ここはお客様の悩みを料理に変える場所
「…ふむ。今日の『熟成赤身のフィレ』は、少し苦味が強いな」
23時半を回ろうとする深夜。
照明を落とした店内で、その男性はナイフとフォークを使い、皿の上の「それ」を上品に口へ運んだ。
蒼白な肌に、仕立ての良い漆黒のスーツ。
グラスには、年代物の赤ワインのように濃い液体が揺れている。
傍目には、濃厚な赤ワインソースがかかった極上のレアステーキに見えるだろう。
ナイフを入れるたびに赤い肉汁が滲み出し、芳醇な香りが漂っている。
けれど、その肉が牧場で育った牛ではないことを、私は知っている。
「お客様、お気に召しませんでしたか?」
「いや、悪くない。この舌に絡みつくような鋭い渋み……かなり長い期間、血の滲むような努力で『熟成』されていたと見える。芸術という名の、狂気の味がするよ」
男性…夜の闇に生きる高貴な吸血鬼は、真っ赤に染まった唇をナプキンで拭い、恍惚の表情を浮かべた。
彼の言う「熟成」が、肉の管理方法のことではなく、その持ち主が身を焦がし続けた「焦燥感」を指していることに気づく者は、ここには私と厨房の「コウ」しかいない。
彼の視線の先には、カウンター席で突っ伏している一人の女性がいる。
足元には、黒いヴァイオリンケース。
先ほどの鑑定で彼女に決定打を与えたのは、『ペンタクルの8(EIGHT of PENTACLES)』のタロットカードだ。
血の滲むような反復練習。だがそこに、もはや芸術と呼べる魂は一ミリもない、と突きつけられた無機質な事実。
しかし、彼女はもう、震えていなかった。弓を握る気力すら、あの皿の上に搾り取られてしまったからだ。
「ありがとうございました…」
私の声も聞こえていないのだろう。
女性は糸が切れた操り人形のように立ち上がり、ケースを抱えると、ふらふらと店を出て行った。
彼女の背中に重くのしかかっていた「スランプの絶望」は、もうない。
物理的に、あのステーキとして調理され、そこにいる吸血鬼の胃袋の中に収まってしまったからだ。
「ふぅ。素晴らしい晩餐だった。やはり、天才の苦悩は血の味がして美味い」
吸血鬼もまた、満足げに席を立つ。
「ああ、そういえば、この近くで何かあったのか、刑事が手当たり次第に聞き込みをしていたよ。物騒な世の中だね」
彼はそれだけ言い残すと店を出て行った。
カラン、と乾いたベルの音が二度鳴り、店には静寂だけが残った。
「……さて」
私はカウンターを出て、男性が座っていたテーブルを片付け始めた。
空になった皿。グラスに残った氷。
そして、その場に漂う、甘く濃厚な余韻。
私はふと手を止め、カウンターの奥へ声をかけた。
「コウくん。……チップが置いてあるわよ」
私の言葉に、厨房から青年が顔を出す。
「おや、気前がいいですね。上質な『悦楽』だ」
琥珀色の瞳が、嬉しそうに細められた。
彼はテーブルの上に漂う、真紅の燐光……人間には視えない『満足感』の残り香を見つけると、手慣れた仕草で空気を撫でた。
すると、テーブルの上に漂っていた赤い光の粒子が、吸い込まれるように彼が手にした小瓶の中へと収まっていく。
蓋を閉めると、瓶の中で紅色の煙がゆらゆらと揺らめいた。
「いい出汁になりそうだ。次の料理の隠し味に使いましょう」
私は嬉しそうに厨房に戻るコウの背中を見送ると、クロスを整える。
ここはお客様の悩みを料理に変える、タロットカフェ『ヴィスコンティ』。
そして私は、ただの店主…ということになっている。




