婚約破棄されたので、落日の扉を開けて帰らせていただきます ~前世は夜勤明けの救急ナース、瀕死の竜と結界都市を再建します~
「アデライド・フォン・エルデンハイム。お前との婚約を破棄する」
沈む夕陽が、王宮の大広間を血のように赤く染めていた。
その落日の刻、王太子ジェラルドが高らかに宣言する。金髪碧眼、見栄えだけは立派な男が、勝ち誇った顔で私を見下ろしていた。
「お前のような『価値のない結界術士』は不要だ。私は、魔力の輝く聖女リリアーヌを妃に迎える」
彼の隣で、金の光をきらきらと放つ令嬢がしなを作る。
「まあ、殿下ったら……わたくしなんかで、よろしいのですか?」
リリアーヌ。なるほど、確かに派手だ。
(──派手だなぁ。でも、あの魔力、制御ゼロだけど)
私は眉ひとつ動かさなかった。
周囲の貴族たちがざわめく。「まあ、あの地味な……」「当然の結末ですわね」。侮蔑の視線が、雨のように降り注ぐ。
だが、正直に言おう。
この程度の修羅場、私にとっては「まあ、いつものこと」なのだ。
なぜなら私には、前世の記憶がある。
浅野明日香。日本の救急救命病棟で、夜勤に追われ続けた看護師。深夜のナースコール地獄、同時多発する急変、理不尽なクレーム、記録の山。そして──過労死。
そんな地獄を潜り抜けた身からすれば、衆人環視の婚約破棄など、正直、点滴の滴下速度を間違えた新人を叱るほうがよほど神経を使う。
「聞いているのか、アデライド! 貴様の地味な術など、なんの価値もない!」
ジェラルドが苛立たしげに声を張り上げる。
私は静かに顔を上げ、一礼した。
「──わかりました。では、辞めさせていただきます」
大広間が、しんと静まり返った。
泣きすがるとでも思ったのだろうか。ジェラルドが呆けた顔をしている。
(辞表提出、完了。有給消化はできませんでしたが、まあいい)
私はドレスの裾を翻し、落日に向かって歩き出す。
「……は? ま、待て、アデライド。どこへ行く!」
「どこへ、と申されましても」
振り返らず、私は言った。
「価値のない結界術士は、不要なのでしょう? では、価値を認めてくださる場所へ参ります。──ああ、そうそう」
そこで一度だけ足を止め、肩越しに微笑む。
「エルデンの国境結界、今夜からは、どなたか別の方が維持なさってくださいね。……できるものなら」
それが、王国の終わりの始まりだと、この時、誰も気づいていなかった。
◇
王都を去るその足取りは、驚くほど軽かった。
「お嬢! 本気で辞めちまうんですか!?」
追いかけてきたのは、そばかす顔の若い従者コルト。幼い頃から私に仕えてきた、唯一の理解者だ。
「本気も本気。もう決めたの」
「でも、お嬢が抜けたら王都の結界は……」
「崩れるでしょうね」
私はあっさりと言った。
「あっさり!? そこ、もうちょっと悩みましょうよ!」
馬車に揺られながら、私は前世の記憶を反芻していた。
トリアージ。
災害医療の現場で、限られた資源をどう配分するか。誰を先に助け、誰を後回しにするか。冷徹なようでいて、それは「最大多数を救う」ための、最も優しい選別だ。
「守る価値のない場所に、術式は注がない。トリアージよ。限られた資源を、どこに配分するか。それだけ」
これが私の行動原理。前世で叩き込まれた、生き残るための思考。
私を「無能」と侮り、私の術を「地味」と嗤ってきた王都。私が夜通し結界を維持し、魔物を退けていたことすら知らずに。
そんな場所に、私の残りの人生を注ぐ理由が、どこにある?
「お嬢、また徹夜で結界張ってた頃を思い出しますよ。倒れても俺、救急車呼べませんでしたからね」
「この世界に救急車はないでしょ」
「そこ、ツッコむとこですか!? ……で、どこへ向かうんです?」
私は地図の一点を指した。王国が見捨てた辺境。落日にのみ現れるという『開かずの扉』の伝説の地。
「結界都市エルデン。私の名の由来の地。……行くわよ、コルト」
「うわ、めちゃくちゃ辺鄙じゃないですか。何もないですよ、あそこ」
「何もない場所ほど、一から作れる。前世で言うところの──更地からの新規開業ってやつよ」
馬車は、赤く燃える地平線へと進んでいく。
その先に、数百年の孤独に朽ちかけた、一頭の古竜が待っていることも知らずに。
◇
「──もう、誰も来ないと思っていた」
低く、地を這うような声だった。
落日の刻、エルデンの奥地。伝説の『開かずの扉』の前で、私はそれと出会った。
全長数十メートルの、黒鱗の古竜。
だが、その威容は見る影もなかった。鱗は剥がれ、翼は破れ、金の瞳は濁っている。荒い呼吸が、風前の灯火のように震えていた。
「お、お嬢! 竜! 竜ですよ! 逃げ──」
「静かに、コルト」
私はすでに、竜の傍らに膝をついていた。
観察する。呼吸数、多い。体温、低下。鱗の色、蒼白。魔力の脈動、微弱で不整。
(呼吸数、多い。体温、低下。魔力の脈動、微弱で不整。──これは、瀕死だ)
「人間か……去れ。我に構うな。もう、何もかも、どうでもよい……」
竜が力なく威嚇の唸りを漏らす。だが、その声には諦めしかなかった。数百年、この地で一人。誰も訪れず、ただ朽ちていくのを待つだけの孤独。
ああ、と私は思った。
この目を、私は知っている。
救命の現場で、何度も見た。「もう死なせてくれ」と呟く、生きることに疲れ果てた患者の目。
(そういう目をした人ほど、本当は──誰かに、生きてほしいと言われるのを待っている)
私は術式を展開した。
光を伴わない、地味な結界術。だがその糸は、精密に、竜の弱った魔力経路を包み込み、支え、整えていく。
「な……これは……我の、魔力循環を……?」
「喋らないで。体力を温存して」
淡々と、私は処置を続ける。前世の救命知識と、この世の結界術。二つの技術が、竜の命を繋ぎ止めていく。
どれほどの時が経っただろう。
やがて、荒かった呼吸が、静かに整い始めた。
濁っていた金の瞳に、光が戻る。
私は額の汗を拭い、ふう、と息を吐いた。
「──バイタル安定。とりあえず生きてください。話はそれから」
竜は、しばらく呆然と私を見つめていた。
数百年、誰も来なかった地で。誰にも必要とされなかった孤独の底で。
この小さな人間の娘だけが、当たり前のように、自分の命を掴んで離さなかった。
「……なぜだ」竜が掠れた声で問う。「なぜ、我を助けた。見返りもなく」
私は少し考えて、答えた。
「目の前で死にかけてる患者を放っておけないのは、職業病なので。前世からの」
「ぜんせい……?」
「気にしないで。それより──あなた、名前は?」
古竜は、長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「……ヴォルグ」
「ヴォルグね。よろしく。私はアデライド」
落日が、二つの影を長く伸ばしていた。
この出会いこそが、失われた古代術式の扉を開く鍵だと──まだ、誰も知らない。
◇
一方その頃、王都では。
「なぜだ! なぜ結界が崩れる!? 聖女リリアーヌ! 早く結界を張り直せ!」
ジェラルドの怒声が、王宮の一室に響き渡っていた。
アデライドが去って三日。王都を守っていた国境結界が、まるで糸が切れるように、次々と崩壊し始めていた。
「そ、そんな……わたくし、やり方が……」
リリアーヌは、きらきらと金の光を放つばかりだった。派手に、華やかに。だが──ただ、それだけ。
光は溢れるのに、結界は一枚も張れない。
「輝いてどうする! 結界だ、結界を張れと言っている!」
「で、でも、わたくしの魔力はこんなに輝いて……いつもこれで褒められて……」
「輝きなど、なんの役に立つ! ……っ」
叫んでから、ジェラルドは凍りついた。
自分が今、口にした言葉。
──輝きなど、なんの役に立つ。
では、あの地味な結界術は。光ひとつ伴わなかった、アデライドの術は。
「報告! 国境の第三結界、崩壊! 魔物の群れが侵入! すでに東の村が三つ、壊滅!」
伝令が駆け込んでくる。次々と届く、崩壊の報せ。
ジェラルドの背筋を、冷たいものが走った。
「……第三結界だと? あんな複雑な多重結界を、誰が維持していた……?」
古参の魔術師長が、青ざめた顔で進み出た。
「殿下……申し上げにくいのですが。国境の全結界、その八割は……アデライド様が、お一人で維持しておられました」
「なに……?」
「地味で目立たぬ術ゆえ、誰も気に留めませんでした。ですが、あの精密さ……あれほどの結界を独力で織り上げられる者は、この王国に、もう……」
ジェラルドの膝が、がくりと折れた。
「あの地味な結界……全部、彼女が……一人で……?」
窓の外。かつてアデライドが守り続けた王都の空に、魔物の影が差し始めていた。
失ってから、ようやく気づく。
だが──もう、遅い。
◇
エルデン辺境の、古びた庵。
「やはり、あなたでしたか」
白い長髭の老人が、感慨深げに私を見つめた。老賢者マルドゥーク。この地で古文書を研究する隠者だという。
「あなたの結界術。あれは『地味』でも『無能』でもない。──失われた古代術式。竜と契約せし、太古の結界術士の、正統なる継承ですぞ」
「……古代術式?」
私は眉をひそめた。ヴォルグが、傍らでぴくりと反応する。人化した彼は、漆黒の長髪に金瞳の美青年だ。……なぜか、さっきから私の隣を一歩も離れない。
「『落日に開く扉』の伝説をご存知か」マルドゥークが続ける。「あれは、古代の結界術士だけが開ける、竜との契約の門。世界を守る、最後の鍵。──光を伴わぬ精密な結界こそ、その資格の証なのです」
「じゃあ、私がずっと『地味』と嗤われてた術は……」
「世界で最も貴い術式。ただ、この時代の者どもが、その価値を見抜けなかっただけ」
私は、静かに笑った。
そうか。私は無能だったわけじゃない。
ただ──価値のわからない人間に、囲まれていただけ。
「そう……私は無能だったわけじゃない。ただ、価値のわからない人間に、囲まれていただけ」
「アデライド」
ヴォルグが、私の名を呼んだ。金の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「我と、契約せよ。落日の扉を、共に開こう。……お前となら、もう一度、この世界を守れる気がする」
数百年、「もう誰も来ない」と諦めていた古竜。
その孤独が、今、確かに救われようとしていた。
私は手を差し出した。
「いいわ。ただし、契約後もちゃんと定期健診は受けること。あなた、まだ完全回復してないんだから」
「……相変わらず、色気のない条件だな」
「命に関わることに色気はいらないの」
その瞬間──落日の光が、扉を照らした。
開かずの扉が、数百年ぶりに、音もなく開いていく。
あふれ出す、古代の魔力。
それは、私の地味な結界術と共鳴し、天を衝く光の柱となって、エルデンの空へと立ち上った。
「気づかなかったのは──あなたたちでしょう?」
王都の方角を見やり、私はぽつりと呟いた。
沈黙は、無能ゆえではなかった。
ただ、価値のわからぬ者に力を注ぐことを、やめただけ。
◇
それからの日々は、忙しかった。
いい意味で。
「コルト! 井戸の水は必ず煮沸してから飲むよう、住民に徹底! 生水はダメ、絶対!」
「あいよ! でもお嬢、なんでそんな細かいこと……」
「感染症で人がバタバタ倒れる前に、防ぐの。予防に勝る治療なし。前世の常識よ」
竜との契約を果たした私は、エルデンの再建に本腰を入れた。
ヴォルグの守る難攻不落の結界。その内側に、私は前世の知識を注ぎ込んでいく。
上下水道の整備。ゴミの分別と処理。手洗い習慣の普及。診療所の設立と、傷病者の重症度別対応──そう、トリアージだ。
「アデライド様の街では、病で死ぬ者が激減したそうだ」
「あんなに清潔な都市、見たことがない」
「聖女様の輝く王都より、よほど暮らしやすいぞ」
噂は、瞬く間に広がった。
王国に見捨てられた辺境の廃都は、いまや人々が押し寄せる、繁栄の理想都市へと生まれ変わっていた。
「お嬢、また流民が百人来ましたよ。受け入れます?」
「トリアージして、健康な人から順に住居を割り当てて。病人は診療所へ。──守る価値のある人は、全員守る」
「かつては『守る価値のない場所には注がない』でしたのにねぇ」
コルトがにやりと笑う。私も、少しだけ笑った。
「……ここは、注ぐ価値のある場所だもの」
傍らでは、ヴォルグが不機嫌そうに私を見ている。
「アデライド。お前、最近、我より街の者と話す時間のほうが長くないか」
「国宝竜が拗ねないの。……はぁ、甘えん坊なんだから」
私が頭を撫でると、巨竜は──ごろごろと、喉を鳴らした。数十メートルの古竜が、猫のように。
落日が、繁栄する理想都市を、金色に染めていた。
そこへ、一頭の疲れ果てた馬が、駆け込んできたのは──その時だった。
◇
「アデライド! 頼む、王都を助けてくれ!」
馬から転げ落ちるように現れたのは、ジェラルドだった。
かつての傲慢な王太子の面影はない。泥にまみれ、憔悴しきった顔で、彼は私に泣きすがった。
「結界がすべて崩れた! 魔物が王都に迫っている! お前の術がなければ、みんな死んでしまう! 頼む、戻ってきてくれ!」
私は、静かに彼を見下ろした。
落日を背に。
「……リリアーヌ様は、いかがなさいました?」
「あ、あの女は逃げた! 輝くだけで、何ひとつ守れなかった! 役立たずだったんだ!」
「あら」
私は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「役立たず、ですか。どこかで聞いた台詞ですね。──ああ、そうだ。あなたが私に言った言葉と、同じです」
ジェラルドの顔が、凍りついた。
「た、頼む……お前だけが頼りなんだ……お前を妃に迎える! 元通りだ! だから──」
「元通り」
私は、繰り返した。
そして、微笑んだ。
前世で数えきれないほどの理不尽を受け流してきた、鋼のメンタルで。深夜のナースコール地獄を生き抜いた、あの頃と同じ静けさで。
「だが、断る」
落日の光が、私の背後で燃えていた。
「……なっ」
「あなたは、輝かない私に、価値がないと言った。私の術を、地味だと嗤った。──それが、あなたの目です。価値を見抜けない目。今さら困ったからと、その目が急に節穴でなくなるわけではありません」
「そ、そんな……!」
「扉はもう──あなたのために開きません」
私は、くるりと背を向けた。
背後で、ヴォルグが人化を解き、巨大な黒竜の姿で天を仰ぐ。その威容に、ジェラルドが腰を抜かした。
「安心して。魔物がここまで来れば、私が街を守るためにこの子が薙ぎ払う。──ただし、それは私の都市の話。王都は、あなたが守りなさい。妃の輝く魔力とやらで、ね」
「アデライド……アデライド!!」
泣き叫ぶ声を背に、私は理想都市へと歩き出した。
沈む夕陽が、私の影を、まっすぐに、力強く伸ばしていた。
(前世では、報われないまま死んだ。──でも今世は、私の価値を、私が決める)
それが、私の、ささやかな、ざまぁだった。
◇
その夜。
王都は魔物に飲まれ、王家は失墜した。ジェラルドの行方は、誰も知らない。輝くだけの聖女リリアーヌの名も、二度と社交界で語られることはなかった。
一方、エルデンは。
「乾杯! お嬢の……じゃなかった、アデライド様のエルデン建国を祝って!」
コルトの音頭で、街は祭りに沸いていた。清潔で、豊かで、誰もが笑っている街。かつて見捨てられた廃都とは、思えないほどに。
私は、丘の上からその灯りを眺めていた。
「よい、街だ」
人化したヴォルグが、隣に立つ。金の瞳が、優しく灯りを映していた。
「お前がいなければ、我はとうに朽ちていた。……礼を言う」
「職業病だって言ったでしょ。それに──」
私は、彼を見上げた。
「あなたがいてくれるから、私はこの街を守れる。おあいこよ」
ヴォルグが、ふ、と笑った。数百年の孤独を知る者の、初めての、心からの笑み。
その時──マルドゥークが、深刻な顔でやってきた。
「アデライド殿。喜ばしき夜に、水を差すようですが。──東の空を、ご覧なさい」
「なにかしら」
促されて、私は地平線を見た。
落日が沈んだあとの、深い藍色の空。その彼方で──いくつもの、赤い光が、瞬いていた。
「あれは……?」
「古竜たちの、目覚めの兆し。ヴォルグ殿だけではない。世界には、まだ幾頭もの古竜が眠っております。契約の扉が開いた今、彼らもまた、目を覚まし始めた」
ヴォルグの表情が、引き締まる。
「……厄介な連中もいる。中には、人を憎む竜もな」
「それに」マルドゥークが声を潜めた。「この繁栄したエルデンを、狙う者がおります。──隣国です。すでに、密偵の影が」
私は、静かに息を吐いた。
(なるほど。新規開業したら、今度は同業他社と、目覚めた重症患者の対応か)
「……お嬢、なんか楽しそうな顔してません?」
コルトが、げんなりした顔で言う。
「まさか。ただ──」
私は、腕まくりをした。前世で、夜勤の急変対応に向かう時と、同じ仕草で。
「守る価値のある場所ができたなら、守るまで。それだけよ」
落日は沈み、新しい夜が始まる。
だが、この結界都市に、扉を開ける者がいる限り──
物語は、まだ、始まったばかりだ。
(――第一部 完)




