第6話 腐敗した純愛(後編)
個室の扉を閉めると、そこは外界から遮断された密室となる。
防音壁に囲まれたこの空間なら、どんな悲鳴も、どんな澱みも漏れ出すことはない。
私は彼を対面のソファに座らせると、引き出しからタロットと黒いレースの手袋を取り出した。
「…それで、彼女が騙されているというのは?」
手袋を嵌めながら尋ねると、彼は待っていましたとばかりに、鞄から一冊のファイルを取り出し、数枚の写真をテーブルに広げた。
夜の公園、コンビニの駐車場。全て、物陰から望遠レンズで撮影された盗撮写真だ。
「この男です。馴れ馴れしく彼女の肩に触れている。彼女、笑っていますけど、これ絶対に無理してるんですよ。僕にはわかるんです」
男は写真の中の女性の顔を、愛おしそうに指でなぞった。
「彼女はSOSを出してる。この男に脅されているに違いないんです。…早く僕が助け出してあげないと」
写真の中の二人はどう見ても幸せそうなカップルだが、彼の脳内では「悪党に囚われた姫」というストーリーに変換されているらしい。
「なるほど。…事態は複雑なようですね」
私は感情を一切込めずに相槌を打ち、黒いベルベットのクロスを広げた。
「通常なら3枚引きで十分ですが…貴方のその深い『愛』と、入り組んだ状況を紐解くには、簡易的な展開図では不十分でしょう」
私は束ねたカードをテーブルの中央に置いた。
「伝統的な『ケルト十字法』で展開します。過去、現在、未来、深層心理、そして相手の気持ち……全10枚のカードを使って、この事件の全貌を明らかにしましょう」
「ケルト十字……。なんだか凄そうですね。お願いします、僕に真実を!」
男が期待に目を輝かせる。
私は静かにシャッフルを終え、テーブルの上に十字と、その横に一本の柱を作るようにカードを並べていった。
10枚のカードが描く、運命の十字架。
それは真実を映す鏡であると同時に、罪人を磔にする刑具でもある。
「では、見ていきましょう」
私は手際よく、十字を形成するカードをめくっていった。
「現状は『カップのキング』逆位置。障害は『月』。……独善的な愛と、現実が見えていない妄想です」
「妄想じゃない! アイツが騙してるんだ!」
「では、時系列を見ましょうか」
私は十字の左側『過去』と、右側『近い未来』を続けてめくった。
「過去は『剣の3(THREE OF SWORDS)』。ハートに3本の剣が突き刺さっています。これは突然のトラブルではなく、貴方が彼女の言葉や拒絶によって深く傷ついた『決定的な別れ』があったことを示しています」
「うっ……! そ、それは一時的な喧嘩で……」
「そして近い未来は『カップの7(SEVEN OF CUPS)』。雲の上に、城や財宝などの幻が浮かんでいます。貴方は現実を見ようとせず、自分に都合の良い『妄想の選択肢』の中に逃げ込み、そこで迷い続けるでしょう」
「違う!! 僕は彼女を助けに行くだけだ!」
男の否定の声が大きくなる。聞く耳を持たない。
私は十字の下『無意識』にあるカードを指差した。
「その『助ける』という動機も怪しいものです。無意識の領域には『ペンタクルの4(FOUR OF PENTACLES)』が出ています。……男がコインを抱え込み、動こうとしません」
「コイン……?」
「ええ。貴方を突き動かしているのは正義感じゃない。『自分の所有物を手放したくない』という、ケチくさい独占欲です」
「黙れッ!! なんだこの占いは! 僕を侮辱する気か!」
男がテーブルを叩いて立ち上がりかけた。
背中から噴き出すどす黒い煙が、個室を肌にまとわりつくような重たい湿気で満たしていく。
これ以上、丁寧に解説しても無駄だろう。
「……わかりました。では、細かいプロセスは飛ばしましょう」
私は右側に縦に並んだ柱のカード……7枚目の『立場』と9枚目の『願望』を無視し、核心となるカードだけに指をかけた。
「貴方のどうしようもない『立場』や、身勝手な『願望』など読む価値もない。……見るべきはここ、8枚目の『相手の気持ち』です」
私はカードをめくった。
『剣の9(NINE OF SWORDS)』。
ベッドの上で顔を覆い、絶望に嘆く人物。そして頭上には九本の剣。
「これが、彼女の現在の心境です。彼女は夜も眠れないほど怯えている。……『別れたはずの男が、どこかで見ているかもしれない』という恐怖に」
「な……ッ!?」
「彼女を追い詰めている『九本の剣』。それは、貴方が送りつけた大量のメッセージであり、無言電話であり、そして今、貴方が握りしめているその盗撮写真です」
「ふ、ふざけるな……! 僕は彼女のために……ッ!」
男の顔が赤黒く歪む。殺意に近い怒気が膨れ上がる。
だが、ケルト十字の包囲網は、彼に逃げ場を与えない。
「結論です」
私は男の言葉を遮り、最後の一枚……頂点にある10番目の『最終結果』をめくった。
『剣の女王(QUEEN OF SWORDS)』。
玉座に座り、真っ直ぐに剣を掲げる冷徹な女王。
その切っ先は、情け容赦なく「不要なもの」を断ち切る意志を示している。
「貴方がこれ以上近づけば、彼女はこの剣を振り下ろします」
私は男の目を真っ直ぐに見据えた。
「それは警察への通報であり、接近禁止命令であり、社会的抹殺です。……この女王は情に流されません。貴方を明確な『敵』と認識し、完全に排除するでしょう」
「排除、だと……?」
「ええ。今すぐ、連絡先も写真も全て消去し、彼女の前から消えなさい。それが、貴方が人間として踏みとどまるための、唯一の回避ルートです」
男は肩で息をしながら、私を睨みつけた。
その瞳には、殺意と、図星を突かれた動揺が入り混じっていた。
しかし、テーブルの上に展開されたカードの群れは、あまりにも整然と、彼の「歪み」を証明していた。
逃げ場はない。
「…エセ占い師が! 二度と来るか!」
男は捨て台詞を吐くと、足音荒く個室を出て行った。
写真とファイルを乱暴に鞄に突っ込み、逃げるように。
バンッ! と乱暴に扉が閉まる音が響く。
嵐が去った後の室内には、ねっとりとした青緑色の気配だけが残された。
「……ふぅ」
私は小さく息を吐き、読みかけのカードを回収した。
思い込みの激しい相手は、全部を読み解き終わる前に出ていってしまうことも多いので、気にはしない。
ガチャリ。
入れ替わりで、静かに扉が開く。
トレイを手に入ってきたのは、コウだ。 彼は顔をしかめるどころか、その充満した空気を嗅いで、恍惚とした表情を浮かべた。
「素晴らしい…。廊下まで香りが漏れていましたよ」
コウは手にした広口のガラス瓶の蓋を開け、空中に漂う青緑色の煙を丁寧に集め始めた。
「いつもの『悲嘆』や『怒り』なら、煙のように壁をすり抜けて厨房まで届くのですが…これは重すぎますね」
コウは瓶の蓋を開けながら、部屋の隅に溜まった淀みを指差した。
「『執着』は湿気が高く、粘着質だ。壁を通り抜けるような軽やかさはなく、その場にジメジメと沈殿し、カビのように張り付く」
「これぞ、極上の『ブルーチーズ』だ。純愛を騙る独占欲が、長い時間をかけて湿った暗闇で熟成され、カビだらけになった成れの果て…」
瓶の中に煙が満ちていくにつれ、コウの琥珀色の瞳が輝きを増す。
「鼻にツンとくる刺激臭。舌に絡みつく塩辛さと苦味。…万人受けはしませんが、一度ハマると抜け出せない中毒性がありますね」
「悪趣味ね。そんなの、どう料理する気?」
私が尋ねると、コウは瓶の蓋をキツく閉め、悪戯っぽく微笑んだ。
「そうですね…。濃厚なクリームソースにして、淡白なパスタに絡めましょうか。あるいは、蜂蜜をたっぷりかけて、デザートにするのも悪くない」
彼は愛おしそうに瓶を撫でた。
「インキュバス様には敬遠されましたが、魔界の美食家たちには垂涎の一品になりますよ」
私は静かに立ち上がり、個室の空気を入れ替えるために窓へと向かった。
この店では、どんな腐った感情も無駄にはならない。すべては、彼らの食卓を彩るスパイスになるのだから。
「…さて、次はもう少し、さっぱりしたものがいいわね」
私が『剣の女王』のカードをデッキに戻しながら、そう呟くと、コウは予言めいた口調でクスクスと笑った。
「どうでしょう。濃厚な塩気のあとには、得てして『胸焼けするほど甘いデザート』が運ばれてくるのが、コースの常識ですから」
その言葉が、予言のように店内に響いた。




