堕ちてきた月
広い王宮のとある場所。人通りが少なく比較的隔離された東よりの海が見えるその室は、王宮では狭い部類に入るが、訪れた人の気持ちを寂しくするほど家具をほとんど置いていないので、いっそ清々しいくらい広く感じられた。
「またか……」
「……そのようですね」
溜め息をつき、痛む頭を抱えるようにして藤色の瞳をした少年が呟いた。彼が視線を向けた先には、少しも手がつけられずに冷たくなった料理が運ばれてきたままの姿を残していた。
心なしか料理に添えられた花がぐったりとしているのを見て、少年は遣る瀬無い思いに沈む。
狭い室内に二人分の溜息が漏れた。
「なぜあそこまでかたくななのか。少しでも食わねば死ぬのだぞ」
まだあどけなさの残る外見に似合わず、少年の話す言葉は子どもらしさが微塵も感じられ無い。外見の割には、どこか大人びすぎていた。
「さぁ、僕にも分かりかねます……」
少年の隣に立つひょろりと背の高い青年は、返事の語尾を濁した。
彼らが視線を向ける先には、水をいっぱいに張ったバスタブから身を乗り出す黒髪を濡らした少女の姿があった。
少女はその黒い瞳に窓の外の景色を映して微動だにしない。
日の沈んだ空は雲も流れずまったりとしていて時間を感じさせなかった。それでいて、何かに置いて行かれそうな物寂しい感覚を見上げる人に与えた。
「いったい、何を待っているんだろうな……」
「そうですね……」
二人は肩を竦め、視線を交わすと部屋を出て行った。
二人が心配していた少女は四本足の付いたバスタブの中からぐっと身を乗り出して、大きな嵌め殺しの窓から、丸く、少し欠けた月を見上げた。
瞬きもせず、一心に彼女はその大きな黒い瞳で夜空に浮かぶ青い月を見つめ続けている。
零れ落ちる月光に照らされて、少女の唇が薄く開いた。けれど、彼女の口から言葉が声となって紡ぎ出されることはなく、ただ、その胸中に答えの見えない疑問がぐるぐると渦を巻いているようだった。
少女は月に向けていた視線を引き剥がして、ゆっくりと視線を下へ向けた。本来ならそこにあるはずの二本足はなく、バスタブの水に浸かった彼女の下半身は醜くも美しい、青銀に輝く鱗の付いた一本の尾びれだったのである。
暖炉に新しい薪が足され、火が勢いよく燃えあがった。その熱気で室内がだんだんと暖まり始める。
壁は白く、立派なカシの一本木がそのまま柱として使われていた。部屋には広い執務机と天井に届くほどの大きな書棚が壁いっぱいに置かれている。王宮の一室としてはずいぶん簡素な内装をしている。その中で、黙々と執務をこなす少年がいた。
「セイロン様。お茶をご用意しました」
控え目な声と共に扉が開き、顔を伏せたまま女官が手早く茶器に熱いお茶を注ぐ。そして何も言わずに静々と部屋を出て行った。
セイロンと呼ばれた少年は軽く息をついて、女官が淹れて行ったお茶を手に取った。赤銅色の茶器を手で包み込むようにして口元に運びながら、無意識のうちに窓の外に目を向ける。
(前はこれほど月なんて見なかったのだが……)
けれどもこうして青白い光を放つ月を見つめていると、彼は少女を見つけた時のことを自然と思い出せるのだ。
セイロンは椅子に深く座り直すとお茶を飲み、やさしい月明かりの下で古い本を手に取った。
去年の夏のこと、西劉はいままで経験したことのない大きな地震に見舞われた。
人が立っていられないほどの激しい揺れがおさまり、気がついたときには国内の家屋の大半が壊滅していたという状況で、死人が山のように出た歴史的な大災害となった。
もともと宝石や装身具の加工技術に秀でている西劉にはいくつもの工房が点在し、窯も高温に耐えられる堅固なものが多かったが、老朽化が進んだ窯も少なくなく、震災後は大きな火災が各所で頻発した。死者の多くがこの時の火災に巻き込まれ、逃げ遅れて煙を吸ってしまい命を落とした。
こうした火事などの二次災害による被害を最小限に抑えるため、また敵国からの侵略を回避することに重きを置いたため、後にはわずかな国力しか残らなかった。
復興のための金や食料などといった物資はすぐに底をつき、絶望的状況だったといえる。
急遽宮廷の朝議に召集がかけられ、国王と息子である第一王位継承者のセイロン、第二王位継承者のカイ、そして大臣らと参謀を合わせて二十余名が集まった。
朝議は普段より何時間も長引き、その場にいる誰もが顔に焦りの色を浮かべていた。
朝議は被害状況の報告にはじまり、家が崩壊してしまった国民の今後の対応へと話が進んでいったが、一進一退を繰り返すだけでいっこうにまとまりと見せない大臣たちの意見のやり取りに、今まで黙って耳を傾けていた国王が手を上げて彼らを黙らせた。
まことしやかな顔つきで国王がゆっくりと口を開き、告げた。
「そなたらの話を聞き、今の我々に打てる手が極めて少ないのはよく理解できた」
室内は水を打ったように静まり返り、国王は向けられた視線を真っ直ぐに受け止めた。
「民が我々に望むのは早急な水と食料の調達・確保。そして雨を凌ぐ屋根であろうと余は考えるが、いかがか」
国王は室内をぐるりと見回し、誰一人異議を唱えないのを見て、すうっと息を吸い込んだ。
「余は、直ちに連合国や災害被害の少なかった諸国に書状を送り、救済援助を請おうと思う」
室内に短い沈黙が降りた。少しして、一人また一人と賛同の手が上がった。国王は強面のまま頷くと、悠然と席から立ち上がった。
何枚も重ね着した重そうな着物がさらさらと気持ちよい音を立てて擦れる音がした。
「ではここにいる全員に、余は使者としての命を与える」
確固たる態度の王が告げた宣言を耳にして大臣らは体を硬直させ、セイロンやカイは目を丸くした。
それほど今回の王命は思いもよらぬものだったのだ。
大臣の席を一時的とはいえ、すべて空席にすることは前代未聞だった。大臣たちは戸惑いを隠せずに囁きあい、不穏な空気が一瞬流れ込んだ。
そんな中にあって、突然椅子から立ち上がった男が果敢にも国王に異議を唱えた。
「陛下。無礼を承知で意見させていただきますが……確かに、隣国へ救済を請う書状を送ることに関してはわたくしも賛意を表します。しかしよくお考えください。我が国は今、とても危険で不安定な状態にあり、大臣にはそれを立て直す職務と責任がございます。中央が機能しないのでは国として回ってゆきません。どうか、大臣派遣をお考え直しくださいませ!」
その男は大臣たちの中で、まだ若い文部官だった。
国王は彼の意見を静かに傾聴し、目蓋を閉じたまま動かなくなった。その沈黙があまりにも長いものだったので、文部官の反り上がっていた背はだんだんと下に向かって弓なりに曲がり、ついに顔が下を向いて表情がわからなくなってしまった。
しばらくしたのち、国王が目蓋を上げて円卓の周りに並ぶ顔を見渡して口を開いた。
「今の状況がわかってもらいたいから言うが……我々は、物資が欲しいとはいえ資金が無い。よって、今までのように他国と売買できる対等の関係ではない。つまりそれは、諸外国の民草から食料や木材を無償で貰い受けたいと頼みに行くということだ。今回の大地震を受けたのは西劉のみではないということをおのおの承知しておろう。たとえ兵士を五六人見繕って送ったところで、彼らは何の成果を上げることもできずに、ただ手ぶらで帰されるだけだろう。向こうの御国にとっても貴重な食料や物資なのだ。そうそう手放してくれないに決まっている。しかし今、我々も緊急時にあり早急な支援を要しているのだ。そなたたち我が国の権威が向かわずして誰がゆく」
いつの間にか深いしわを眉間に刻んだ王が、再び大臣の一人一人の顔を見回し、セイロンとカイと目が合ったところで止まった。真っ直ぐに二人の目を見つめると、国王は厳しい口調で言った。
「セイロン、カイ。お前達にも出向いてもらうぞ。次期に余の後を継ぎ、立派な時世を築くことになるお前達に、余から与える大きな試練だ。どんな危険な目に遭うか知れんが、それぞれに漠邦と厘へ向かってもらう。よいな?」
「はい」
セイロンとカイは、同時に力強く返答した。こうして二人の王子が国王から命を賜ると、大臣たちもようやく重たい腰をあげて腹を据えたようだった。そのあとは驚異的な早さで話が進んでいった。
議会が散会してすぐに、大臣たちは個々に短い旅の支度を始めた。
セイロンも普段宮内で身にまとっている重い衣装を脱いで、身動きのしやすい旅衣装に着替えた。彼は黒いマントの袖に腕を通すと、鷲と孔雀の羽が交差する紋章付きの剣を手にして部屋を出た。
外は日が頭の上まで昇りきり、すでに沈もうと西の空へ傾き始めていた。遠くに望める森は青々と生い茂り、夏の匂いがする爽やかな風が駆け抜けていく。
裏門のそばには既に逞しい足をした軍馬と荷物が用意されており、そこで三人の護衛が待機していた。
セイロンが姿を現すと誰もが体を固くし、軍人らしいきびきびとした動きで敬礼をした。セイロンは彼らに挨拶を返したあと、軍馬を見て一言いい馬だと褒めた。それを彼らがどう受け止めたか彼ら自身よりほかは知らない。
「さぁ、行こう」
セイロンが用意された黒毛の軍馬に跨り、手綱を引いた。
そして一行は漠邦へと向かった。
漠邦は、南端に位置する海と山と砂漠が隣り合わせの大きな貿易国である。
そこには人や物が溢れ、一日に何百何万という金が動く商業都市として発展していた。そして昔から富民と貧民が混在する国でもある。
セイロン達が漠邦へ赴いて直接国王と掛け合い、西劉に食料を中心に寄与して欲しいと頼み込んで了承してもらうのにいくらもかからなかった。それは、少なからず西劉の宝飾具を漠邦の宝石商が高く評価し、長い歴史の間に築きげられてきた信頼があったから成せた交渉だった。
その後、一行は息つく暇もなく富と財宝の都市を発ち、緊迫する西劉まで辿る道を使者を乗せて馬は疾走した。
途中、険しい山道を四人が列を組んで進んでいくと、空の色がだんだん怪しくなってきた。
雨が凌げる場所はないかと一人の兵士を偵察に向かわせ、その後を一行は足早に辿った。
しばらくして偵察に行かせていた兵士が青ざめた顔をして戻って来た。彼はセイロンの前まで来ると、わずかに取り乱した様子でこの先に死体が転がっていると報告した。
「何故だ……?」
「わ、わかりません。ですが娘のようでした。そのぅ、下半身が……ありませんでした。死んでいると思われます」
「……わかった。すこし様子を見ていこう」
セイロンが命じると、気弱なその兵士はあからさまに顔を引きつらせて、隊のしんがりを努めると申し出る始末だった。
一国を背負う者としては、隣国の情勢や国情のわずかな変異やその兆しにも暗くてはいけないと、子どもながらに理解しているのだ。
セイロンは一帯に不穏な空気が流れるのを知りながら、意見を変えようとはしなかった。
一行は予定を変更し、道を外れて細い獣道を進んで行った。
空に厚い雲が垂れ込み始め、森の中は夜のように薄暗く静まりかえっていた。雨が降り出す前の、暗い森の青臭い匂いが立ちこめていた。
「何処で見た?」
セイロンはなるべく声のトーンをおさえて、最後尾をついてくる兵士に問うた。
「たしかこの辺りです。少し開けた場所でしたのですぐにわかると思います」
兵士の返事を聞いてから、少しもしないうちに彼が言うものは見つかった。
遠目にぼんやりと白い影が見える。
「あれか?」
セイロンが念の為に兵士に確認すると、彼は血の気の引いた顔をして何度も強く頷いて見せた。
一行は馬の腹を軽く蹴って疾駆し、湿った下草を散らして『死体』を確認しに向かった。
ぽつぽつと頭上に生い茂る楓の葉に落ちる雨音が聞こえてきた。
しだいに雨足が強くなってきたようだ。すでにマントの肩口がぐっしょりと濡れていた。
セイロンは馬の手綱を緩めて鞍から降りると、馬を雨に濡れないように木の下に繋げた。そのあとに兵士も続き、セイロンはそんな彼らを放ってさっさと木が生えていない少し開けた場所に向かった。
雨に濡れた土は柔らかい腐葉土で、踏み出した足を柔らかく包み込んだ。
大粒の雨が少年の髪を濡らし、額に濡れた前髪が張り付いた。彼は前髪をぞんざいに払いのけると土で薄汚れた白いものが横たわるそばまで歩いて行った。
白いものは『死体』の纏う布生地だった。その衣服の袖口からはか細い象牙色の手が覗いている。
しゃがみ込んだセイロンが何の迷いも無くその手をとって脈をはかるのを見て、第一発見者である兵士はその目を驚愕の色に染めた。さらに肩を怒らせて振り返ったセイロンを見ると、今度は空気が抜けたようにその大きな体を萎縮させた。
「お前、近くに来て確認しなかったのか?」
「危険はないと判断しましたので……申し訳ありません」
罰がわるそうな顔をして謝る兵士に対し、セイロンは冷めた目を向けた。その他の兵士たちは馬のそばに立って無言で待機している。
セイロンが立ち上がり目配せをして兵士をすべて呼び集めると、視線を目先の兵士から、足元へ向けて言った。
「これのどこが死体だ」
月光に照らされた少女の顔は白く、とても柔らかそうだった。胸が微かに服の下で上下しているところを見ると、なるほど死んでいるわけではないようだった。
「しかし奇妙ですね。下半身だけが土に埋もれているなんて」
セイロンの隣に立った兵士が首を傾げた。
そのことは彼と同様にセイロンもまた疑問を感じていた。
「付近で人狩りがあったとは思えませんから、その犠牲者ではないと思いますが……」
「とにかく掘り出そう。かなり衰弱はしているが、ちゃんと生きているのだ」
「は、承知しました」
三人はすぐに積み荷の中から適当な物を取り出してくると、少女の脇に座って土を掘り返し始めた。
少女の下半身がどのようにして埋まっているかわからなかったので、はじめは慎重に作業をし、柔らかい土をよけて小さな山をいくつか作っていった。
セイロンも兵士と一緒に作業を手伝った。
目の前で人一人の命の灯が消えかかっているのに、一国の王子だからといってのうのうと傍観していられなかったのだ。
男四人の手にかかれば、少女の下半身を掘り起こすのにそう時間はかからなかった。
途中で何度か娘が目を覚ましたが、セイロンが取り出した水を飲むとすぐに目を閉じてしまった。
しばらく掘り進めていくと、土を被っていたものが表に現れた。
すぐ近くで固い物が土の上に落ちる音を聞いて、セイロンは面を上げた。
「ど、どういう事でしょうかこれは……」
そこには手に持っていたスコップを放り出した一人の兵士の姿があった。
「足では、ないだと?」
「これはまさしく異端の者だ。人間ではない」
三者三様の言葉が兵士の口から飛び出したが、セイロンが何も言わないでいるので最終的には誰もが言葉を詰まらせて黙り込んだ。
「王子、これは……」
もう一人の兵士が生唾を飲み込んで、土から掘り出されたばかりの娘の下半身を覗き込みつつ言葉を探しているようだった。
彼の向ける視線の先には、泥にまみれた青白い鱗が鈍く光っていた。
「今すぐに始末するべきでしょう」
後ろのほうで兵士が声を荒げた。
「王子に災いが降りかかってしまうかもしれません!」
その時、薄っすらと娘の瞼が開いた。セイロンは彼女を雨から少しでも守ろうと身を乗り出していたので、すぐに少女と目が合った。
彼女の目は今まで生きた中で一度も目にしたことのない深い漆黒の色をしていて、セイロンは一瞬でその瞳に惹きつけられてしまった。
「おい、大丈夫か」
「王子! 近づいてはなりません!」
「黙れ!」
思わずセイロンは棘のある冷たい目で兵士を睨みつけ、怒鳴るようにして男たちを黙らせた。
この娘はただ生きる為に助けを求める弱き者ではないか! と、彼らに本当は怒鳴りつけてやりたかった。どうして自分より長く生きているはずの大人のお前たちにはわからないのかと。
セイロンは淡い藤色の瞳を再び娘へと向け、やさしく声をかけた。声を掛けられた少女は彼の双眸をじっと見つめたかと思うと、何かを確かめるようにそっと口を開き、セイロンの聞いたこともない国の言葉で語り出した。
この娘は我々と言葉が通じないのだとセイロンはすぐに理解した。少女もまた同じことを理解したらしく、黒い瞳を落胆の色に染めると瞼を閉じて黒い瞳を隠してしまった。
少女の頭を抱えてじっとしたまま動こうとしないセイロンをひとりの兵士が呼びかけ、少年はゆっくりと立ち上がった。
暗くなった空を見上げれば、あれほど雨が降っていたというのに頭上には紺碧の空に黄色い満月がかかっていた。
──これが、彼女との初めての出会いだった。