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第4話 琥珀色の瞳と迷える羊

二十時。


アスファルトに染み付いた昼間の熱気が、夜になっても逃げ切らず、生ぬるい風となって路地裏を撫でる時刻。

古びた煉瓦造りの建物に嵌め込まれた、重厚なマホガニーの扉が、音もなく解錠される。


タロットカフェ『ヴィスコンティ』。

開店の時間だ。


ここに来る前、私は届いた手紙をすぐに開いた。

微かに硫黄の匂いを漂わせた紙には、一行だけこう書いてあった。


ねじれるほどに、それは上質に…』


意味はわからない。

だが、理解する必要もない。


悪魔の比喩はいつだって過剰だ。

そして、紙は灰皿に落とし、火をつけた。


それを見ていたセバスチャンは、


「貴女のそういうところ、嫌いじゃないですよ」


と笑ったが、その声はBGMのように響いただけで、私は黒い煙をゆっくりと立ち上らせながら小さくなっていく赤い炎をじっと見つめていた。


そうして、燃え尽きた灰の中には、硫黄の匂いだけが残った。


店内は、外界の熱を拒絶するようにひんやりと冷えている。

アンティークのシャンデリアは、電圧を落としたフィラメントが赤い線を空中に描いているだけだ。


唯一、鋭い光を放っているのは、磨き上げられた黒檀のカウンターと、その内側に立つ「彼」の瞳だけ。


「…開店準備、完了しています」


カウンターの中、琥珀色の瞳をした青年…コウが、淡々と告げる。

見た目は年齢不詳のミステリアスな雰囲気を持つ美青年だが、彼曰く、私とそう変わらない年齢だ。

白いシャツに黒いベスト、首元には細いリボンタイ。清潔感のあるその装いは、育ちの良い給仕に見える。


彼は、この店の料理人だ。


コウがこの店に現れたのは、数年前のことだ。

初めは叔母が大学生のアルバイトを雇ったのかと思った。


しかし、聞けばこの店の2階に住み込みで働く正規雇用だというではないか。

店の2階には当然叔母が住んでいて、そう聞いた時は彼と叔母の関係を疑ったものだ。


叔母が失踪したと聞いた時、そもそもスピリチュアルな世界から足を洗おうと思っていた私は、いの一番に彼にこの店を継いでくれないかと相談した。


けれど、彼はそれを即答で断った。


理由はこうだった。


「いついなくなるかわからないのに、無責任にこのお店を引き受けることはできません」


それを聞いて、本当に彼と叔母が男女の関係ではないということを理解した。


「…今日は、湿気が多いですね」


コウがふと、窓の外の虚空を見上げて鼻を鳴らした。

しかし、雨の匂いという意味ではない。彼の嗅覚が捉えたのは、別の湿り気だ。


「粘着質な、欲望の匂いが近づいてきています」


「あら。じゃあ、今日の最初の一枠は、重めのやつになりそうね」


私はカウンターの端、いつもの指定席に腰を下ろす。

私が席に着くと同時に、何も言わずとも、適温のミネラルウォーターがすっと差し出される。


この無駄のない所作。


感情を持たない私にとって、彼のドライな職人気質はとても助かる。


ふとカウンターの下に置きっぱなしのスマートフォンを見ると、通知が来ていることに気づく。

私はそれを手に取ると、内容を確認し、素早く事務的に返信をして、また元の場所に戻した。


ちょうどその時、


カラン、コロン。


コウの予言通り、真鍮のドアベルが鳴った。


入ってきたのは、熱帯夜に浮かされたような、若い女性だ。


背中が大きく開いたキャミソールワンピース。

薄手のカーディガンを肘までずり落とし、汗ばんだ肌を露わにしている。

強いバニラの香水と、微かなメンソールの煙草の匂い。


歌舞伎町あたりですれ違えば、誰もが振り返るような華やかな美貌だが、その瞳は熱病にかかったように潤み、ひどく濁っている。


「いらっしゃいませ」


コウの声は、氷を転がすように涼やかだが、温度はない。


彼女は怯えたように、しかし何かに吸い寄せられるようにふらふらとカウンターへ近づいた。


「予約……してないんですけど。ここ、どんな悩みでも聞いてくれるって聞いて」


「構いませんよ。ご相談は個室での有料鑑定にしますか?それともアドバイス程度にはなりますが、一枚引きにしますか?」


「…あの、私」


女性がカウンター席に座り、震える手でバッグを抱きしめる。


「私、とあるホストにハマっているんです。…貢いで、貢いで、借金までして…でも、彼がナンバーワンになるためならって」


愛という名の、自己陶酔だ。


コウは氷を削る手を止めず、氷がぶつかる硬質な音を響かせながら、私に視線を送った。

その琥珀色の瞳が、冷ややかに笑っているように見えた。


『晩夏に打ち捨てられた、腐りかけの果実が来ましたよ』


そう言いたげな視線だ。


「あの、でも私…ちゃんとした鑑定料、払えないかも。今月も全部彼のお店に入れちゃって…」


彼女は気まずそうに視線を泳がせる。

典型的な、「愛」と「搾取」を履き違えている手合いだ。


私は席を立たず、カウンターの上で組んだ指に顎を乗せた。


「それなら、個室での鑑定はできません。当店は前払い制ですので」


突き放すような私の言葉に、女性の顔が歪む。だが、すかさずコウが、涼やかな声で補足を入れた。


「ですが、『一枚引き』なら無料ですよ。…カクテル代だけで、貴方の運命を一枚だけめくってみます」


「一枚だけ…?」


「ええ。今の貴方に最も必要な『答え』が、シンプルに出ます」


私はカウンターの下から、使い込まれたタロットデッキを取り出し、黒檀の天板に静かに置いた。

カードをシャッフルする乾いた音が、冷え切った店内の空気を切り裂く。


「…知りたいですか?」


彼女はゴクリと喉を鳴らし、頷いた。


「お飲み物は、なんにしますか?」


コウが女性を現実に引き戻すかのように声をかける。


慌ててメニューを手にした彼女は、ざっとメニューに視線を送った後で、


「おまかせでもいいですか?」


そう言って、コウを見上げた。


コウは、黙って頷くと、シェイカーを振った。


「どうぞ。『夢見る羊』のカクテルです」


コウが差し出したのは、泡雪のようなメレンゲが乗った、パステルピンクの一杯。

口当たりは極上に甘く、けれど後味に、逃れられない依存性の「苦味」が隠された酒だ。


「…きれい」


彼女は恍惚とした表情でグラスを見つめ、それからハッとしたように私を見た後で、震える手でカクテルを一口飲んだ。

アルコールと甘味が脳に回り、理性を溶かしていく。


「…お願いします。占ってください」


そう言って彼女が選んだのは、一列に広げられたカードの中の右端近くにあった一枚。


私はそれを、躊躇なくめくった。


そこに描かれていたのは、鎖に繋がれた男女と、それを見下ろす巨獣。


『悪魔(THE DEVIL)』


「…あら」


私は短く息を吐き、淡々と事実を告げた。


「残念ながら、貴方は騙されているのでも、誘惑に負けたのでもありませんね」


「え……?」


「このカードを見てください。彼らの首輪は緩く、いつでも抜け出せる。それなのに、二人は動こうともしていません」


私はカードの絵柄を指先で叩いた。


「このカードの構造的定義は『依存契約』。…つまり、不利な条件だと頭では分かっていながら、目の前の快楽や『変化への恐怖』によって、ダラダラと契約更新を続けている状態です」


「け、契約……?」


「ええ。貴方は彼に貢がされているのではなく、自分から望んで『思考停止』というサービスを購入しているのです」


「ち、違う! 私は彼を支えたくて…!」


「いいえ。それは『支え』ではなく、現実を見ないための『手切れ金』です。……貴方は彼を愛しているのではなく、この泥沼から抜け出して自分の足で立つ面倒臭さよりも、『搾取される現状維持』を選んでいるだけよ」


図星を突かれた瞬間、女性の顔が沸騰したように赤くなり、次いで赤黒い感情が噴き出した。

羞恥。自己嫌悪。そして、認めたくない惰性。


「あ……あぁ……ッ!」


女性が悲鳴のような声を上げ、カクテルを一気に煽る。


その瞬間。


女性の背中から立ち上った、熟れすぎた桃のような甘ったるい濃いピンク色の煙を、コウが素早い手つきで空のシェイカーへとすくい取った。


一方、彼女は憑き物が落ちたように呆然とし、やがて空になったグラスを置くと、ふらふらと店を出て行った。


その背中を見送ったコウは、


「『自己陶酔のシロップ』…これは濃厚だ。デザートのソースに使えそうですね」


そう言って目を細めた。


すると、そこに、カランと乾いた音が2回響いた。


「ねーえ、今の女の子、どうしたの?ものすごく美味しそうな匂いがプンプンしてたわよぉ〜。」


と目を輝かせながら店に入ってきたのは、常連のインキュバス(淫魔)だった。

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