第2話:慰謝料はトータルで200万。これで縁を切ります
「タダで済むとは、どういうことだ?」
父が怪訝な顔で尋ねてくる。
私はスマホの画面をタップしながら、事務的な口調で答えた。
「言葉通りの意味よ。婚約破棄には正当な理由と、それに伴う慰謝料が発生する。ましてや今回は、婚約者の浮気相手が私の妹で、しかも妊娠中。これ以上ないほどの背信行為だわ」
私は検索結果の画面を軽く眺め、顔を上げた。
「相場は五十万から三百万ってところね。事情が事情だし、精神的苦痛を考慮すれば上限を請求してもいいくらいだけど……まあ、温情をかけてあげる」
私は翔と愛梨を交互に見据え、指を一本、そして二本立てた。
「翔に百万。愛梨に百万。合計二百万円。これを慰謝料として請求します。それと、結婚式のキャンセル料は全額翔が負担すること。これが条件よ」
場が静まり返った。
最初に口を開いたのは、やはり愛梨だった。
「はあ? お金? ちょっと、何言ってるのお姉ちゃん。私にお金なんてあるわけないじゃん! これから出産とかでお金かかるのに!」
愛梨は心底信じられないといった顔で叫んだ。
自分が被害者であるかのようなその態度に、私の心はさらに冷えていく。
「ないならどうにかしなさい。それが『大人になる』ってことよ。子供を作る行為には責任が伴うの。ねえ翔、あなたなら分かるわよね?」
私が矛先を向けると、翔は顔面蒼白で脂汗をかいていた。
「ひ、百万……? それにキャンセル料って……俺の貯金、ほとんど結婚式の頭金に入れちゃってて……」
「なら、借金でもして払って。あんたが私の人生を狂わせた代償なんだから、安いものでしょう?」
私の突き放した言い方に、翔は言葉を詰まらせた。
すると、今まで黙って聞いていた母が、バンッとテーブルを叩いた。
「いい加減になさい、恭子! 家族からお金を取るなんて、みっともない!」
母は顔を真っ赤にして私を睨みつけていた。
「愛梨はお金がないのよ? それを分かってて請求するなんて、いじめじゃないの。翔さんだって、これからの生活があるのよ。あんたは独り身で身軽なんだから、少しは援助してあげるくらいの気概を見せなさい!」
「そうとも。家族間で裁判沙汰など、恥ずかしくて近所も歩けんわ」
父も母に同調し、腕を組んで私を威圧する。
……ああ、やっぱり。
この人たちにとって、「家族」というのは「私が一方的に搾取されるシステム」の別名でしかないのだ。
私は深く息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。
「家族、ね……」
「そうよ、家族よ。分かったら慰謝料なんて言葉は取り下げなさい」
母が勝ち誇ったように言う。
私は冷ややかな目で、かつて家族だった人たちを見下ろした。
「じゃあ、家族はやめるわ」
「……は?」
「たった今から、私はあなたたちと縁を切ります。他人になるの。他人なら、慰謝料を請求しても何の問題もないでしょう?」
私の宣言に、全員がぽかんと口を開けた。
絶縁。
その言葉の重みが理解できていないようだ。
「ちょ、ちょっと、何言ってるの……縁を切るって……」
「二度と実家には帰らないし、連絡もしない。翔、愛梨、あなたたちへの請求書は弁護士を通じて送るから、そのつもりでいて。支払いが遅れるなら給与の差し押さえも辞さないわ」
私はバッグを肩にかけ、背を向けた。
これ以上、ここにいると空気が腐っていて息ができなくなりそうだ。
「ま、待て恭子! 本気なのか!?」
父の慌てた声が背中に飛んでくる。
「こんなことで親子の縁を切るなんて、親不孝だと思わないのか!」
「こんなこと? 娘の婚約者を寝取った妹を庇って、被害者の姉に我慢しろという親なんて、こっちから願い下げよ。老後の面倒も愛梨に見てもらえばいいわ」
私が玄関に向かって歩き出すと、愛梨が焦ったように叫んだ。
「ちょっと! お姉ちゃん、薄情すぎるよ! 私、困ってるんだよ!?」
「知るか」
私は振り返らずに短く吐き捨て、実家のドアを開けた。
外の空気は冷たかったが、あの家の中よりはずっと澄んでいて、美味しかった。
バタン、と大きな音を立ててドアを閉める。
実家から少し離れた路地まで歩いたところで、私は足を止め、スマホを取り出した。
画面には「録音停止」のボタン。
入室した時から回していたボイスレコーダーを停止し、データを保存する。
「……言質は取ったわ。『不貞行為を認める発言』と『理不尽な強要』。これで慰謝料請求からは逃げられない」
震える指先は、悲しみからではない。
長年の呪縛から解き放たれた、興奮と武者震いだった。
私は大きく深呼吸をすると、スマホを握りしめた。
「さて……次は会社ね」
翔は同じ職場の同期だ。
明日、会社で顔を合わせることになる。
向こうはどうせ「円満な話し合いだった」とでも言い訳するつもりだろうが、そうはいかない。
私は徹底的にやる。
自分の尊厳を守るために。
夜空を見上げると、月が冷たく輝いていた。
明日からは、誰のためでもない、私自身の人生が始まるのだ。




