ひとときの夜
「バカたれ——!!」
いぐさを敷き詰めた座敷にしわがれた怒鳴り声が木霊した。
セイロンは背筋をピッと伸ばし、 無言のまま師範の姿を目で追う。
師範は今年で七十歳になった老人で、すっかり禿げ上がった頭にはターバンのような長く薄い布が巻かれ、余り布が床に垂れている。
「精神が乱れておる! こんなんじゃどうしようもない。休憩じゃ!」
師範は呼吸をすこしも乱さず逆立ちすると、話し続けた。
「そのような態度で鍛錬など到底無理じゃ! このひよっこが。無理しおってからに」
師範は腰を下ろして胡座をかき、脂汗を滲ませたセイロンと向かい合った。
「師範……俺、俺は急いで呼び戻さ……ないと」
背筋を流れ落ちる冷めた汗に、酸素を求める空っぽの肺が、セイロンの開いた口からでる言葉を途切れ途切れにする。
「話は聞いておるぞ。それもこれも『人ざかな』のためらしいではないか」
「ツキです」
「ツキ、か。それの為にお前は王位を無くすのだぞ、ひよっこ」
「それでも構わないです」
師範は屈んでセイロンの顔を覗き込み、唸るようにしてそうか、とだけ答えた。
「そんなに決意が固いのならば仕方が無いな」
そんなにお前が惚れ込んでいるのならばなおさらじゃ。
ふぅ、と師範は彼にも聞こえるぐらい大きな溜息をつき、セイロンは拱手して深く礼をした。師範はその様子を黙って見つめていたが、突然もう良いだろうと言葉をもらした。
「この件が終ったら、お前は民衆の目から、更には宮廷内の者からさえも見えない奥深くに閉じ込められるという事を、知っておきなさい」
「承知」
師範はまた盛大な息をつくと、すっかり大きくなって大人びた王子の姿を見つめ、そういえば昔から負けん気が強かったことを思い出す。師範の目尻に、深いしわが刻まれた。
「もうわしの根負けじゃ。修行を続けよう」
「はいっ!」
師範の言葉を聞いて紫の瞳に喜色を浮かべたセイロンは、額に張り付いた前髪を払いのけて勢い良く立ち上がった。
ツキが十五回目の満月の光を浴びるまで、既にあと一周間もなかった。
「君がどう思っているのか知らないが、セイロンは満月の夜に封印を解いて天の彼方へとあなたを運びます」
カイは衛兵にリャオを街から捜させてくると、さっそくツキの通訳としてリャオを経由して話しかけていた。
「セイロンは封印を解くと、『妖鳥』に変化します。その辺りは知っていてもらいたかったのです」
カイの言葉を通訳してツキに伝えていたリャオが、彼を振りかえって『妖鳥』とは? と聞き返した。
「そうか、リャオ殿も占い師といえどそれは知りませんか」
カイは疲れの見える顔を少しだけツキの方に傾けて言った。
「千年もの昔に滅びたといわれていた鳥の獣です。その大きさはゆうに七メートルはあると言われています。昔は、人を食っていたという噂もあったそうですよ」
カイは悪戯っ子のように目を細めて笑った。話を聞いていたリャオの体が麻痺したように動かなくなり、口をパクパクと無意味に動かした。
「まぁ、噂でしかありませんよ。それに、現代までその話が民の間に伝わっていない所を見ると、あまり危害のあるものでも無さそうじゃないですか」
あっはっはとカイは声を立てて笑い、この旨をリャオに早く訳してツキに伝えるようにと急かした。
ツキはリャオから話を聞いて少しばかり首を傾げ、カイの目を疑い深そうにじっと見つめた。
彼女の瞳はいつものように真っ直ぐで力強いものだったが、体はいくらか青ざめているように見えた。カイはそれで、彼女が残り数日で死んでしまうのだと改めて思い知らされるのだった。
カイが思いを巡らせていると、リャオを通してツキが質問を投げかけて来た。
「王子は目的を果たしたらどうするのか尋ねていますよ」
とたんに、部屋に重苦しい空気が流れた。
結局、カイは無口になり、質問には答えずにお茶を持ってこさせようと言って立ち上がった。
ツキは部屋を出て行くカイとリャオを見送ってから、窓の外にきらめき始めた星々を見あげた。
十五回目の満月の夜より二日前の日。
深夜だというのに宮廷内はにわかに騒がしく、沢山の人々が動き回っていた。
ツキが存在する事は宮廷内だけの極秘事項だったために、準備は人々が寝静まった深夜に行われた。そしてツキは人々が深い眠りに入った真夜中に送り出す手はずになっている。
セイロンは浮かない顔で、ツキの部屋の前まで来て呆然と立ち尽くしていた。
この日は国王のはからいで、ツキは今日までに国を復興させた神の使いとして丁重に扱うという命が下っていた。
セイロンは深呼吸すると、鍛錬のために無数の傷がついた手で扉を押し開けた。
セイロンの中で長く眠っていた『妖鳥』の力はつい数日前までに呼び覚ますことに成功し、儀式までに何とか間に合わせることができた。
セイロンが部屋に入った瞬間、金木犀の甘い香りが広がった。
蝋燭の淡い光で満たされた室内で、ソファーに腰掛けたツキの姿が目に留まる。
女官の手によって取り払われたバスタブに替わり、大輪の花を活けた陶磁器の壷が白く狭い部屋を埋め尽くさんばかりに置かれ、月光に照らされて色取り取りの光を放っていた。
ツキは尾びれが十分隠れるほど長い絹のワンピース姿で、彼女の肩の上には幾重にも重ねた光沢のあるショールがかかっていた。
「ツキ……」
セイロンは呼びかけたが、思わず声が詰まってしまって、その後の言葉は上手く紡げなかった。
ツキは部屋にはいって来たのがセイロンだとわかると、居住まいを正して何か言おうと口を開いた。ツキが小さく頭を揺らすと、そのたびに彼女の編み込まれた黒髪に付いた髪飾りが明るい音を立てる。
セイロンは少し首を傾げ、ツキは憂いた面持ちをして彼を手招いた。
落ち着きのないツキの様子がセイロンも気にかかって、布を重ねた衣装を引きずるようにして彼女に近づいて行った。
「どうした?」
セイロンが精一杯優しく声を掛けると、ツキは少し戸惑った表情を浮かべ、しきりと扉のほうを気にしている。やはり何かがおかしいと思ったセイロンはツキの足元にしゃがみ込み、彼女の顔を覗き込んだ。そして、
「どうしたんだ?」
と同じ質問を繰り返した。
ツキはしばらく視線を泳がせていたが、ある一瞬を境にして真っ直ぐにセイロンの瞳を捉えた。
青白く痩せ細ったツキの冷たい手がセイロンの頬を滑った。ツキの向けるその愛しそうな眼差しに、思わずセイロンは釘付けとなる。
──愛しい人。彼女に気持ちを伝えるのに、言葉は要らない。
セイロンは一瞬にしてそれを悟り、どちらともなく顔を近づけていった。
唇が触れたのはほんの一瞬だった。それでもツキとのキスは冷たく爽やかで、甘い香りがした。ツキのことが狂おしいまでに愛しく、燃えるような眠っていた想いを目覚めさせられた。
今や相思相愛となったふたりの想いは互いに確かめられ、すべてが満たされても良いはずが、セイロンの心には更に深い穴が広がっていた。それは、たった数日を経て愛しい人は自分の手の内をすり抜け、消えてしまうという事実も手伝って、彼の中に満たされない欲望が膨れ上がっているからだった。
終いにはこの理不尽にも思える境遇に、だんだんと腹が立ってきさえした。
どうすることもできないと理性的な部分では分かっていたが、感情的な部分ではどうしても納得できなくて、セイロンは何かに抗うように己の唇をツキの唇に再び強く押しつけた。
部屋中に満ちた甘い香りが、湿度の高い空気に乗って時間と一緒に流れていった。
呪われた人魚と王子──愛し合う二人に残された時間は、あまりにも少なすぎた。