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第2話 真夜中のタロット(後編)

めくられたカードは…『愚者(THE FOOL)』の逆位置。 そして、過去を示すその左隣には『塔(THE TOWER)』。


教科書通りの「一般解釈」だと、『愚者』は、本来なら自由な旅立ちを意味する。

しかし、逆位置さかさまに出ると意味は反転して、無計画。無責任。そして、現実逃避となる。


さらに、隣にある『塔』のカードに視線を送る。

これは『崩壊』を示すものだ。

つまり、女性との生活(塔)はすでに破綻しており、ご主人は事故や事件に巻き込まれたのではなく、自らの愚かな意思で、逃げ出したということなのだろう。


しかし、そんなありきたりの解釈を必要としている人間は、ここにはこない。


ふと顔を上げると、女性の顔色が蒼白になっている。

色々とよくない想像が頭の中を駆け巡っているのだろう。


そして、 「逃げた」といっても、借金苦なのか、それとも女なのか。 ここから先は、カードの絵柄の中に潜らなければ視えない領域だ。

もう少し深掘りしてみる必要がある。


象徴潜行ダイブ


心の中でそう唱えてカードに触れる。


瞬間、私の意識がぐらりと揺らぐ。 個室の風景がインクの色に溶け、私は極彩色の荒野に立っていた。


目の前の崖の上に、カードの住人である『愚者』……派手な衣装を着た若者が立っている。

上下が逆転した逆さまの空の下、彼は本来なら「夢」が詰まっているはずの白い袋を、私の目の前でこれ見よがしに開いてみせた。


中からこぼれ落ちるのは、黄金のコインと、束になった証券。 …お金だ。

愚者は下卑た笑みを浮かべ、その袋を大事そうに抱え直すと、足元で吠える「白い犬」を鬱陶しそうに蹴り飛ばした。


『愚者』のカードに描かれる犬は、本来なら旅人を危険から守るパートナー。

つまり、妻である彼女の象徴だ。

それを蹴り飛ばし、彼は崖の下…「破滅」という名の自由へ向かって、軽やかに身を投げた。

その落下先には、ピンク色の甘ったるい霧(女の影)が待ち受けている。


「…なるほど。これは清々しいほどの『逃走』ね」


そこまで視て、私は意識を浮上させた。

瞬きを一つすると、視界は再び薄暗い個室に戻っていた。


その間、せいぜい数秒。意識の中では長く感じる時間も、実際はほんの一瞬の出来事なのだ。


私は女性と目を合わせると、カードが演じてみせた寓意を、冷徹な事実として翻訳し、トドメを刺した。


「残念ですが、ご主人は帰ってきませんよ」


私の言葉に、女性の時間が止まった。


「え……?」


「この『愚者』を見てください。彼は崖から落ちたのではありません。飛び立ったのです。忠実なパートナーである『あなた』を蹴り飛ばしてね」


女性の唇が震える。


「そ、そんな…! あの人は仕事のトラブルに巻き込まれたんじゃ…」


「いいえ。この袋を見てください」


私はカードの中の愚者が持っている袋を指差した。


「彼は夢を追ったのでも、トラブルに遭ったのでもありません。ただ、欲と女に目が眩んだだけ。…心当たりはありませんか? 家の貯蓄、あるいは換金できる貴金属」


図星だったのだろう。女性の喉がヒュッと鳴る。

先月、消えていた定期預金。夫の怪しい電話。全ての点と線が繋がった、と声を震わせた彼女の瞳から涙が溢れ出した。


「あ……あぁ…っ! 嘘よ、嘘だと言って……!」


その瞬間だった。


彼女の背中から、どす黒く、しかし熟れた果実のような甘美な香りを放つ紫煙が立ち上ったのは。


事実を直視した絶望。裏切りの認識。


それらは純度の高い『食材』となって、狭い個室を満たしていく。


紫色の煙は、天井や壁をまるで幽霊のようにすり抜けていく。


ここから先はコウの仕事だ。

壁の向こうの厨房で、彼が嬉々としてシェイカーを振る姿が目に浮かぶ。


私は目の前で泣き崩れる彼女に、最後の一枚、右端にある未来のカードをめくった。


そこに描かれていたのは、積み上げられたカップに背を向け、険しい山へと歩き去る人物。


『カップの8(8 of CUPS)』


なぜ…?


しかし、一瞬浮かんだ疑問は切り捨て、解釈を伝える。


「…これが、貴方に訪れる未来であり、唯一の対策です」


「未来…? 彼が戻ってくるんでしょうか」


「いいえ。貴方が彼と同じことをするのです」


私はカードの絵柄を指先でトントンと叩いた。


「この絵を見て。彼は自分の積み上げた財産や感情カップを置いて、自ら立ち去ろうとしている。 崩れた塔の下で彼を待っていても、瓦礫に押し潰されるだけ。だから、貴方も未練を断ち切り、物理的に彼や彼との生活の拠点から離れなさい」


「え…? でも、ローンも残っていますし……」


「捨てなさい」


私は即答した。


「泥舟に残れば一緒に沈むわよ。 今すぐ荷物をまとめ、弁護士を立てて、家を出る。それが、貴方が生き残るための唯一のルートです」


女性は漏れ出そうになる嗚咽をハンカチで必死に塞いだが、見開かれた瞳からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

その瞳にはまだ、理屈では割り切れない未練が揺らめいている。


だが、未来のカードがそう示している以上、それが彼女にとっての「正解」のはずだ。


私はカードを回収し、静かにクロージングへ向かった。

やるべき警告はした。


あとは、この顧客が感情というノイズを捨てて、提示された未来を選び取れるかどうかだ。


そうして数分後、女性客を見送り、カラン、と乾いたベルの音が二度鳴ったことを確認した私は、個室から出てカウンターへと戻った。


上質なグレーの三つ揃えスーツ。血のように深い赤のネクタイ。

無駄のない仕草で革の書類鞄を脇に置いたその男性は、営業職にしか見えない。

だが、その瞳だけが…人間のものではなかった。


契約と誘惑を司る悪魔、メフィストフェレス。


その手には、先ほどコウが抽出したばかりの、紫色のカクテルが握られている。 彼は長い指でグラスを揺らし、その色合いを楽しむように目を細めた。


「……芳醇だ」


メフィストフェレスは、グラスの中身を優雅に流し込むと、喉を鳴らして笑った。


「この突き刺すような酸味……。信じ切っていた世界が足元から崩れ去る瞬間の、脳が焼けるような衝撃だ。…たまらないね」


「お気に召して何よりです。本日のカクテルは『信頼の崩壊・愛人添え』でございます」


私が微笑むと、悪魔は大袈裟に肩をすくめ、満足げに代金…彼らにとっての通貨である『契約の証文(魂の引換券)』をカウンターに滑らせた。


「ごちそうさま。やはり、人間の不幸は蜜の味がする」


彼は芝居がかった仕草で帽子を持ち上げると、煙のように闇の中へ消えていった。


店には再び静寂が戻る。

私はグラスを磨きながら、コウに話しかけた。


「今日は随分と忙しかったわね…ふふ、次はどんな迷い人が来るかしら」



その瞬間だった。



カウンターの隅、悪魔が座っていた場所に…ふと、紫色の微粒子がわずかに残っているのを、私は見逃さなかった。


そこにあるのは、ただの染みではない。

指先でそっと触れてみると、不意に冷たい違和感がひんやりと皮膚に広がった。


「…これは……」


私はこの異変を知らせようと、カウンターの奥にいるコウへ顔を向けた。

しかし、彼を呼ぼうとしたその時。


「おや……これは『ただの裏切り』じゃありませんよ」


一瞬ハッと息を飲んだものの、その聞き慣れた声の主を諌めるように、私は眉をひそめた。


「近すぎますよ」


そう言った私は、ゆっくりと後ろを振り返る。


「ああ、失礼いたしました。そろそろお時間なので、お迎えにあがったのですが」


モノクルの奥の瞳は、私をじっと見つめたまま微かに微笑んだように見えた。


私が住む「霧の狭間の館」の執事、セバスチャンだ。

闇夜を仕立てたような燕尾服に、黒い髪を撫で付けた紳士。

その立ち姿は影のように静かで、しかしナイフのような鋭さを秘めている。


「ただの裏切りではないって、どういうこと…?」


セバスチャンの言葉を反芻した瞬間、ふと背筋に、ぞくりとした感覚が走る。

この紫色の染みから感じるのは、悲しみや絶望だけではない。もっと底知れない、粘着質で暴力的な「何か」が混じっている。


「…詳しくは館で検分しましょう。とりあえず時間ですので、帰りますよ」


セバスチャンは私の疑問をさらりと流し、うやうやしく手を差し出した。

私は釈然としないものを感じながらも、その手には応えず、カウンターの下にあった予備の小瓶を取り出し、その微粒子を掬い取った。


それから、踵を返して裏口へと向かう。


「コウくん、あとはよろしくね。また明日」


そう言って厨房の横を抜け、裏口のドアを開ける。


外は相変わらず雨が降っているはずなのに、裏口を出た先には鬱蒼とした森が広がり、フクロウとオオカミの声だけが遠くに聞こえるだけだった。

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