《序章》 イワクツキの邂逅 第2話 (改)
進めば進むほど細く狭くなっていく路地に時折身体をぶつけそうになりながら、彩人は雑居ビルの隙間を縫うように走っていく。
携帯電話を盗んだにっくき野良猫は辛うじて尻尾が見える程度で、少しでも気を抜いてしまえばその小さな姿をあっさりと見失ってしまいそうだった。
「なんで、んなコトに、よ……ッ!」
全力疾走する野良猫に追いつくべく彩人も負けじと勢いを加速させ埃まみれの室外機を飛び越える。軽く息を切らせながら走り続け、空になったビールのケースを蹴散らしながら進んでいくと、やがて視界の先にオレンジ色の光が差し込んでいるのが見えてきた。
「公……園? こんな場所、あったのか」
乱れた息を整えながら彩人は周囲を見回し野良猫を探す。
彩人から見て左手前方には、ボロボロに錆びて登るのが不安になるようなジャングルジム。塗装が剥がれてしまった滑り台は夕日に照らされて不気味に、それでいながら物悲しい雰囲気を漂わせている。四隅に設えられているベンチには人が座った痕跡がほとんど見当たらなく、砂と落ち葉だけが我が物顔で蹂躙していた。一部はひじ掛けが壊れているものもあった。
生き物の気配が感じられず完全に無人――のはずなのに、何故か公園に踏み込んだ瞬間から彩人の背筋に奇妙な寒気が這いずりまわっていた。
「……ッ」
不意に響いた右眼の痛みを片手で抑え彩人はその場で小さく蹲る。
……此処に長く居てはいけない。
そんな風に彩人の本能が、あるいは直感が心の奥底から告げてくる。
盗まれた携帯電話を探すのを諦め早々に立ち去ろうとした瞬間、聞き覚えのあるボケた声が聞こえてきた。
「うにゃお」
滑り台の下の隙間から呑気な顔を覗かせる野良猫を見つけ彩人は小さく息を吐いた。
そしてよく見れば彩人の携帯電話も遊具のすぐ傍で、まるでオモチャで遊んでいた子供が飽きて放り出したかのように無造作に転がっていた。猫は気まぐれな気質の生き物だから、遊んでいるうちに興味が失せて捨ててしまったのかもしれない。
液晶にくっついた砂埃を払いながら拾い上げると、再び野良猫が彩人に寄ってきて小さな額を擦りつけてきた。
「……まったく」
少々の恨みを込めながら猫の額を撫でているとビルの隙間から漏れていた夕陽が宵闇に落ち、公園の端々にある街灯が明滅して白くぼやけた光が灯る。
そろそろ家に帰らなくては――彩人が腰を上げて帰ろうとしたその矢先、急に猫が血相を変えたかと思えば全身の毛を逆立てて威嚇し始めた。
「は? おいおいどうしたんだ? いきなりご機嫌斜めにならなくても……」
しかし、野良猫の視線は彩人ではなくそのさらに奥――誰もいない公園の方向に向けられたまま低い唸り声を上げている。猫同士の喧嘩で見るような威嚇の仕方と似ていたが、後ろ脚をじりっと退いた猫の形相には恐れに近いような感情が何となしに読み取れた。
「ふーッ! ふーッ! ごにゃああ……!!」
あまりにも突拍子の無い猫の様子に彩人はただただ唖然とするばかり。
何に対して怒り狂っているのか、何を恐れているのかが全く見当もつかない。
彩人も改めて周囲を見回しては見るのだが、寂れた公園は彩人たちを除いて完璧な無人。
……誰もいないはずなのに、耳元からはハッキリと小さな息使いが聞こえてきた。
「……は……?」
その瞬間、野良猫が叫びながら彩人の正面に向かって飛びかかる。
何もないはずの中空に両前足を突き出した姿勢のまま、不意に猫の身体がまるでワイヤーに吊り上げられたかのように空中でその動きを止めた。宙に浮いたまま手足を暴れさせる猫の姿を見、彩人は目の前の光景が信じられなかった。
やがて猫の身体がふわり、と彩人の目線より数十センチ高くなったところで――、
ゴギャッ、ベギ、チャ――――ッ。
猫の小さな身体が、空中で短い断末魔と共に潰れた。
「……え」
その一瞬、彩人には何が起こったのか全く分からなかった。
気が付いた時には、誰もいない公園のど真ん中に血だまりが出来上がっていて、血だまりの中に千切れた猫の前足が沈んでいていた。
ぶわ、と拡がった鉄錆の匂いに包まれながら彩人は立ち尽くす。
「な……んだ、コレ……う、うわぁあああっぁああああ!?」
目の前で起こった訳の分からない事象に頭が追いつかず、彩人は腹の底から上ずった悲鳴を上げることしか出来なかった。数秒前まで撫でていた猫の温もりが手の平から一気に冷めていく。
何故? どうして?
今ここで何があった?
パニック寸前の彩人は無意識のうちに震える手を血だまりに伸ばそうとして――声が、聞こえた。
『……ニク、イィ……イィ、ィイイイイ…………』
グチャリ、グチャリ――。
まるで何かを食べているかのような、咀嚼音混じりの歪な声が彩人のほぼ真上から響いてくる。
この場には彩人以外に誰も居ないはずなのに、いつの間にか彩人以外の何かの気配がありありと感じられる。
今しがた、猫が潰れた血だまりの――傍に。
『…………ィイ、ニオ……イ……』
「……ッ!?」
歪な声の意識がこちらに向けられたような気がして、彩人の背筋に滝のような汗が噴き出す。
何も見えない公園の真っただ中、何度周囲を見渡しても人も動物も虫の一匹すら見当たらないというのに、何処からか強烈な意識が彩人に向かって突き刺さってきて身動ぎ一つ取れなかった。
……“ヒト喰い”。
突如脳裏に過ぎったくだらない噂話の結末を思い出し、彩人は恐怖で思わずその場にへたり込んでしまった。
『見つけたよ、お姉ちゃん』
突然、別の方向から少女の声が聞こえて彩人は弾かれるようにしてその方向に首を動かした。
錆びたジャングルジムの頂点、そこにいつの間にか一人の少女が腰掛けていた。
雪のように白く長い髪をなびかせながら、しかしその表情は漆黒のヴェールに覆われて窺い知れない。夜の闇を縫い合わせたかのような暗黒のドレスに身を包み、右手には二枚の木の板を組み合わせたような道具を握りしめた、何処となく不気味な雰囲気を纏う少女だった。
そんな少女の傍ら、横倒しにされたトランクケースの上には何故か金髪碧眼の西洋人形が立っていた。 裾の広がった空色のスカートに純白のエプロンと、その出で立ちはさながら『不思議の国のアリス』のようだが、その手には凡そメルヘンとは程遠いような無骨なサバイバルナイフを握りしめている。
「さっきの、女の子……?」
「……《ラピス・ラズリ》」
ヴァイオリンの旋律にも似た美しい声音で黒い少女が小さく告げ右手を躍らせると同時、《ラピス・ラズリ》と呼ばれた人形がアクロバティックにジャングルジムから跳躍し彩人の前方に着地する。背丈は、一メートル前後だろうか。彩人に比べればずっと小さい。人形として見ればかなり大きい部類だ。
《ラピス・ラズリ》と呼ばれた人形は彩人の前方に出来上がった血だまりにナイフの切っ先を向ける。
『へぇ……? 今日はニンゲンじゃなくて先にネコを食べちゃったんだ。まぁ何でもいいけど。今日こそは逃がさないんだから』
『ググ、グゥルルル……ッ! マタ、キタ……ジャマナ、ヤツラ……!』
「何だ、この声……? 誰と誰が話して……」
『……あら?』
くるり、とナイフを手にした人形が振り返ると、彩人の顔を見るなり驚きに目を見張り、そして続けざまニッコリと可憐な笑みを浮かべてみせた。
『もしかして……おにーさん私の声聞こえてるの? すっごーい! 琥珀お姉ちゃん以外で私の声聞こえる人って初めてかも!』
「んな、ぁ……!? に、人形が……しゃべって……!?」
容姿こそ端正であれど、ケラケラと笑いだす人形の様は不気味以外の何物でもなかった。それこそ、ホラー映画のワンシーンもかくやという迫力。手にしたモノがナイフではなく花束であれば、まだ彩人にも笑って返せる余裕が出来たかもしれない。
『せっかくだし、おにーさんと楽しくおしゃべりしたいけど……後でね。今はバケモノ退治しなきゃいけないから』
「バケ……モノ? そんなの、何処に」
『私の声が聞こえるのにアレは視えないの? ……そんな素敵な眼を持ってるのに』
「……ッッ!?」
コン、コン、と革靴の音を響かせながら人形はゆっくりと彩人に近づいていく。やがて彩人のほぼ真正面に立つともう一度ニコリと可愛らしく微笑み、そしてそのまま無言でナイフを横に一閃。銀色の軌跡は器用に彩人の眼帯だけを両断し、意図せず露になった彩人の金色の右眼に――ソレは映り込んだ。
「なッ……ぁあ!? あ、ぁあ……あ、うぁああああああ!?」
血だまりの上に突如として現れた――異質なバケモノ。
見上げるほどの巨体に黒い陽炎のようなオーラを纏い、巨木のように太く強靭な四肢には見ただけで竦み上がってしまうような鈍い銀色の輝きを放つ爪が並んでいる。豚のような狼のような、適当な動物を滅茶苦茶に混ぜ合わせて出来上がったような常軌を逸した得体の知れないバケモノは、不規則に生え揃った歪んだ牙を見せびらかせながらビルを震わすかのような咆哮を上げた。
「……やるよ」
『分かってる、お姉ちゃん』
黒い少女の号令を合図に《ラピス・ラズリ》は地面を思い切り蹴飛ばし弾丸のような初速で駈け出す。バケモノを翻弄するかのように小刻みに動きながらナイフを構え懐に飛び込んでいく。バケモノが咆哮し、人形に向けて振り上げた剛腕を叩き付ける。ゴスンッ! と遊具が跳ね上がるような衝撃と地響きが公園中に響き渡り、コンクリートの地面が易々と抉られているのを見て彩人は戦慄した。人間が喰らえばひとたまりの無いのは明白。人形なんかがあんな一撃を受けたら……
『んふふふ……何処、叩いているの?』
悪戯を企てる子供のような《ラピス・ラズリ》の意地の悪い声。
気が付くと彼女はバケモノの頭上に颯爽と跳躍していて、そのまま重力に従って落ちながら銀色の刃を突き立てた。裂けた額から赤黒い液体を四方に撒き散らしながら、バケモノは鼓膜をぶち破るような絶叫を響かせた。
「何……なんだ、コレ。お前ら、いったい何やって……?」
『ググゥ……グゥル、ルル…………』
『もう少し……かな。ふふ、このままガンガン行くよお姉ちゃん』
痛みに荒れ狂うバケモノの紫紺色の瞳がナイフを持つ《ラピス・ラズリ》から反れ、ジャングルジムの上に立つ黒い少女に移る。次の瞬間にはバケモノは正面から飛び掛かり、ギラリと鈍く光る爪の矛先が無防備な少女に向けて何の容赦もなく振り下ろされる。
「お、おい逃げろ! 殺されちま――!?」
『余所見はイケナイわ。悪い子には、お仕置き』
何の動揺も見せず黒い少女は右手を指揮者のように躍らせる。それに合わせるようにして俊敏な動きで飛び上がった《ラピス・ラズリ》の蹴りがバケモノの鼻先に直撃し地面に叩き落とす。蹴りつけた反動をそのまま生かし少女の元へと舞い降りると、その身の丈に比べればずっと大きな少女を悠々と抱え上げジャングルジムから華麗に飛び降りた。
彩人はただただ、そんな現実離れし過ぎた光景を呆然と見つめることしか出来なかった。
「な……ぁ……」
完全に圧倒され過ぎて言葉も出ない。
目の前で起こっている出来事が本当に現実なのか、それとも夢や幻の類なのか。
突如現れた謎のバケモノも。
ナイフを握り直し再びバケモノに躍り掛かる《ラピス・ラズリ》も、それをただ無言に徹しながら見据える黒い少女も。
何もかも、全てが常識の範疇を軽く凌駕していて、彩人はただ理性を保っているだけで精一杯だった。
『ガァアアアッ! ジャマナ、ジャマ…………グッ、ガァアアアア!!』
『イライラしてるイライラしてる♪ ヒトばっか食べ過ぎてカルシウム不足してるんじゃなーいの?』
「……ぁ…………はぁ……」
ケラケラと笑いながら余裕たっぷりにバケモノを煽りながら《ラピス・ラズリ》は攻撃の手を一切緩めない。
優雅に舞踏るように、銀色の軌跡を描いていく。
細い閃光がバケモノの身体を幾度となく斬りつけ、引き裂き、そのたび鮮血が飛び交い絶叫が反響する。バケモノの血を浴び真紅色に染まった《ラピス・ラズリ》は――笑っていた。
『ギィ……グギ、ギギ……ィイ』
追い詰められたバケモノは《ラピス・ラズリ》を鋭い眼光で睨みつけはするものの、ジリジリと公園端に追いやられていく。頬に付いた血を指で拭って舐めとりながら《ラピス・ラズリ》は一歩一歩確実に距離を詰めていく。
獲物を前に舌なめずりする狼のような圧倒的優勢は、しかし突如として彩人の目の前で瓦解した。
「……ッは、ぁ」
「え……あ、おい!? 大丈夫か!?」
『お姉ちゃん……? え、キャアアッ!!』
それまで毅然と振る舞っていた黒い少女が不意に膝から崩れ落ち、彩人の前でぱたりと倒れてしまった。少女の異変に気を取られ一瞬生じた隙をバケモノは見逃さず、呆けてがら空きになった《ラピス・ラズリ》の脇腹に漆黒の一撃が深々と叩き込まれる。小さな身体は滑り台の壁に激突したと同時にゴキッ、とくぐもった嫌な音が聞こえてきた。
『……ィ、ギギィ…………』
力尽きた《ラピス・ラズリ》に憎々しげな一瞥をくれるバケモノは追撃する余力が無かったのか、身体をゆるりとターンさせて別の路地に向かって逃げて行ってしまった。残される彩人は未だ状況が呑み込めず唖然とするばかり。
「な、何がいったい……どう、なって……」
『アイッタタタぁ……お姉ちゃん、もう限界だったんだ。困ったなぁ……』
「おま……いッ!?」
弱々しい声が聞こえ彩人が視線を向けると、滅茶苦茶な方向に折れ曲がった右腕を庇いながら歩く《ラピス・ラズリ》の姿があった。よろよろと覚束ない足取りで一歩ずつ彩人の傍へと歩み寄ると、その小さな身体をペタリと横たえる。群青色の、彼女の名の色の瞳に見上げられ彩人の胸が怖気と好奇に挟まれて小さく鼓動する。
「ま、……ま、待ってろ。今すぐ救急車を呼んで」
『そんなの呼んでも意味ないし、面倒なコトになるだけだからいいよ。それよりさ、おにーさんに頼みたいことがあるんだけど……いい?』
数秒ほど悩んでから彩人がコク、と小さく頷いたのを確認すると《ラピス・ラズリ》はエプロンのポケットから小さな紙切れを取り出し差し出した。
『この住所まで、私たちを運んでほしいの。……あ、私はあっちの鞄に仕舞ってくれればいいから』
「……なぁ、お前らいったい何なんだ? あのバケモノも、それにお前も、この女の子も……」
『知りたいなら……教えて、あげる。私と、琥珀お姉ちゃんを助けてくれれば……だけど』
「おい、お前……大丈夫なのか?」
徐々に《ラピス・ラズリ》の声が小さくなっていくことに気付き彩人は彼女の身体を小さく揺すぶる。青い瞳は、ゆっくりとまどろんでいた。
『私……もう眠くて……ごめ…………ね。琥珀おねぇ……ちゃん……』
まるで人が息を引き取るかのようにゆっくりと瞳を閉じると、彼女は静かな寝息を立てて眠ってしまった。
血の匂いが拡がる夜の公園、静寂の中に取り残された彩人は黒い少女の方へと視線を動かす。
「琥珀って……この子の? それに、この住所は……」
不意にビルの合間から吹き込んできた突風が少女のヴェールを撒きあげ、少女の顔が意図せず露になる。
透き通るような白い肌に薄い桜色に染まった小さな唇。触れただけで壊れてしまいそうな、氷の花を思わせる尋常ならざる美貌。まるで出来過ぎた人形のように整った顔立ちの少女は――
「……同じ、顔?」
まるで鏡合わせのように、彩人の傍で瞳を閉じる《ラピス・ラズリ》と寸分違わぬ表情で瞳を閉じていた。
もう1話2話ほど序章が続く……かも。
彩人君の名字がまだ出て来ないのはどーなのか。
少し導入が長い感がありますが、是非ともお付き合いくださいまし。
お気に入り登録、ありがとうございます。
めっちゃ早くてビックリです。
そして次回更新は13日の木曜日。
では、待て次回。
※4月10日、改稿しました。