第3話:社内公認のクズ男と、腫れ物扱いの妹
翌朝。
私はいつも通りにメイクをし、いつも通りのスーツを着て出社した。
腫れぼったい目なんてしていない。
昨夜は一滴も涙が出なかったからだ。むしろ、憑き物が落ちたように体が軽かった。
出社してすぐ、私は課長に時間を取ってもらい、会議室へ向かった。
「……えっ? こ、婚約破棄?」
私の報告を聞いた課長は、素っ頓狂な声を上げてのけぞった。
「はい。ですので、来月末での退職願は撤回させてください。結婚式も中止……いえ、私はキャンセルしましたので」
「ち、ちょっと待ってくれ。式まであと二ヶ月だよね? 何があったの? いや、プライベートなことだから深くは聞いちゃいけないんだろうけど……」
課長は動揺しつつも、心配そうに私を見てくる。
私は淡々と、しかし事実は隠さずに告げた。
「相手方の有責による破棄です。……実は、相手の女性が妊娠しまして」
「に、妊娠!? 翔くんがか!?」
「はい。ちなみに、相手は私の妹です」
課長が絶句して固まった。
口をパクパクさせているが、言葉が出てこないようだ。
無理もない。昼ドラでももっとマシな脚本を書くだろう。
「とりあえず、私は仕事に穴を開けるつもりはありませんし、この件で業務に支障をきたすつもりもありません。ただ、彼と同じ部署にいるのは互いに、その……周囲への影響も懸念されますので」
「わ、分かった! すぐに人事と掛け合う! 君が悪いわけじゃないからな、絶対に君が損をしないように動く!」
課長は顔を真っ赤にして憤慨してくれた。
私の普段の勤務態度が、ここで活きたようだ。
◇
会議室を出てフロアに戻ると、妙な空気が漂っていた。
私の席の数メートル先、翔のデスクの周りに数人の同僚が集まっている。
「えー、マジで? 残念だなぁ」
「まあ、男女の仲だし、しょうがないよな」
翔が何やら気まずそうに、しかし「仕方なかった」という顔で話しているのが聞こえた。
どうやら、私が課長と話している間に、自分に都合のいいように根回しをしていたらしい。
私が席に戻ると、仲の良い同期の女性社員、美穂がこっそり耳打ちしてきた。
「ねえ恭子、大丈夫? 翔ったら『価値観の違いで、話し合って別れることにした』とか言ってるけど……」
価値観の違い。便利な言葉だこと。
私はため息をつきながらPCを立ち上げ、小声で返した。
「嘘よ。私が一方的に切ったの」
「えっ?」
「浮気されたのよ。私の妹と。しかもデキ婚」
美穂が「はあ!?」と大声を出しそうになるのを、私は手で制した。
「しーっ。大ごとにしないで。……と言いたいところだけど、もうバレるのも時間の問題ね」
私はスマホを取り出し、とある画面を美穂に見せた。
それは、今朝方見つけた愛梨のインスタグラムだ。
そこには、産婦人科のエコー写真と共に、こんなポエムが投稿されていた。
『いろいろあったけど、やっと結ばれました♡ パパ似の元気な赤ちゃん! #略奪愛 #運命 #妊娠3ヶ月 #幸せになります』
タグ付けされたアカウントは、間違いなく翔のものだ。
美穂は画面を見て、さっと血の気を引かせ、次に怒りで顔を真っ赤にした。
「……バカなの? この妹も、翔も」
「バカなのよ。だから縁を切ったわ」
美穂の情報拡散能力は、社内一だ。
昼休みになる頃には、フロアの空気は一変していた。
翔がコピー機に向かおうとすると、近くにいた女性社員たちがサッと道を開け、汚いものを見るような目で遠巻きにする。
男性社員たちも、翔を見る目が冷ややかだ。
「婚約者の妹に手を出すとか、男の風上にも置けない」というヒソヒソ声が聞こえてくる。
「あ、あれ? みんな、どうしたの……?」
翔は引きつった笑みを浮かべて周囲に話しかけようとするが、誰も目を合わせようとしない。
『価値観の違い』という嘘が、『妊娠三ヶ月(=婚約期間中に浮気確定)』という動かぬ証拠によって暴かれたのだ。
信頼は地に落ちた。社内恋愛の末の泥沼不倫。しかも相手は身内。
翔は今日一日で、「爽やかな好青年」から「社内一の触れてはいけない汚物」へと転落したのだ。
◇
その日の夜。
私は美穂や同僚たち数人と、居酒屋で「婚約破棄祝い」と称した飲み会を開いていた。
「かんぱーい!! 恭子、本当にお疲れ!!」
「あのクズと結婚する前に分かってよかったよ、マジで!」
ジョッキをぶつけ合い、私は久しぶりに心の底から笑った。
「でも驚いたよ。翔があんなにバカだったなんて」
「ほんとそれ。愛梨ちゃんのインスタ見た? 『お姉ちゃんから奪っちゃった』的なこと平気で書いてるし、神経疑うわ」
同僚たちの怒りはもっともだ。
私は苦笑しながら、焼き鳥を頬張った。
「慰謝料もガッツリ請求したし、絶縁もしたから。もう私は関係ないわ」
盛り上がる中、ふと美穂がスマホを見ながら首を傾げた。
「……ねえ、ちょっと変な話聞いていい?」
「なに?」
「さっき、総務の子から聞いたんだけどね。翔のやつ、結婚休暇の申請を取り下げてないらしいのよ」
私は動きを止めた。
「は? どういうこと?」
「いや、だから……普通は破談になったら休暇も取り消すじゃない? でも、あいつ『予定通り休みます』って言ってるらしくて。式場の方も、キャンセルの連絡が入ってないって噂が……」
背筋に冷たいものが走った。
まさか。
いや、いくらなんでも、そこまで馬鹿じゃないはずだ。
「……まさか、ね」
私は乾いた笑い声を上げた。
私のキャンセル料負担の話を聞いてなかったのか?
いや、まさか「そのまま」使うつもりなんて……ないわよね?
けれど、昨日の実家での会話を思い出す。
『お金がない』と騒いでいた愛梨。
『もったいない』が口癖の母。
そして、流されやすく、考えることを放棄する翔。
――ありえる。
あいつらなら、やりかねない。
「恭子? 顔色悪いよ?」
「……ううん、なんでもない。まさかそんなこと、あるわけないものね」
私はジョッキを飲み干し、その不安を強引に胃の腑へと流し込んだ。
もし本当にそれをやったら、それはもう喜劇を通り越してホラーだ。
でも、もしやるなら勝手にすればいい。
地獄を見るのは、私じゃないのだから。




