第5話 腐敗した純愛(前編)
「ねえ、ケチくさいこと言わないでよぉ。さっきの子、すっごく甘い匂いさせてたじゃない」
カウンターに頬杖をつき、艶のある唇を尖らせているのは、常連のインキュバス(淫魔)だ。
この店にいる人外は、私の目には「人間界での姿にうっすらと本来の姿が重なっている」ように視える。
なので、今、彼の長い尻尾がゆらゆらと揺れているのも視えているのだ。
彼は、先ほどの女性客が置いていった「自己陶酔のシロップ」の行方が気になって仕方がないらしい。
「あれは商品よ。食べたければ、ご注文をどうぞ」
私がグラスを磨きながら冷たくあしらうと、彼は大袈裟に肩をすくめた。
「え〜!そんなつれないこと言わないでよぉ〜。…ねえ、コウくん。あなたならわかるよね? この、お腹を空かせた哀れな子羊の気持ち」
そして、さらに、厨房のコウに媚びるように視線を送る。
コウは、やれやれと小さく溜息をつくと、洗おうとしていたシェイカーの蓋を手に取った。
「仕方ありませんね。…はい、シェイカーの蓋に残っていた『自惚れの泡』です。中身はありませんが、口溶けだけはいいですよ」
コウは蓋に付着していたピンク色の泡を、指先ですくい取り、小さなリキュールグラスの淵にひと塗りして差し出した。
まさに、文字通りの「おこぼれ」だ。
「わあ、さすがコウくん! 話がわかるわね!」
インキュバスは嬉々としてグラスを受け取ると、そのピンク色の泡を、長い舌でペロリと舐めとった。
「ん〜! 甘い! 軽くてフワフワしてて…まるで思春期の恋心みたいだわ!こういうジャンクな味も、たまには悪くないわね〜」
彼はうっとりと目を細め、舌の上で転がすように味わっている。
だが、すぐにその表情から笑みが消え、どこかシニカルな色が混じった。
「でも、後味が少しだけ苦いわね。…これ、本人は『純愛』だと思ってたんでしょうね」
「ええ。ホストへの献身的な愛だと信じていたわ」
私が答えると、インキュバスは呆れたように首を振った。
「これだから現代人は。…最近の人間は『愛』と『欲』と『依存』の区別がついてないから、味が濁ってて困るわぁ」
彼はグラスをカウンターに置くと、憂鬱そうに溜息をついた。
「昔の人間はもっとシンプルだったわ。『愛』は血の味がしたし、『欲』は泥の味がした。今は全部ミキサーにかけて『スムージー』にしてるみたいで、輪郭がないのよねぇ…」
「うちはそれを分離精製して提供しているわよ」
「はいはい、わかってますよ。ヴィスコンティの技術は世界一…っと」
そう言って、きれいに舐め切ったリキュールグラスを残念そうに見つめていた彼が、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、オーナーってまだ見つからないの?」
オーナーというのは、私の叔母だ。
失踪してから5ヶ月程が過ぎた。その間、何度か警察にも連絡はしているが、何の進展もない状態が続いている。
「そうね…自発的かどうかすら、わからないままね」
叔母は猫を飼っている。
その世話を放棄して自発的に突然いなくなるとは思えないので、私個人としては自発的な失踪ではないと思っている。
ちなみに、その猫は今、コウが世話をしてくれている。
「そうなのね…いや、ね…最近、アタシの店でもよく誰それが失踪したって話を聞くことが増えてきてね。もしかしたら関係あるのかしら〜って思って」
彼は繁華街でBARを経営していることもあり、夜の街の噂が集まるらしく、たまにここにきてはその噂を広めて帰っていく。
「ただ、手口がちょっと人間っぽくないのよね…」
人差し指を顎に当てて、上目遣いでコウを見つめる。
その仕草自体はいつものことなので、コウも気にも止めずに流すと思っていたのだが、
「へえ。どういう手口なんですか?」
めずらしくコウが食いついたので、彼が少し嬉しそうに言葉を続けようとした…その時だった。
カラン、コロン。
ドアベルが鳴り、重いマホガニーの扉が開いた。
その瞬間、インキュバスの表情が一変する。
さっきまでの甘い陶酔が吹き飛び、まるで汚物でも見るかのように鼻をつまむ。
「…うわ。なにこれ」
店内の空気が、急激に湿り気を帯びた。入ってきたのは、一人の男だ。
地味な紺のスーツに、黒縁メガネ。
どこにでもいる、真面目そうなサラリーマンに見える。
手にはコンビニのビニール袋を提げ、傘もさしていないのに、なぜか肩口がじっとりと濡れていた。
「…なんか、すっごく『重苦しい』のが来た」
インキュバスが私にだけ聞こえる声で囁く。
「さっきの甘いのが台無しだわぁ。なんか…濃厚すぎて、胸焼けしそうな匂い。ねえ、換気扇回したほうがいいんじゃない?」
男は、入り口で立ち止まり、遠慮がちに店内を見回している。
その目は笑っているようで、瞳の奥が爬虫類のように動いていない。
「いらっしゃいませ」
コウの声も、いつもよりワントーン低い。
彼もまた、この男が纏う独特の「異臭」を感じ取っているのだ。
「…濃厚なのが好きなお客様も多いですよ?」
コウが小声で軽口を叩くが、インキュバスは首を横に振った。
「いや、アタシはお腹壊したくないからパス。…じゃ、邪魔者は退散しまぁ〜す」
インキュバスは男とすれ違いざま、露骨に顔を背け、ハンカチで鼻を覆いながら逃げるように店を出て行った。
人間であるこの客には、ただ急用を思い出した男が足早に立ち去ったようにしか見えていないだろう。
だが、インキュバスの背中には全力の「拒絶」が張り付いていた。
あの好色家で、人間の感情ならなんでも食べるインキュバスが、食欲を失って帰ったのだ。
私はグラスを置き、改めて目の前の客に向き直った。
「一名様ですか?」
「あ、はい。……あの、予約はしてないんですけど、鑑定をお願いしたい…」
彼はボソボソとした声で答え、カウンターの端……私の正面に座った。
近くで見ると、その異様さが際立つ。
スーツからは、鉛のような「重たい沈黙」が漂っている。
それは物理的な重さというより、彼自身の精神から滲み出る「影」だった。
「会社で…女の子たちがここの話をしていて…かなりハッキリとしたアドバイスをもらえると聞いたので…」
ハッキリとしたアドバイスとは、随分穏やかな表現だこと。
「構いませんよ。どのようなご相談で?」
私が尋ねると、彼は黒縁メガネの位置を人差し指で押し上げ、少し照れたように笑った。
「実は……彼女のことで」
また恋愛か。
お金か色恋沙汰が相談事の8割近くだ。
「そうですか。それで…?」
「それが…」
彼は急に声を潜め、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回してから、身を乗り出した。
「彼女の『安全』を確認したいんです。…最近、彼女が悪い男に騙されているみたいで」
「悪い男?」
「はい。僕と別れてからすぐに付き合い始めた男がいるみたいなんですけど、絶対に怪しいんです。彼女は純粋だから、すぐに騙されちゃう。…僕が守ってあげないと」
男の瞳が、ぬらりと光った。
その瞬間、厨房の方から、換気扇のスイッチが「強」に切り替わる音がした。
コウが鼻をひくつかせながら、私に視線を送ってくる。 その琥珀色の瞳は、雄弁にこう語っていた。
『店長。……これは強烈ですね。熟成しすぎて猛毒になった、極上のブルーチーズです』
このままだと、店全体にチーズ臭が広がりそうだ。そう感じた私は、手元のメニューを閉じた。
「では、個室に移動しましょう。そちらなら誰にも聞かれることなく、安全にお話ができますので」
そう言って、彼に鑑定料を先払いしてもらうと、私は彼を奥の部屋へと誘導した。
もちろん、彼にとって安全な場所などではない。
この店に、これ以上この独特な臭いが広がるのを防ぐための「隔離措置」だ。
私は彼を部屋に通すと、逃げ場を塞ぐように、静かに、しかし重く扉を閉めた。




