鏡界線
王宮の奥まった離れで厳かに執り行われた儀式には、若干名ばかりが集められた。
紺碧色の空は久々に冴え冴えと晴れ渡り、宝石を散りばめたように星が空を彩る静かな夜だった。
国王夫妻とカイの母親の側室がそっと寄り添う形で上座の前に座り、上座にはツキが少し肩苦しそうに身を小さくして腰掛けていた。
「では、西劉に平和と幸福を願って」
頭に小さな帽子をかぶった男が立ちあがって朗々とあたりに曇りなく響く声で述べた。彼の言葉のあとを追って人々は復唱し、目の前に置かれた両手に収まるぐらいの陶器製の杯を手に取ると、その中の水に白い花びらを浮かべた。
「そして、セイロン様の幸運を祈って」
続けて杯の中に青い花びらが落とされた。静かに杯の中で浮かぶ二枚の花弁は、水をはね返してゆらゆらと水上を揺りかごのように漂っていく。
「これを、姫神子に!」
男が少し語気を強めて言うと、中央にある台座の上に乗せられた大きな硝子製のボウルに、杯に浮かべた花と共に透き通った水を流し込んだ。他の者も彼と同様に次々と硝子製のボウルに流し込み、彼らは空になった杯を天へ向かって突き出した。
キラキラと夜空に浮かぶ、僅かに欠けた月が何とも幻想的に水面に映った。今宵こそツキを帰すのに最も相応しい日であるとその場にいた誰もが思った、ちょうどその時。
暗闇の彼方から白銀の両翼を持った大鳥が現れて悠然と上座の傍に降り立った。美しい獣が地に降り立つとすぐに「ほぅ」という感心の溜息があちこちから漏れ聞こえてくる。
人々の中から忘却の彼方に忘れ去られていた神話が、意図せずこれから再現されようとしていた。
「あれが、セイロン様……?」
年若い文部官の男が信じられないという表情を浮かべ、両翼を畳んだ鳥の姿に見惚れて目が離せないようである。
幻想的な光景に目を奪われる人々の中で、国王と后を含めたカイたちは神妙な顔つきを崩さなかった。
「それでは、杯を戻して下さい」
我に返った進行役の男が厳かにそう告げると、辺りには杯を置く無機質な高い音だけが響いた。その間もツキは、突然現れた妖鳥に目を見開き、口をポカンと開けて彼を呆然と見上げていた。
「ツキ様、こちらはセイロン様が封印を解いたお姿です」
リャオを経由してカイは彼女に説明する。説明を受けたツキが見せた表情は、言葉を介さずとも彼女の心情をありありと伝えてくれるものだった。
皆のざわめきがおさまる頃合を見計らったかのように、封印を解いたセイロンが両翼を広げた。それをツキが瞳を輝かせて見上げる。カイはその隣で、これがかの『空神』の化身だろうかとひとり思案していた。
「さて、そろそろ太陽が昇ってきてしまいますね」
白み始めた空を見上げて隣に立っていたカイは言った。彼はひょいっとツキを抱き上げると、慎重にセイロンの温かな背に押し上げた。
カイが父王に奏上したものより、さらに百年ほど前の古文書には、『空神』と愛し合ったがために『地神』の怒りを買った『水神』の娘が、『空神』の遣わした大鳥の背に乗り世界を渡ったと記されている。
「元気でね」
カイは少し名残惜しそうにツキの頭に手を乗せて微笑んだ。ツキも彼が何を言っているのかを理解したように、小さく頷いてその赤い唇を噛んだ。
「それでは」
帽子を被った男が軽く咳払いをして声を上げた。
「姫神子に祝福を!」
セイロンが月光の柔らかい光を受けて輝く両翼を、一二度軽く羽ばたかせてから、グンッと力強く飛びあがった。
視界が何度か上下に大きく揺れ、ツキは怖くなって必死にセイロンの首周りの羽毛にしがみついた。
下方からささやかな歓声がツキの耳に届いていた。恐怖に竦めていた首を恐る恐る伸ばし、彼女はやっとの思いで遠くなっていく地面を見下ろした。
「ツキ様〜! ツーキーさーまぁー!!」
もうすでに眼下に見える人の影はゴマ粒ほどにも小さくなっていた。その中に見知った女官たちの顔があり、皆して大手を振ってツキを見送っていた。
他にも、彼女が名前も知らないような人たちがこちらを見上げ、ツキさまと呼びかける声が聞こえた。
何度も何度も。微かに届く音の片鱗がそのうち聞こえなくなり、彼らの姿がすでに見えない高度に至ってからも、ツキの耳には彼女を見送る皆の温かな声が木霊していた。
いつの間にか、ツキは目頭に熱いものが込み上げてきていたので驚いた。そうして、彼女は大きな声を上げてはじめて泣いた。
この世界に来て一年と数ヶ月の間、たくさんの辛い出来事があったのを思い返しながら、子どもみたいに泣きじゃくった。
初めて出会った人とは一切言葉が通じなかった。
足は鱗の付いた尾びれになっており、一人で歩くことすらできない事実を何度も腹の底で怨んでいた。
残して来た家族や知人にすまないという思いでいつも押し潰されそうだった。
いつしか話すことも忘れ、ただひたすらに自らの殻に籠もるようになっていってしまったけれど、思い出のすべてが悲しみでいっぱいだったわけではなかった。
今までずっと、ちゃんと「私」を見てくれている人がいたのだ。声をかけて、笑って、たくさんの幸せを持って来てくれた人がいた。でもそれを、私はただ言葉が通じないという理由で自分からはね返していたことに気づくまで、一体どれほどの時を無駄にしてきたのだろう……?
大きな声でツキは泣き咽びながら、温かいセイロンの羽毛に顔を押し付けた。まさにすがる思いで、その確かな温かみにしがみついていた。
空の彼方に飛び立った一つの大きな影が見えなくなると、今までツキを世話していた女官たちがその場にくずおれて堪え切れずに泣き出した。見かねた男たちが彼女たちを別室に連れていくのを、カイとリャオは黙って眺めていた。
「行ってしまいましたね……」
少しだけ、素直に感情を吐露できるあの女官たちを羨ましく思いながら、カイは誰にともなく呟いた。
「そうですなぁ」
リャオは目尻に細かい皺を寄せて、鬱陶しそうな長い髭を指先に巻きつけながら答えた。
「これで、セイロンも幸せになれれば僕も手放しに嬉しいけれど、世の中はどうも不公平のようですね」
「……」
「セイロン自身は何も悪いことをしていないのに、今後は歴史の闇に消えてしまう……もはや神を忘れた民にとって、封印を破ってしまった彼は恐怖の対象でしかない。彼の命を守るためには、帰ってきた彼を幽閉するしかありません……」
カイは眉を顰め、辛そうな表情を浮かべた。彼の目は、昇りはじめた朝陽で萌黄色に染まる空を一心に辿り、見えなくなった兄の姿を探していた。
「わしはあなた様の望むような解決法を知っていますぞ」
不意に、これまで沈黙を保っていた占い師のリャオが呟いた。カイは最初、リャオの言う意味がよくわからなかった。そこでもう一度聞き返すと、リャオは指に巻きつけていた髭を離して神妙な面持ちで彼の目を見返した。
「王子がツキ様同様幸せな生涯を送ることができ、なおかつその存在は、この世界から無き者になる最良のです。じゃがその代わり、あなた様とも一生お会いすることができなくなってしまいますがね」
「それは、本当に?」
「わしを誰だと心得ておりますかな? わしはこの世のことわり……占い師ですぞ」
リャオのつぶらな瞳が怪しくきらめいた。
カイは息をするのも忘れてその不敵な笑みの正体を見破ろうとしたが、ついにかなわなかった。
セイロンが透明な澄んだ高い声で一声鳴き、翼を大きく羽ばたかせた。
微弱な月の光を受けて真珠の輝き放つ彼の羽が数枚、眼下に広がる町並みに舞い落ちていくのをツキは涙で霞んだ目で見ることができた。
気づくとだんだん水平線上の空の色が変わり始めていた。
セイロンは高度を上げ、雲を突き抜けてただひたすら月が見えていた方角に前進した。
時を経るごとに、ツキの胸には希望が溢れてくるのが分かった。
そうだ、この先に今まで待ち続けていたものがある。
自然と、彼女の鼓動も早くなった。
地上ではそろそろ海に出たと思われる頃合に、端の見えない巨大な鏡が忽然と目の前に現れた。その大きく壮大な鏡は、ツキとセイロンの後方に広がる空の様子を鮮明に映し出している。
これが私の以前生きていた世界とここの世界との境い目なのだと、ツキは冷静に理解していた。そしてこの鏡の先に待っているのが私の故郷……。
ツキは瞼を閉じ、両親の顔を思い浮かべた。
セイロンの体に腕を回し、頬をあてた所から彼の脈打つ鼓動が伝わって来た。
ツキはセイロンと真剣に言葉を交わしたいと思った。彼と言葉を交わして、今までの感謝の気持ちを伝えたいと切に願った。私はあなたが大好きですと、愛してしまったんですと、なんの飾り気もない言葉をぶつけてみたら、彼はどんな顔をしてくれるだろうと想像した。しかし、そんな魔法のようなことが現実に起きるわけもない。
セイロンは心持ちゆっくりと世界の境い目に近づいていった。
──さようなら。
最後にツキの目から、真珠の玉が頬を伝って転がり落ちた。