紙鳥
カイは宮中を抜け、用意されていた馬の鞍上に飛び乗った。塔の上の監視兵が海を見ているのを視界にいれ、集まった正規兵を率いて正門を駆け抜ける。
先頭を行くカイは並走する側近の男を見て口を開いた。
「向こうは何か要求してきたか」
「今の所は何も要求してきておりません」
「そうか」
カイは下り坂を少しも速度を落とさないで駆け下りた。視線をしきりに港に向けて気にかけていたが、突然顔色を変えて伝令兵を呼び寄せる。カイの後方に姿を現した兵は、騒々しい馬蹄の音の中でカイの言葉を拾おうと必死に耳を大きくした。
「国王陛下とセイロンに伝えよ。船はロムニカ国のものではない。直ちに応援を要請し、警鐘を鳴らすように伝えよ。わかったか!」
「はっ」
「よしっ、では行け!!」
伝令兵は巧みな馬術で隊列から一人外れると、馬首を返して城に引き返していった。カイはそのまま馬を叱咤し、港に厳しい視線を走らせた。
「カイ様。先ほどの話ではロムニカ国の船でないとすると偽装船ですか?」
眉を顰めた家臣がカイに聞いた。カイは彼の指摘に頷き、さらに説明を加えた。
「そう、しかも最近になって活発化してきた流冠だろう。あれは偽装船を使って入港し、町を襲う手段を得手していると聞いたことがある。今回も同じ手だ」
「我々は、奴らにまんまと出し抜かれたわけですね」
「いや、そうでもない」
カイは不敵な笑みを浮かべた。
「偽装したのがロムニカ国で良かったよ。我々はこうして細心の注意を払って交渉に臨むことができるからね」
彼は眼前に広場が見えてくると馬の手綱を緩めた。
広場には人が多く詰めかけており、誰もが怖いもの見たさでやって来ているのは目に見えていた。そこにカイが率いる兵隊が現れ、人々は思わずといったふうに道をあけた。
広場を抜けた先に見える港には流冠の海賊船が錨を下ろして停泊していたが、突然縄梯子が垂れたかと思うと、数人の人影が猿のような身のこなしで降りて来た。よく見ると彼らの手にはサーベルのような得物が光っている。それを認めたカイは、少し残念そうに零した。
「どうやらあちら側も、気づいていたみたいですね」
彼は帯剣をすらりと引き抜くと、馬上から海賊船の周りに集まる海賊を見据えて朗々と告げた。
「即刻この地を去ってもらおう。さもなければ、我々討伐隊の手により厳正な処分をくだす!」
カイが与えたせっかくの猶予も、海賊の下卑た笑いが答えだった。忠臣の顔色が剣を帯び、馬が嘶いた。
カイは深く息を吸い込み、声高らかに宣言した。
「剣を抜け! 我ら西劉の誇りにかけて!」
その瞬間王宮の鐘楼が警鐘を鳴らした。警鐘は港にも伝わり、大地を揺るがして山にまで木霊した。
一方王宮では伝令兵から話を聞き、鳴らされた警鐘を耳にしたセイロンが剣を手に無言のまま身動き一つとらなかった。緊迫した思いつめたような表情を見せまいとするように、彼はツキに顔を背けていたが、不意に気分を落ち着けようと用意されていた水を飲み干した。そうしてようやく彼は、ツキが濡れた瞳で見つめてきていることに気がついた。
窓から差し入る日光に照らされて彼女の透き通るような白い肌に、しっとりと水に濡れた黒髪が美しい輝きを放っていた。その長い黒髪がツキの体に張り付き、彼女の綺麗な体の線が浮き立って見えた。
一瞬、両者の間に静かな時間が流れた。
セイロンは戸口の傍に立ってツキを眺めていたが、ふとわざとらしく咳払いをして誤魔化した。
彼はゆっくりとツキの傍に歩み寄って行き、目の前までくると立ち止まった。視線を合わせるために膝を折ってしゃがむと、ツキの芳香がセイロンの鼻腔を優しくくすぐった。
「ツキ……」
思いつめた表情で呼びかけたセイロンに人魚は目を合わせた。
「何も心配することはない。お前は今なにか欲しい物はあるか? ……って、言葉がわからないよな」
心底残念だとセイロンは言葉ではなく表情で語った。
人の表情の変化に敏感になっているツキはそれでオロオロと視線をさ迷わせる。セイロンは彼女の様子に気づいて慌てて笑みを浮かべた。
しばらくツキに身振り手振りで語りかけ、彼女の誤解が解けるとセイロンはサイドテーブルをバスタブの傍まで引き寄せようとして、誤って料紙を床一面にばら撒いてしまった。
慌てて料紙を拾い集めにかかると、ツキが落ちていた一枚を手に取ってセイロンを見た。
「──ん? どうした?」
言葉だけでは伝わらないから、ツキの持っている料紙を指差しながら首を傾げて訊ねる仕種をする。ツキは少し困った顔をして紙を見つめた。
「紙が……どうかしたのか?」
セイロンが続けて聞く。彼の声にツキは反応してくれるが、彼女のいわんとすることがセイロンに伝わらない。それでも彼女が紙をどうにかしたいのだと察することができるので、セイロンは何も書いていない料紙をおもむろに差し出した。
今度はツキが小首を傾げて、いいの? と言っているようである。セイロンは微笑んで頷いて見せた。今みたいにツキが何かを求めることは今までなかったので、セイロンは少し興味を覚える。
ツキはまず、縦長の料紙を折って余った部分を切り離して正方形を作った。細長い彼女の指が手早く動き、器用に紙を折りたたんでいく。セイロンが生まれてこのかた、一度も見たことのなかった芸当だった。手品や何かではない。ツキの指先が、ただの紙を別の何かに変えていく。
あっという間に、平たい紙が細長い複雑に折りたたまれた形になってしまった。目を見張ってそれを凝視しているセイロンに、ツキはにっこりと微笑んだ。
カサカサと音をたてて頭と尻尾を作り、二枚の羽を広げた。いつの間にかツキの手中には小さな“鳥”がちょこんと座っていた。
セイロンが息を呑んで小さな鳥を見つめているのを、ツキは少し意外に思ったようだ。黙って折り鶴を乗せた手をグッとセイロンの前に差し出すと、きょとんと目を見張る彼に向かって鮮やかな笑みを浮かべて見せる。
さらにセイロンの持っていた剣を白い指で持ち上げて、ツキから改めてセイロンに手渡した。
剣と一緒に、ツキの手中にあった折り鶴がセイロンの手の上に乗せられ、セイロンはそれを優しく手で包み込んだ。
「……ありがとう」
セイロンは静かな声で呟いた。
彼は改めて小さな折り鶴を見つめた。悠然と青天の下を飛翔する、古文書に残された鳥の偉容が目に見えるようだった。
セイロンは折り鶴を用心深く懐にしまうと、一度強く握り締めた剣を腰に挿して立ち上がった。
「カイの元に行ってくる」
見上げてくるツキの視線を真摯に受け止め、彼は言うと踵を返した。
セイロンがツキの元に通ってしまうのは、きっと彼女の無言の眼差しに無償の優しさが詰まっているからなのだろう。そしてやけに居心地が良くなってしまったこの居場所を、誰にも奪われたくないと思ってしまうのも。
これまで国の繁栄を願い献身的にその身を捧げてきたセイロンが、その時一心に願ったのは国民の安全や家族の保身ではなかった。人知れず、密やかに城の片隅に囚われ続ける漆黒の髪と目を持つ、人ならざる人魚の幸せだった。
外に飛び出して行ったセイロンが門前に駐留する警備兵を押しのけて馬に跨ると、出陣を待つばかりの兵士たちに号令を下した。隊列を組み、速やかに進撃。
セイロンは殊勝顔で一同を振り返り、海風に髪をなびかせて隊列を見渡すと剣先を眼下に向けて号令と共に駆け出した。