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第3話 霧の狭間の館

裏口の扉を抜けると、そこはもう東京の路地裏ではない。

足元には湿った苔の感触。見上げれば、月明かりすら届かないほど鬱蒼とした針葉樹の森が広がっている。

現世と幽世かくりよの境界、「霧の狭間」にある森だ。


さっきまで店を叩いていた激しい雨音は、嘘のように消えていた。

ここにあるのは、鼓膜を圧迫するような静寂だけだ。


「足元、お気をつけください」


セバスチャンがランタンを掲げ、淡々と先導する。

私はその背中を追いかけながら、ポケットの中にある小瓶…メフィストフェレスが残した「紫色の粉」を握りしめた。


霧の向こう、古びた洋館の窓に、真っ赤な灯りがともっているのが見える。

気づけば、目の前には、霧の中に佇む古びた洋館がそびえ立っていた。



……ギィィ……。



重厚な扉が、主人の帰還を待っていたかのようにするりと開く。


あの日、この館に迷い込んだときは、ここで生活をすることになるなんて、想像すらしなかった。

だけど、運命とは不思議なもので、今この場所は、私にとって最も快適な場所となっているのだ。


ホールを抜けて談話室に入ると、暖炉の火がパチパチと爆ぜる音が聞こえた。

夏場の今、この暖炉には火がくべられているわけではない。


ただの雰囲気作りというか、魔力によって投影された『熱のない炎』だ。

薪の代わりに積まれた特殊な鉱石が、本物そっくりの光と音のデータだけを再生している。


セバスチャン曰く「洋館の格式を保つための不可欠なインテリア」らしいが、私から見れば、ただの環境音アンビエント付きのスクリーンセーバーのようなものだ。

物理的な室温に影響を与えない無害な仕様であるなら、わざわざ指摘して消させる理由もない。


「おかえりー! 遅いよぉ」


ソファから飛び出してきたのは、金髪の青年……ルカだ。

彼は相変わらず人懐っこい笑顔で駆け寄ってくると、私をぎゅっと抱きしめた。


私はいつものようにその絡んだ腕をゆっくりと解くと、ポケットから、小瓶に入った「紫色の粉」を取り出した。

意図的かどうかは不明だが、メフィストフェレスがカフェに残していったものだ。


「…ほう」


それまで暖炉の前で本を読んでいた黒髪の青年、レイが、眼鏡を光らせて立ち上がる。

そのまま私の元まで来て小瓶を受け取ると、蓋を開けてそっと香りを確かめる。


「この色、この香り…ただの裏切りじゃなさそうですね」


「セバスチャンもそう言ってるわ。詳しく分析してくれる?」


私がそう言うと、レイは恭しく一礼し、そっと蓋をした。


「承りました。分析結果が出たら報告します」


「頼んだわ。あと…」


部屋を見回してセバスチャンを探すと、その姿が見当たらない。

差し詰め、お茶でも淹れにいっているのだろう。


「セバスチャンから、今日の裁判の有無って聞いてる?」


ルカとレイを交互に見ながら問いかけると、ルカがにっこりと笑ってこう言った。


「今日は、なしだよ」


それを聞いて、私は密かにほっとした。

今日はなんだかものすごく身体が重くて、すぐにでも休みたい気分だったからだ。


「そう。わかったわ。では…私はもう休ませてもらうわね。おやすみなさい。」


私は二人に短く挨拶をすると、自室へと足を運んだ。


ふかふかのベッドに沈み込む。夢は見なかった。


今の私には、夢を見るための「燃料」さえ残っていないのだから。


***


翌日。


静寂の中で目が覚めると、私は身支度を整え、ダイニングへと向かう。

私が席に着くとすぐ、セバスチャンがコーヒーと軽食を持ってきてくれた。


「昨日の粉の分析結果が出たようですよ」


セバスチャンがそう口にしたのとほぼ同時に、レイが部屋に入ってきた。


「一体どんな鑑定をしたんですか?」


その言葉の意図を測りかねて沈黙したままじっとレイを見つめていると、レイは表情を変えずに言葉を続けた。


「この粉を残したメフィストフェレスが摂取したのは、貴方が鑑定した人間の想念ですよね?」


「そうだけど…」


「これほどまでの殺意に、貴方が何も感じないはずがないのですが。」


突然の「殺意」という言葉に心当たりがなく、昨日の鑑定を振り返る。


夫が浮気をしていて、お金を持って相手の女の元に逃げた。

そう、一番最後の鑑定で放たれた想念だ。


「それに、一つだけ、異質な成分が」


レイは、小瓶の中の紫色の粉を、私に見せた。


「最初、僕はこれを『裏切り』だという前提で調べ始めたのですが、まず検知されたのが『裏切りと殺意』そして、それに絡みつくような『甘い誘惑』が検知されたのです」


誘惑?

昨日の鑑定内容で関連があるとしたら、夫の浮気相手しかいない。

しかし、彼女の想念の中に「誘惑」が混ざっているのはおかしい。


「なぜ彼女の想念に『誘惑』が?」


その言葉に、セバスチャンがレイに視線を送る。


「あくまでもこれは僕の仮説なのですが…」


そう言って静かにため息をついたレイは、ゆっくりと結論を口にした。


「おそらくメフィストフェレスはこの想念の持ち主と、なんらかの形で接点があると思われます」


接点がある。

昨日彼女は自分は主婦だと言っていた。そんな彼女と悪魔に、どんな接点があるというのだろう。


「…ふうん。そうなのね。」


私は冷めたコーヒーを飲み干し、席を立つ。

彼女が黒幕だろうが、被害者だろうが、関係ない。


私は依頼通り鑑定をした。

そして彼女はその鑑定料を払った。


それだけの関係だ。


「ごちそうさま。…部屋に戻るわ。」


カフェは二十時開店だ。

準備の時間を入れても、まだまだ時間はたっぷりある。


それまでの間、私は自室で時間を過ごすことが多い。


この屋敷は異様なほどに広く、部屋の数も尋常じゃない。

ここにきてから私が足を踏み入れたのは、せいぜいホール、談話室、キッチン、ダイニング、そして自室くらいだ。


セバスチャンには「時間を持て余すようなら、館をご案内しましょうか?」と何度か聞かれたこともあるが、使わない部屋に興味はなく、一度も案内してもらったことがない。




自室は、館の最奥にある。

厚いカーテンが光を拒み、室内には澱んだ静けさだけがある。


私は椅子に深く身を沈めた。


「…殺意、ね」


独り言は、吸い取り紙に落ちたインクのように闇に染みて消えた。

レイの言葉が、今さらのように脳裏に浮かび上がる。


私は昨夜の個室を反芻する。


崩れ落ちる女。震える声。裏切りへの絶望。


そこに「殺意」などという強いエネルギーはなかった。

…少なくとも、感情を失った私の眼には、そう映っていた。


見落とした? 私が? いや、あり得ない。


私は引き出しの奥から、自分用の古いタロットを取り出す。


規則的な音が、乾いた部屋に響く。

指先に伝わる紙のざらつきだけが、今の私にとっての確かな現実だ。


私は無造作に山から一枚を引き抜き、テーブルに滑らせる。


それから、それをゆっくりと…めくる。



『運命の輪(WHEEL OF FORTUNE)』



四隅に座る聖獣。

中央で回転する巨大な車輪。


それは個人の意志など介在する余地のない、巨大なシステム(運命)の回転を示している。


私は眉ひとつ動かさず、その絵柄を見下ろした。


…なるほど。


私は「終わった仕事」だと思っていたが、あちら側はまだ「進行中」と認識しているらしい。


回る輪は、近くにあるもの全てを巻き込んで回転する。

好むと好まざるとにかかわらず。


単なる不倫の鑑定が、私の意思とは無関係に、巨大な何かに接続されようとしている。


私は興味を失い、カードを裏向きに戻した。


「……面倒ね」


短く息を吐くと、私は椅子を立ち、重いカーテンを引いた。

錆びついた錠を外し、窓枠を押し上げる。


湿った霧の匂いと、森の冷気が入り込み、部屋の淀んだ空気を押し流していく。

ザワザワと、風が針葉樹の枝を揺らす音がした。


不吉な予兆も、森のざわめきも、私には何も響かない。


ただ、降りかかる火の粉をどう払うか。それだけを事務的に処理すればいい話だ。



……コン、コン。


思考を遮るように、部屋の扉が控えめに叩かれた。


この館で、私のプライベートな時間に干渉してくるのは珍しい。


「…何?」


「失礼します」


セバスチャンが入ってきた。


その表情は、いつもの皮肉めいた余裕がなく、わずかに硬い。手には、銀色の盆に乗せられた一通の封筒がある。


「不可解なものが届きました」


「手紙? 誰から?」


「宛名も、差出人もありません。ただ…」


セバスチャンは鼻をひくつかせ、不快そうに目を細めた。


「…微かですが、硫黄(あの悪魔)の臭いがします」


私は窓の外へ視線を戻す。


どうやら「運命」は、私の「無関心」を許してくれないらしい。

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