足を広げさせられた。
そのまま少しだけ宙に浮かべるように持ち上げられたが―――そこまでの力は無いのか直ぐに地面に下ろされた。
「な、何するぅ! 離さんきゃあ!」
じたばたと暴れる私の目の前に1本だけ自由な触手がゆらゆらと挑発的に揺らめいている。
命の危険からなるものとは別種の恐怖心が鎌首をもたげる。
拘束された手足、誰も助けのいない状況。
必死の抵抗虚しく逃げるどころか広げられた脚を閉じることすら出来ない。
「やっ………!」
迫る黒い触手に思わず涙を溜めた目を強く瞑る。
「………え? は、はっくしょん!」
しかし触手は予想に反し私の身体に触れることは無く、その毛深さを生かし私の鼻先をくすぐってきた。
最初は状況が飲み込めず混乱したが、自分が女として認識されていないということを徐々に理解した私の心には………未知の存在に対する恐怖心と入れ替わるように、耐え難い怒りが沸いてきた。
「舐めるんじゃにゃあ!」
渾身の力を込めて鼻に纏わりつく毛深い触手に噛み付いた。
「ぷぎゃん!?」
すると路地の隅からどこかで聞いたことがあるような短い悲鳴が挙がった。
慌てて手足を解いた4本の触手が噛み付いて離さない私の口から触手を無理矢理引き剥がした。
お陰で口の中は毛玉まみれだ。
それでも逃がしてなるものかと両手で触手を捕まえたのはいいが、力は向こうが上らしくずるずると引きずられていく。
何か対抗策を講じようとした時、触手の根元側から「捕まえたっ!」というアリスさんの声が聞こえた。
商店街を騒がせた黒い『手』の正体は黒い化け猫だった。
猫又………といえばいいんだろうか?
その猫は自由に伸びる5本の尻尾を持っていた。
その猫又は今アリスさんが被っていた烏帽子に尻尾以外の全身をすっぽり被されている。
「ね? やっぱり着替えてきて良かったでしょ!?」
アリスさんはドヤ顔で烏帽子ごと猫を押さえ込んでいる。
「いや、それきっとそうやって使うものじゃないと思いますよ……」
私はというと周りが見えず暴れる尻尾を鞭で縛って押さえていた。
時間は夕方6時を回ったあたり。なんとか店には間に合うだろう。
「でもどうしましょうか、この子? 飼い猫とは思えませんし保健所でしょうか? ……そんな顔しても駄目です、お店では飼いませんからねアリスさん」
子供のように駄々をこねるアリスさんを無視して考えていると、路地の入り口の方から足音が聞こえてきた。
すると猫は急に大人しくなり、尻尾もするすると縮むと纏まって普通の一本の尻尾になった。
不思議に思った私とアリスさんは同時にそちらを見た。
こちらに向かって歩いてくるのは女性だった。
女性の美しい褐色の肌は路地裏に僅かに差し込む夕日の照り返しを受けて艶やかに輝いていた。
その身に纏う厳かな雰囲気と人間離れしたその美貌に私は目を奪われた。
暫く呆けていると、近くまで歩み寄った女性は私達に向かってにっこりと微笑んだ。
「こんにちは、カンナちゃん。アリスちゃん。それともこんばんわかしら」
名前を呼ばれて我に返った私は慌てて頭を下げた。
「こ、こんにちはバーサさん。どうしたんですか、こんな所に?」
「ええ、少し」と私の問いに曖昧に答えると、軽くしゃがみ込んでアリスさんが押さえていた烏帽子を拾い上げた。
『リリー・ローズ』以外で出会ったことの無い常連客の、普段とは違う雰囲気に呑まれた私達が「あ」と言う間に猫が烏帽子の中から現れた。
しかしあれだけ暴れた猫はまさに借りてきた猫といった風情に小さく縮こまっていた。
それだけではない。まるでバーサさんと目を合わせたくないように下を向き、僅かにその身を震わせている。
この時私は初めてその猫の全身を見たのだが。
どこかで見たことがあると思ったら、ひょっとして昼過ぎに私が誤って尻尾を踏んづけた黒いでぶ猫ではなかろうか。
バーサさんがゆっくりとした所作ででぶ猫の首を猫つまみした。でぶ猫は猫つまみをされると自重で首が締まり嫌がると聞いたことがあるが、でぶ猫は大人しかった。でぶ猫を自分の目線と同じ高さまで持ち上げると、暫くバーサさんとでぶ猫の無言の睨み合いが続いた。睨み合いといっても、でぶ猫は完全に怯えて可哀想なくらい震えているのだが。
永遠のように長い一分間の睨み合いの末。
バーサさんが最後に短く窘めるように「めっ」と言うと、でぶ猫はびくんと大きく震えて宙ぶらりんのまま失禁した。
こうして事件は解決した。