新たな名前
あらかたの仕事をし終えたセイロンは、三歳年上で異母兄弟のカイと共に王宮内のとある一室に向かった。
小ぢんまりとしたその部屋の扉には大人の掌ぐらいの大きさをした銀盤が打ち付けられ、銀盤には鷲と孔雀の羽が交差する優美なセイロンの紋章が彫られている。
この室に入るとき、ノッポのカイはいつも少し屈まなければならないが、特別彼が何も言わないのでセイロンは部屋を移すよう指示しなかった。
ちなみにカイは言いたいことをはっきりと言うたちで、特にセイロンに対してはあっけらかんとしていた。
「昨日みたいに食事をしていなければ、俺は怒るかもしれない……」
セイロンは扉の前で少し立ち止まってカイを見上げると、自信の無い口調で予告した。
「おや、セイロン。言葉も通じないのにそれだとただ彼女を怖がらせるだけですよ。西劉は彼女が来てからは順風満帆。驚くほどの勢いで復興してきました。これが彼女と少しも関わりがないとはいいきれませんよ。僕たちは逆に彼女に感謝して敬うぐらいでないと……」
「ん、まぁ……そうなんだけどな」
二人は仕事で凝ってしまった肩をほぐしながら会話し、銀盤のプレートが打たれた扉を潜った。
いつものようにバスタブ脇のサイドテーブルの上には、箸をつけた様子のない料理が置かれている。それを見るといつも、無意識のうちにため息が漏れた。
頼むから少しぐらいは食べてくれと肩を揺すぶって言い聞かせたくなるのをぐっと我慢して、セイロンは今までも両目を瞑ってきた。胸の辺りに感じる鈍い疼きはこの頃では痛みに変化しつつある。
「また食べていないようですね」
カイがセイロンの隣で声色を落として言った。セイロンは適当に相づちを返し、バスタブのふちに気だるそうにもたれかかる少女の後ろ姿を見つめた。
「彼女は、俺たちが普段食すような食べ物を嫌うのか?」
ポツリと呟かれた彼の声にいつもの覇気が感じられない。カイはただ肩を竦めてセイロンを見下ろした。
二人は部屋の壁際にしつらえられたソファに腰掛けると、短い言葉でお互いの意見を出し合った。
「名前があった方が良いんじゃないか?」
ふとした瞬間に思いついた考えを、セイロンはカイに思いきって打ち明けた。
この国では個人の名前が神聖な意味を持つという考えが強く根づいている。そのためにセイロンは提案するかどうか一人で悩んだのだが、カイは意外とあっさりした口調でそうしましょうと賛同した。
カイの反応にそれまで気を張っていたセイロンは思わず脱力し、うらめしげに隣のノッポの男を見上げた。すると彼は口の端を上げて笑みを作っていた。
「ちゃんとした呼び名がない方がかわいそうですよ。僕たちは名前もわからない彼女をなんと呼んでさし上げればいいのですか? だいたい、僕は君がどうして早く言い出さないのか不思議でしたよ」
彼はセイロンの真意を確かめようと、藤色の瞳を覗き込んできた。セイロンは答えに詰まり、指先で頬を掻く。
カイはゆっくりと立ちあがると「仕事が残っていますので」と、やはり笑いながら部屋を出ていった。
部屋に残されたセイロンは「相変わらずマイペースな奴だ」と苦笑混じりこぼすと、欠け始めた月を眺める少女に注意を向けた。
名前をつけるとしたら何が良いだろう。
彼女に似合う名前はなんだろうかとしきりに頭を捻る。そして人に名前をつけるということがどんなに難しいことであるか、この時初めて思い知らされた。
ソファに深く沈んで黙り込んでいたが、月光に照らされる儚げな姿を見てセイロンは声を上げた。
「そうだ、“ツキ”だ……」
セイロンは大理石の床を蹴って波紋をつくるバスタブの傍に駆け寄った。
「今日からお前はツキだ!」
彼は気づかず喜びに声を張り上げていたらしい。
セイロンが叫ぶと同時に娘の小さな肩が震え、パシャンと盛大な水しぶきがあがった。今度はセイロンがビックリして目を見張っていると、上着を水に濡らして額に黒髪を張り付けた娘の向けてきた黒い瞳と目がぶつかった。
「すまない。驚かせてしまったな」
セイロンは苦笑を浮かべて急いで女官を呼び寄せ、柔らかいタオルを頭にかけてやった。きょとんとするツキは初めて会った時のようにじっとセイロンの双眸を見つめ、白いタオルの中ではにかんだ笑みを浮かべて見せた。
不意を突かれる形となったセイロンは、照れて子どものように前髪をいじるふりをして、思わず彼女から目を逸らしてしまった。
その日から、二人の間にささやかで穏やかな時が流れ始めた。
きっと本人が『ツキ』を自分の呼び名だと認識したからなのだろう。一日と経たないうちにその呼び名は部屋を出入りする者の間に浸透した。
セイロンが徹夜明けで国王夫妻の待っている広間に向かって回廊を歩いていると、ツキの世話を任せている二人の女官が興奮気味に話しているのを耳にして、思わず置物の影に身を潜めた。
立ち聞きは悪いと思いつつ、ツキについてどんなことが話されているのか単純に好奇心を覚えたのだ。
二人の女官はそう遠くない所で立ち話をしている。
セイロンは肩の高さまである大きな陶磁器の花瓶に背をぴったりと貼り付けて、活けてある色とりどりの花々に頭部を隠した。
「ねぇねぇ、お名前を呼んだらツキ様が振り返ったのよ!」
「それなら私だって! でも、『様』を付けると聞き取れないようなのね。キョトンとしてかわいらしいわぁ!」
「そうなのよね! わかってはいたのだけど私……どうしても『様』を付けないと、小恥ずかしくて……」
「あなたの言うこともわかるわ。ただ、お言葉を解されないからかしら……あまり笑って下さらないのが残念ね」
「そうよね。笑ってくださったらどんなにかお美しいでしょうね」
「えぇ。最近は以前よりも少しずつ食事を召し上がってくださるようになったから、遠くないうちにわたくしたちにも心を開いて笑いかけてくださるわよ」
二人の女官は神妙な面持ちで頷きあった。そこでようやくどこで話しているのか気づいたというように、二人は慌てて周辺を見渡したかと思うと足早に廊下の突き当りを曲って行った。
女官らの姿が見えなくなってから少し時間をおいて、セイロンは物影から顔を覗かせた。周囲に人の気配がないことを確認して、何食わぬ顔で広場に向かって歩き出す。
清閑とした回廊を通り抜けていくあいだ、セイロンは密やかな優越感に浸っていた。
瞼を閉じれば、ツキの涼やかな笑顔が目に浮かんでは消えた。
ツキは、少なくとも二人の女官たちにはまだあの朗らかな笑みを見せていないのだ。それだけで、セイロンの胸は温かいものに包まれた気がした。
朝食の席についてからも、セイロンの頭からツキの顔が離れることはなかった。
「セイロン、頭の上に花びらがくっ付いていますよ」
カイが魚の切り身を口に運びながらそれとなく注意すると、セイロンは指先で髪の毛を払った。ポトリと床に落ちた花びらを見て、彼の頬の筋肉が微かに緩む。
国王夫妻はそんな夢うつつの息子を見て訝しげに顔を見合わせると、
「箸が転んでもおかしいというような年頃なのでしょうか」
と、なんとも的外れな言葉を呟いたという。