「うん、じゃあ、いってきまーす。」
午前8時26分 千葉県第5地区 7-23街
「んー、ベットは・・・いらないかな。でかいし。」
リビングから通じるベットルームの扉は開け放たれており、中では笠井要が大きなアタッシュケースとタイヤが付いたトランクケースを持って、なにやらブツブツと独り言を言っている。
「カーテンも・・・いらないや、特に思い入れもないし。」
視線をベットからカーテンに移した彼は、それもすぐに逸らして今度はクローゼットのほうへ向かっていった。
「えーと、服は~・・・一応、2日分。」
ホイホイと、組み合わせも何も気にしない勢いで適当に服を掴み、足元に置いたトランクケースを開けて、雑に詰め込んだ。
「うん、終了。」
服を入れ終えた要は、一度ベットルームをぐるりと見回し、服が雑に入っているだけの軽いトランクケースのふたを閉めた。
「さあ、次は・・・」
彼はトランクケースをその場に残し、アタッシュケースを抱えてリビングに出て行った。
男の一人暮らしには大きすぎるリビングは、家具の殆どが部屋の隅に追いやられ、怪しげな実験器具を残して殺風景となっていた。
使い古され傷だらけになった実験台の上では、中央に置かれた三角フラスコから怪しげな液体が泡を出して何らかの化学反応が行われているようである。
要はそのフラスコを視認すると、駆け足で近寄って手に取った。
「よし!これは成功かもしれない!」
嬉しそうに言った要は、フラスコの中身を数回かき回すと、着ていた上着のポケットからカッターナイフを取り出して自分の左手の小指に押し当てた。
そして、滲み出てきた血液を一滴、フラスコの中に落とした。
血液は中の液体と混ざるとあっという間に広がって、フラスコの中にはドロドロの赤い液体が残された。
「うん、人口血液、成功!!」
実験は成功したのか、要は嬉しそうに笑うと、すぐに小型のパソコンを立ち上げて、フラスコの写真を撮っていく。
その後なにか作業をしたかと思うと、唐突にパソコンを閉じて、かわりにアタッシュケースを開いた。
大きなケースの中には、灰色のクッションのようなものが二重に重なっていて、形も大きさも様々な凹みができていた。
要はその凹みの一つ一つに、パズルを埋めるように慎重かつ手早く、怪しげな器具達を収めていく。
最後に手に取った三角フラスコは、その中でできた人工血液なる物を躊躇なくゴミ箱に流し込むと、さっと水洗いして何事もなかったかのように最後の凹みに収められた。
「・・・こんなもんか・・・。うん、じゃあ、いってきまーす。」
誰もいないはずの部屋に言葉を投げかけ、返事が返ってこない虚しさをその場で数秒の間堪能すると、踵を返して玄関へと向かっていく。
「あ、トランクケース、置いてきちゃった。」
片方の靴を履いた時点で、先ほど何日分かの衣服を詰め込んだトランクケースを、ベットルームに置き去りにしてきたことを思い出したが、一度顔を傾けると「どうでもいいや」という風に もう片方の靴を履き始める。
そして、忘れ去られたトランクケースはもう一度思い出されることはなく・・・家主は部屋を後にした。
4月7日。
マンションが立ち並ぶ千葉第5地区7番街でも、一際大きく家賃も高いことで知られる「ハンドレッド千葉」というマンションの最上階は、高級な家具とトランクケースを残して家主を失い、その2時間後にはそれらも全て消えていて、もぬけの殻になったという。