《序章》 イワクツキの邂逅 第1話 (改)
ヒトは生きていく上で必ず“人生の分岐点”というモノを垣間見る瞬間がある。
それは平穏な日常の中や学校の授業、テストの答案用紙のようなあからさまに目に視えている時もあれば、得体の知れないヒトならざる何者かによって手繰り寄せられた“運命”という希薄な言葉、もしくは、予期しようのない“偶然”という事象で片付けられてしまう時もある。
何れにせよ、最終的にそれらを選ぶのは他でもない自分で――
「だからさぁ、彩人クンってば真面目に聞いてる? 今この陽詠市を騒がせている『ヒト喰い』の噂」
「あーあー聞いてる聞いてるっての。下水道の奥で鈴が鳴ってマーダラーだっけ?」
無意味にミーハーな幼馴染の声を聞き流しながら、辻雪彩人は立ち寄った自動販売機の前で指を彷徨わせていた。
五月の初旬、連休明けの火曜日。
暦の上では既に春だというのに本日の冷え込みは冬のそれに匹敵し、彩人は迷わず『あったか~い』と緩いフォントのボタンに指を伸ばす。乱暴な落下音と共に落ちてきた缶コーヒーの熱さが指先に触れた途端、ふるふるっと彩人の身体が弛緩した。
「全っ然聞いてないじゃん。この噂はけっこうマジでニュースにもなっちゃってるんだよ? 今朝だってOLさんがバラバラになって発見されたって」
「連続猟奇殺人事件……だっけか。そりゃもちろん物騒な話だがな、噂はあくまでウワサに過ぎないだろ? その犯人イコール『ヒト喰い』だって証拠はないだろ」
「そりゃそうだけどさぁ……もう、彩人クンは本当に夢がないなぁ。いい? この世には常に人智及ばぬ未知と浪漫が溢れていてだねぇ」
そんな血みどろな未知と浪漫なんかあってたまるか。
鼻息荒く語りだした来須愛子の話を適当に聞き流しながら、彩人は豆の香りやら苦みやらを堪能するでもなく無心でコーヒーに一口付ける。
三日前、陽詠市中心街の路地裏で変死体が見つかった。
遺体を最初に発見したのは付近で喫茶店を営んでいた男性。
閉店後、ゴミをまとめていた最中路地の最奥でぐしゃぐしゃに噛み砕かれたかのような凄惨な状態の遺体が転がっていたのを見つけ慌てて通報したらしい。この事件を境に巷では同じような事件が相次ぎ、まるで“獣に喰われたかのような”死体の状況から、何時しか人々の間では『ヒト喰い』として語り草になっていた。
「そんな風な態度だと、いつか彩人クンも『ヒト喰い』に襲われちゃうかもよ? がおーってさ、腕とか足とかばくばくーって」
「真偽はともかくとしてさ、よくもまぁそんな根も葉もない噂話に夢中になれるよな……」
彩人は昔から“噂”がどうにも好きになれなかった。
自分が見たり聞いたりした話ならともかく、何処の誰かから流れてきたのかも分からないような信憑性の薄い話を、自分勝手にあれやこれやと論ずるのは、どうにも意味がないというか無駄な気がしてならなかった。
「……い、っつ」
「彩人クン、眼ぇ大丈夫?」
不意に、右眼に小さな針が刺さったかのような微かな痛みが走り彩人は足を止める。
彩人の右眼は頬の半分ほどを覆い隠せるほどの大きさの眼帯で覆われている。
眼帯の下には彩人が幼い時に火事に巻き込まれて負った火傷の痕を隠している。この眼も、それと同時に負傷してしまった――らしい。
「いつものだから、放っときゃすぐに治る」
「なら、いいんだけどさぁ……」
心配そうに見上げる愛子の視線を受けながら彩人は痛みを小さく溜息をつく。
この不可解な眼の痛みに関しては十年来の付き合いである愛子にもある程度は事情を話しているのだが、彩人自身にもハッキリとした原因が分かっていない。確かなのは火事が原因で負傷したことと、その日からこの奇妙な痛みが付き纏うようになったことだけだった。
「じゃあさ、私この後バイトだから」
「おう。そっちこそ『ヒト喰い』なんかに喰われんじゃねーぞ。寝覚めが悪くなりそうだ」
「あっはは。そん時は飛んで助けにきてよ~。彩人クンが来るの期待してるからサ」
ヒラヒラと片手を振り去っていく幼馴染の背中を見送り、彩人はスクールバッグを背負い直して再び歩き出す。
結局、噂はただのウワサでしかない。
恐い恐いと語る割に、自分たちの生活からあまりにも遠過ぎて現実味がないから、関係の無い人間からしてみればただの冗句で終わってしまう。『ヒト喰い』が猟奇的な事件に変わりはないが、最終的には然るべき人々が事件を解決まで導くのだろう。
「あぁ、あの兄ちゃんの目かっけぇ!」
道端で出くわした小学生と思しき子供が彩人の眼帯を見つけた瞬間、キラキラと輝く視線を向けてくる。と、同時に買い物途中の母親と思しき女性が飛び出してきて、子供の頭を小さく下げさせながらいそいそと去っていく。そういう反応に慣れっこだった彩人は「どうぞお構いなく」の意を込めながら軽く手を振って返した。
目の病気にしろ怪我にしろ、この眼帯というシロモノはそれが好奇であれ何であれ非常に人の目を惹いてしまう。それこそ、顔の半分ほどを隠すほどのパーツだから否が応でも目立つのは仕方ない。火事の日からずっと付き合っている彩人としては、子供のような反応はまぁしょうがないと割り切っていた。
その実、中学や高校に入学した時は多少なりとクラスを騒がせて時の人になりかけたこともあった。愛子を始めとした友人のお陰で、今はほとんど“見た目だけ中二病キャラ”という立ち位置で収まっている。それの良し悪しについては、この際ノーコメントとしておく。
「うにゃおうん」
「ん?」
不意に足元からボケた鳴き声が聞こえてきて視線を落としてみると、そこには野良というには少々肥えた猫が路地の隙間から彩人を見上げていた。白黒茶色の三毛猫はごろごろと喉を鳴らしながら、まるでお気に入りの場所でも見つけたかのように彩人の足元をぐるぐる回りながら身体を押し当ててきた。
「……人肌恋しいってか? そこら辺で日向ぼっこでもしてりゃいいのに」
飼い猫以上に警戒心を見せない三毛猫は彩人が手を伸ばしても一切怯えることは無く、むしろ撫でてくれと頼んでいるかのように小さな額で突いてくる。
猫は嫌いじゃない、むしろ彩人は断然猫派の人間なのでこういったアプローチなら大歓迎だ。
心地よい頭突きのお返しにと彩人はポケットから取り出した携帯電話のストラップを猫の鼻先に揺らしてからかってみた。
夕暮れ時の和やかなひと時の中――ふと、彩人は路地の奥に小さな人影を見つけ顔を上げた。
「……なんだ……? 女の……子?」
路地の突き当たりに立つ人影は――どうやら少女らしい。
モノクロのゴシックドレスという古い肖像画のような出で立ちに、手には彼女の身の丈の半分ほどの大きさの漆黒のトランクケース。路地に吹き抜けた風が長い髪を揺らすが、何故か少女の顔はヴェールのような物に包まれていてよく見えない。左眼を凝らして見ようとしたら、少女は何かを追いかけるかのようにして路地の奥へと向かって走り去ってしまった。
「何だったんだ、今の……?」
見間違い、と一言で片づけるには強烈過ぎる印象を受け、彩人はしばし呆然と路地を見つめていた。
黄昏迫る路地裏に現れた奇妙な姿の少女。
街道を走るトラックの音も、通りから響く人々の喧騒も、その瞬間、彩人の世界からざぁっと音が消えていく。ただ、少女の消えた路地の闇の向こう側を食い入るように見つめていた。
……パタン、という小さな音が足元から響いた瞬間、彩人はハッと我に返った。
「…………ッあ! お、おい!?」
そこに転がっていたのは今まで握りしめていたはずの自分の携帯電話、そしてそれをヒョイッと咥えすまし顔を浮かべる野良猫。次の瞬間には脱兎の如き速度でロケットスタートを決め込み、あっという間に路地の向こう側へ飛んでいってしまった。
「やられた……! おい、待てっての泥棒猫!」
野良猫に携帯を盗まれたままおめおめと帰れるかと言えば――無理、絶対に無理。
この瞬間、隣にうるさい幼馴染がいなかったことに感謝しつつ彩人は猫の消えた路地裏へ向かって走り出した。
初めましての方、初めまして。
そうじゃない方、お久しぶり。
本日より新作『噂喰い 《ゴシップ・イーター》』が公開と相成りました。
まだまだ拙い物書き見習いですが、今後ともよろしくお願いします。
次回更新は3月6日の木曜日を予定しております。
では、待て次回。
※4月3日、改稿しました。