月
「ちちうえ!」
ひょっこり執務室に愛らしい顔を出した幼児は、正面の執務机と向き合うカイを見つけて満面の笑みを浮かべた。カイもそんな息子をみて相好をくずす。
「おいで、イェンロン」
ペンを置いて呼びかけると、扉の前あたりで躊躇していた息子がパッと駆け出し、カイの足元に回り込んで来て抱きついた。
「どうしたんだい、こんなに慌てて」
愛息子の両脇に手を差し入れて持ち上げ、自身の膝上に座らせながらカイは問いかける。するとイェンロンの唇がキュッと窄まった。目の前のカイの服飾をその小さな両手でいじくりながら、子どもながらにどこか不服そうな面持ちである。
「さっきね、おそばにあったお池がとってもきらきらしていたの。きれいなのに、みんなあんまりにもうれしそうじゃないから、どうしたのっておたずねしたら、セイロンおじさまが、とおくに行ってしまったんですって」
「誰がそう申していたんだい?」
「リャオじぃだよ。それに、ははうえも」
カイはしばらく言葉をなくしていたが、不意に膝上に乗せていたイェンロンを下ろすと、息子に背を向けるようにして立ち上がった。
「ちちうえ?」
きょとんと目を瞬かせて首を傾げ、カイの衣装の裾をまだ幼い息子は握り締めた。
「ねぇちちうえー」
呼びかける息子に、カイは振り返らずに答えた。
「なんだい?」
「とおくって、どのくらい?」
「とても。私たちじゃあ追いつけないほど、とても遠い場所だ。そしてきっと、とても素敵な場所だ」
「ふぅん~」
顔を窓の外に向けたまま外そうとしないカイを見上げていたイェンロンは、父が見ているものと同じものを見ようと視線を窓に向けた。
「そと、お月さま出てるね」
「……」
すぐには答えが返ってこなかったが、間をあけて届いたのは囁くような声だった。
「……本当だ……きれいな、満月だ」
イェンロンが隣を見上げると、目元に手をあてがうカイが立っていた。
それがイェンロンの幼き頃、唯一彼が目にした父王の涙する姿だった。