流冠
西劉の西側を囲む広葉樹の森が赤や黄金色に色づいていたのが、ひと月もすると木々の葉が地に枯れ落ちて冬を迎えた。
収穫期も過ぎ、町はひと心地ついた穏やかな雰囲気に包まれていた。港には漁船が集い、すっかり冬景色となった山には春を迎える準備をするために山を越えていく動物の群れが見受けられた。
西劉は海から肌を切るような冷たい風が吹き込んでくるので冬の訪れも早い。
その冷たい風が通り抜ける中庭のところで、西劉国の少年王子もといセイロンは冴えない顔をして池を覗き込んでいた。
何度見直しても髪についた寝癖は取れない。
もともと柔らかくて癖のつきやすい髪質なのだが、水をつけていくらか梳かせば人の目を誤魔化せる程度におさまると思っていた。しかし、今日のように海からの風が強く吹き込む日はどうしてもうまくいかないようだ。
彼は中庭に人が来ないのをいいことに、しばらく水面に映る自分の髪を見ていたが途中で開き直った。
直らないのならいっそのこと海風のせいにしてしまえばいい。
気を取り直して身なりを整えると、背筋をしゃんと伸ばした。その視界に、風に飛ばされないよう重石が乗せられた料紙の束が入ってくる。
ぐるぐると腕を回し柔軟体操をしてからその束を取り上げ、セイロンはツキのいる部屋を目指してすでに通い慣れた道程をたどった。
王宮の中でもとりわけ人が少ない区域に入り、さらに奥まった場所に見える扉の前まで来ると、セイロンは中に一言声を掛けてから扉を開けて中に身を滑り込ませた。運よく今はツキの他に誰もいないようだ。
「ツキ」
セイロンは扉に寄り掛かったまま室内に優しく呼びかけた。
カイと最近では空いている時間が合わないので、ここにはよく一人でやって来るようになっていた。
いつもと変わらない場所に置かれた白いバスタブには透明な水が常にたっぷりと張ってある。その中に浸かるツキの姿は、遠くからでは普通の人間と何ら変わりない。
名前を呼ばれてツキがこちらに振り返り、声の主がセイロンだとわかるとにっこりと彼女は微笑んだ。
今度はバスタブの縁まで来て彼女の名前を呼ぶ。するとツキは優しく綻ばせた黒い瞳をセイロンに向けた。
ふと、セイロンは彼女に自分の名前を覚えてもらおうと思い立った。
さっそく手に持っていた荷物をすべてサイドテーブルの上に置いてバスタブの縁にしゃがみ込み、ツキと視線の高さを同じにして自分自身の顔を指差しながら「セイロン」と繰り返し名前を言った。
ツキは彼が何をしたいのか察して素直に口真似し、すぐに首を捻った。どうも発音の難しい部分があるらしい。
時間をかけて練習を重ねるにつれてらしくなってはきたものの、やはり舌が上手くまわっていなかった。
「ま、今日はここまでできれば上出来だな」
それでもセイロンは嬉しそうに微笑んで立ちあがった。
ツキも最近よく見せるようになった笑みを浮かべ、すぐ窓の外に視線をやる。つられて彼もそちらに目を向けた。
ツキに与えたこの部屋の窓からは海が広く見渡せた。
冬の海は波も高く色も暗い。その水平線にゴマ粒ほどの黒い影が見えた気がして、セイロンは淡い紫の瞳を眇めて目を凝らした。
──ある、確かにあった。船のようだがこの辺りの漁船か何かではないと知っている者ならすぐにわかる。船体もかなり大きそうだ。と、その時だった。
扉が勢いよく開き、呆然と立ち尽くすセイロンの視界にカイが飛び込んできた。何事かと彼が問う前に、カイは腰に挿していた剣を鞘ごと引き抜いてセイロンに持たせ、ツキの肩に大きな布を掛けた。そして両者を問答無用でバスタブの陰に押し込めようとする。
「なんだっ! どうしたんだ急に」
セイロンが目を白黒させているとその肩に手を置いて、カイは声を低くして言った。
「セイロンはここでこの子を守っていてください」
「だから何が起きたっていうんだ」
「僕はこれから港に向かい、交渉をしてきます。まさかここまで来ることはないと思いますが、どうかセイロンは彼女とここでじっとしていてください」
いよいよカイの話がわからなくなったセイロンは、剣のある鋭い目線でカイを射抜いた。
「私は事情を話せと聞いているんだ」
突然威圧的になったセイロンの声に、カイの表情がぐっと固くなった。彼に険しい表情をセイロンが向けると、カイはちらりと傍らに座るツキを見てからセイロンに視線を戻した。
「停戦しているはずのロムニカ国の旗を立てた使節船が、沖の方で確認されたんです」
彼の告白した事実にセイロンはハッとした。
「目的は分かりませんが、臨戦態勢をもって船を迎えるという王命です」
「だが、ロムニカ国が大砲を打ってくるという確証はないだろう?」
「それもそうですが、大砲を撃ってこないという確証もないんです。我々の知らない水面下でロムニカ国が力を蓄え、時期を見計らって来たのかも知れません」
とにかく、とカイは無理やり話を切り上げようとして回れ右をする。その手をセイロンはとらえた。
「待て、俺も行く!」
「それはダメです。あなたはここにいてください」
「なぜだ」
「そんなの当たり前じゃないですか。ツキは貴方に一番の信頼を寄せていらっしゃる。理由はそれだけで十分でしょう?」
さらに言い募ろうとするセイロンの腕を、今まで黙っていたツキの手が捉えた。驚くセイロンとカイの隣で彼女は交互に二人の顔を見やり、セイロンに向かってゆるゆると頭を振った。
まるで彼女が両者の会話を解し、激するセイロンに冷静になって諦めよと言っているかのような行為だった。
「……微細が判明次第、使いをやって連絡します」
カイはセイロンの手をはずすと、部屋を飛び出して行った。
セイロンは弟の広い背中を見送り、呆然とツキを見下ろした。すると濡れた黒い瞳が見返してきた。
セイロンは深く息を吐き、壁に背をつけて脱力するとそのままズルズルとツキの隣に座り込んだ。
「俺って、子どもだよなぁ」
思わず本音が飛び出した。そして自分で言った言葉でさらに落ち込む彼の髪を、ツキがくしゃくしゃっと少し乱暴に撫でそっと滑らかな白い額を合わせた。
髪の間に差し込まれた彼女の指は細く、額は冷たかった。
セイロンは瞼を閉じて、微かに笑みを浮かべた。
大丈夫だよ。
彼女がそう言っている気がして、心の中の焦りも自然と治まっていく。
カイに手渡された剣の柄を握る手に力を込めると、セイロンは瞼を開けてツキの目を覗き込んだ。
「そうだな。俺がしっかりしなければいけないな」
自身に言い聞かせるようにツキに語りかけ、目を細めた。
「ありがとう、ツキ。我を失っていたようだ」
そう言って微笑んだ彼は、もう十分立派な大人の顔をした男だった。ツキもそんな彼につられるようにして鮮やかな笑みを刻んだ。