第1話 真夜中のタロット(前編)
深夜のタロットカフェ『ヴィスコンティ』。
大通りから一本入った路地裏に潜むこの店の鑑定は、巷に溢れる「癒し」や「耳触りの良い慰め」とは一線を画す。
ここは19世紀の古典的な流儀に則り、甘言を排して『事実』だけを突きつける場所だ。
アンティーク調のドアを開ければ、そこには濃密なコーヒーの香りと、どこか浮世離れした静寂が満ちている。
壁には、タロットの大アルカナをモチーフにした絵が何枚も飾られている。
それらは同じ画家が描いたものだというのは一目瞭然で、叔母がコツコツと集めているものだ。
吸血鬼が帰った後、店内のお客様はゼロになった。
特にすることもなくて、何気なくカウンターの背後にある壁に並んだ絵画たちを眺めているのだけれど…
「ねえ、この『魔術師』の絵。机の上のアイテムの配置、デタラメすぎない?魔術の祭壇なら、東に剣、南に杖って方角の基本ルールがあるのに、ただ横に並べてるだけじゃない」
前から額の埃を払うたびに気になっていたことを口にしてみる。
「ええ?店長、細かくないですか?」
「まあ、個人的な好みと言えばそれまでだけど…『教皇』の足元の鍵は90度にクロスしてほしいし、あっちの『正義』に関しては、なんか天秤が傾いてない?」
コウは振り返って絵を眺めると、
「手描きなんてそんなもんじゃないですかね?」
と、さほど興味もなさそうに答えた。
手描きだからと言われたらそれまでだけれど、他にもいくつか気になる絵があることを伝えようとしたその時、カウンターの奥で、コウがタブレット端末を指先で弾いたのが目に入った。
「店長、24時に『予約』が入りましたよ。ついさっき、十分前です」
「…随分と急ね」
「相当切羽詰まってるみたいですね。備考欄、空白ですもん」
コウは呆れたように肩をすくめる。
当店は基本的に完全予約制だ。
深夜にわざわざ予約フォームを探し当て、滑り込みで枠を押さえる人間。その原動力は、いつだって「待ったなしの焦燥感」だ。
「ふふふ。そんなに切羽詰まる事情というのは、なんなのでしょうね」
私は先ほどまとめた食器を持って、カウンターの中へ戻る。
すると、それからすぐに再びドアベルが鳴った。
もうそんな時間か、と視線をそちらに向けると、入ってきたのは男性で、脱いだジャケットを、指一本で無造作に肩へ引っ掛けている。
うっすらと雨の雫で濡れて色濃くなっているところを見ると、雨が降り始めたようだ。
彼は、三十代半ばくらいだろうか。肘まで捲り上げたシャツに、緩んだネクタイ。
茶色がかった髪は手櫛でかき上げたように乱れ、眠たげな半眼だが、その視線だけは妙に鋭かった。
男性はカウンターへ近づくと、不躾に私を見下ろした。
その瞬間、半開きの瞳がすっと細められる。
値踏みするような、あるいは不可解なものを見るような、ねっとりとした視線。
しかし彼はすぐに本題を思い出したようで、懐へ手を伸ばした。
「警視庁の九条と言います。…この辺りで、殺人事件がありまして」
黒い手帳を一瞥させると、今度はポケットから一枚の写真を取り出す。
彼はそれを指先で弾き、カウンターの上を滑らせて私の前へ寄越した。
写っていたのは、強張った顔の中年男だ。
「こいつに見覚えはありませんか」
私は写真に視線を落とし、短く首を振った。
「いいえ」
傍らのコウも、同じように写真を見つめる。
「僕も見たことはないですね」
すると、
「…そうですか」
九条という刑事は私の顔を今一度じっと見つめ、何かを言いかけて、飲み込んだ。
わずかな沈黙。
彼は名刺をカウンターに置くと、
「何か思い出したり気づいたことがあれば、連絡をください」
そう言い捨てるように告げ、踵を返して出て行った。
残された名刺を手に取る。
「警視庁捜査一課……九条、朔夜」
無愛想な男だったが、あの視線…私の奥底まで覗き込もうとするような瞳は少し気にかかった。
しかし、名刺はそのままカウンターの引き出しにしまった。
時計の針は、深夜24時5分を回ったところだった。
カラン、コロン。
そこに、タイミングを計ったように、ドアベルが鳴る。
湿った夜風と共に店に入ってきたのは、三十代半ばと思しき女性だった。
雨に濡れた髪。抱きしめたブランドバッグ。そして、焦点の定まらない瞳。
「…いらっしゃいませ。24時にご予約のお客様ですね?」
私が静かに声をかけると、女性はすがりつくようにカウンターへ歩み寄った。
「あ、はい…! あの、ここ、本当に何でも占ってもらえるって……」
掠れた声。喉が渇ききっている音だ。
私は手元のグラスを置き、一番奥にある個室の入り口を示した。
「ええ、もちろんです。どうぞ、こちらへ」
そう言って女性と共に個室へと向かう。
個室に入り、ドアを閉めると、女性は安堵したように息を吐き、崩れ落ちるように席に座った。
その全身から、プンプンと漂ってくる匂いがある。
雨の匂いではない。もっと重く、湿った『荒廃』の予感。
「夫が…夫が帰ってこないんです」
私が席に着くや否や、女性は震える声で言った。
濡れた髪が頬に張り付き、化粧は涙で無残に崩れている。それでも彼女は、バッグを赤子のように抱きしめ、縋るような目で私を見ていた。
「もう三日も。電話も繋がらないし、GPSも切られてて……。警察に行こうとしたら、義母に『世間体が悪いからやめろ』って止められて」
よくある話だ。
男が消える理由は、事故か事件か、あるいは…自らの意思か。
目の前で涙を流す彼女を見ても、私の中に「可哀想」という同情は一切湧かない。なぜなら、私の感情を司どる機能は、あの日を境に完全に『欠落』しているからだ。
もっとも、これまでの人生経験と記憶は残っているので、「相手に寄り添うような痛ましい表情」を顔に貼り付けるくらいのことは造作もない。
普段のカフェ業務は、そうやって客商売用の表情や対応をシミュレートしてやり過ごしている。
だが、タロットを展開する『鑑定』の時だけは別だ。
カードからのノイズを消し去るためというのもあるが、何よりこの店の「甘言を排し、事実だけを突きつける」という流儀には、感情がない今の状態の方が、ひどく理にかなっていて、やりやすかった。
私は一切の表情を消したまま、カウンターの下から木箱と黒いレースの手袋を取り出した。
そして、手袋をゆっくりと嵌めながら、女性に視線を送る。
「居場所と、無事かどうかを知りたいということですか?」
「はい。…それと」
女性は唇を噛み締め、視線を落とした。
「女がいるのかどうか、も」
私は小さく頷いた。
十分だ。彼女の疑念は、すでに確信に変わっている。あとは誰かに「背中を押してほしい(トドメを刺してほしい)」だけだ。
「…承知しました。ですが、鑑定に入る前に、これだけは確認させてください」
私は黒いレースの手袋を嵌めた指先を立て、彼女の言葉を遮った。
「当店は『癒し』を売る店ではありません」
「え…?」
私は声音を一段低くし、店内の温度を下げるように冷ややかに告げた。
「事実を、そのまま突きつけるだけ。傷つこうが、絶望しようが、当店は一切の責任を負いません。それでも知りたいですか?」
沈黙が落ちる。
女性はごくりと唾を飲み込み、震える手で膝の上のハンカチを握りしめた。
恐怖はある。だが、それ以上に「知らなければ狂ってしまう」という飢餓感が勝っている。
「……はい」
彼女は掠れた声で、しかしはっきりと頷いた。
「覚悟は、できています。…本当のことが、知りたいんです」
「わかりました。契約成立ですね」
私は口元をわずかに緩めた。
その「知りたい」という欲求こそが、扉を開く鍵になる。
「シンプルでいい」
私はカウンターの上に、カードを一列に展開した。
黒いビロードのクロスの上に、裏向きのカードが三枚、静かに並ぶ。 私はその中央、現在の状況を示すカードに指をかけた。
「では、現実を見てみましょう」




